| 天海勝之進 | |||
| 職名 | 局長附 | ||
| 出身 | 不明 | ||
| 終焉場所 | 仙台 | ||
| 終焉方法 | 離隊 | ||
慶応三年に入隊しました。
会津母成峠の戦いで敗走し仙台で離隊します。
以後の消息は不明です。
母成峠から仙台まで、隊が崩れていく道のりです
天海勝之進が離れた仙台は、新選組が形を失っていく道の終わりに近い場所でした。慶応四年八月二十一日の母成峠の戦いで敗れると、隊は会津から北へ落ちていきます。土方歳三はさらに北をめざしましたが、仙台まで来たところで隊を離れる者が相次ぎました。天海勝之進もその一人です。ここから先、榎本武揚の艦隊に乗って蝦夷地へ渡った者と、そこで別れた者とに分かれます。慶応三年に入った隊士にとっては、入ってから一年ほどの出来事でした。
局長附という役
史料での呼び名は「局長付見習」で、局長・近藤勇の身のまわりに仕える役でした。ただし近藤は慶応四年四月に流山で捕らえられ、四月二十五日に板橋で斬られています。仙台まで来た局長附の隊士は、仕えるべき局長をすでに失っていたことになります。
名の残らなかった隊士
天海勝之進について分かるのは、慶応三年に入ったこと、母成峠で敗れて仙台で離れたこと、それだけです。生まれた年も、どこの出かも、そのあとどうなったのかも伝わりません。新選組に名を連ねた者は延べで四百人を超えるとされますが、そのうち経歴のたどれる者はごく一部で、多くはこのように数行の記録しか残していません。

仙台で、去る者と入る者がすれ違いました
慶応四年八月の母成峠に敗れた新選組は、会津から仙台まで落ちていきます。そして仙台が、この隊にとって最後の分かれ道になりました。土方歳三は榎本武揚の艦隊と合流してさらに北へ向かうことを決め、十月十二日に折浜を出て、二十日に鷲ノ木へ上陸します。ここから先へ進めば箱館まで行くことになりますが、天海勝之進はその船に乗りませんでした。
逆にこの仙台で、新たに隊へ入った者たちがいます。一瀬寛次は永倉新八が「土方歳三函館へ脱走の際募集せし同士なり」と書き留めた隊士で、天野十郎も仙台で加わったとされる一人です。九月十七日には桑名藩の十七人が、十九日には松山藩と唐津藩の藩士が入隊しました。榎本が艦に乗せる人数を絞っていたため、主君に付いていきたい他藩の家臣が新選組の名義を借りた—という事情です。同じ町の、おそらくは同じ数日のうちに、隊を離れる者と隊の名を借りる者がすれ違っていたことになります。
大砲役下役という役
この隊士について記す資料には、もう少し細かい経歴が載っています。慶応三年六月以降に入隊して局長附となり、鳥羽・伏見を経て江戸へ帰り、流山から会津へ入って大砲役の下役をつとめた、というものです。慶応四年六月に猪苗代湖の南の三代で作られた名簿には、大砲警備隊の下役として名があるとされます。京にいたころの新選組は刀で人を捕らえる組織でしたが、母成峠古戦場跡まで来た新選組は砲を据えて陣を守る部隊になっていました。同じ隊の名でありながら、やっている仕事がまるで違います。なおこの名簿の正式な名称までは確認できません。
離れたあとは分かりません
仙台で隊を離れたあとの消息は伝わっていません。脱走として罰せられた記録もありませんが、このころの新選組に、去る者を追う力はもう残っていませんでした。伊東隼之助のページに書いたとおり、脱走した者がみな追われたわけではありません。

天海勝之進の生きた時代—近藤勇の広島行き
長州訊問使 慶応元年(1865)十一月、幕府は長州藩の処分をめぐって、大目付の永井尚志らを広島へ送り、長州の使者を問いただしました。このとき近藤勇は、伊東甲子太郎・武田観柳斎らとともに永井に随行して広島へ向かっています。近藤は長州の内情を探り、あわよくば長州に入って様子を見ようとしましたが、許されませんでした。
政治に関わる新選組 新選組は京都の治安を守るだけでなく、近藤が幕府の要人とともに政治の交渉にかかわるほどの存在になっていました。天海勝之進が入隊するのはこの二年後の慶応三年で、局長附として近藤のそばに仕えたのはそれからのことです。
慶応三年、入隊したころの新選組
幕臣となった隊
天海勝之進が加わった慶応三年の六月、新選組の隊士たちは幕府の家臣に取り立てられました。浪士の集まりから始まった隊が、正式に幕府の組織の一部となったのです。近藤勇は見廻組与頭格の待遇を受け、局長附の役には、近藤の身の回りを支える者が置かれていました。同じ六月、屯所は西本願寺から不動堂村へ移っています。このころの主な幹部は次のとおりです。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、井上源三郎 ほか
- 斎藤一は三月に伊東甲子太郎らとともに隊を離れ、十一月に戻ったとされる
- 参謀だった伊東甲子太郎、九番組長の鈴木三樹三郎、八番組長の藤堂平助らは、三月に御陵衛士として分離
大政奉還と鳥羽伏見へ
この年の十月、将軍慶喜は大政奉還を申し出ました。幕府がなくなれば、幕臣となったばかりの新選組の立場も揺らぎます。十二月には隊は伏見奉行所の守りに就き、近藤は墨染で狙撃されて肩を撃たれました。年が明けた慶応四年一月三日、鳥羽伏見の戦いが始まります。
参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:天野十郎(平隊士)
次の隊士 ▶:新井忠雄(諸士取調役兼監察)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



