| 市橋鎌吉 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 尾張 | ||
| 終焉場所 | 京都 | ||
| 終焉方法 | 不明 | ||
慶応元年に京都にて入隊しました。
翌2年に死亡するが死因は不明です。

市橋鎌吉をもっと深く—入隊の翌年に、京都で死にました
出身は尾張。尾張藩六十一万九千五百石、御三家筆頭の国です。慶応元年に京都で入隊し、翌慶応二年に死んでいます。死因は分かっていません。
「京都で入隊」という記録
この人の記録で目を引くのは、入隊地が京都だという点です。
新選組の隊士募集は、土方歳三が江戸へ下って行ったものがよく知られています。石川三郎も逸見勝三郎も、慶応元年の江戸募集で入りました。
ですが京都でも人は入っています。市中で見て、志願した人がいたということです。八月十八日の政変と池田屋で名を上げた直後の時期にあたります。
尾張藩は、二年後に大きく動きます
故郷の尾張藩は、幕末の局面で決定的な役割を果たしました。
藩主・徳川慶勝は御三家筆頭でありながら、第一次長州征討の総督を務めたあと、第二次長州征討の総督を固辞しています。そのため代わりに指名されたのが沼津藩の水野忠誠でした(水野は出陣前に沼津城中で急死します)。
そして慶応四年正月、慶勝は新政府側につき、藩内の佐幕派を粛清しました(青松葉事件)。さらに三河吉田藩の降伏を斡旋するなど、東海道筋の諸藩を新政府側へまとめる役を担っています。
御三家筆頭が官軍についたことは、幕府方にとって痛手でした。市橋鎌吉はそれを見ずに死んでいます。
死因が分からないということ
慶応二年に死んだ、とだけ伝わります。斬られたのか、病んだのか、粛清されたのか—記録がありません。
新選組では隊士の死が必ずしも詳しく記録されていません。石川三郎のように切腹の日付と名乗りまで残る例がある一方で、この人のように「翌年に死亡」だけで終わる例のほうが多いのです。名簿に載ったこと自体が、この人が確かにいた証拠です。
新選組隊士全456名情報
二つの記録が、別の年を指しています
死んだ年を慶応二年とする資料がありますが、京都の光縁寺に伝わる記録は別の年を示しています。同寺の過去帳にあたる『往詣記』と墓碑に、市橋鎌吉の名乗りを「義次」とし、没したのを慶応三年十月七日と記した記載があるのです。一年の違いですが、慶応三年十月七日といえば大政奉還の一週間前で、京の空気がまるで違う時期にあたります。どちらが正しいかを決める材料は見つかりませんでした。
光縁寺という場所
光縁寺は壬生の屯所から近い寺で、新選組の隊士たちが葬られた場所として知られています。市橋鎌吉は合同墓に入っているとされ、同じ寺には石川三郎や松原忠司も眠っています。屯所で死んだ者、切腹させられた者、病で倒れた者が、身元の分からないまま同じ墓にまとめられているわけです。死因が伝わらない隊士でも、寺の過去帳にだけは日付が残る—市橋鎌吉はそういう一人になります。
板橋の碑にも名があります
東京都北区滝野川の新選組供養塔にも、この人の名が刻まれています。明治九年に永倉新八が発起人となり、旧幕府の医師だった松本良順の協力を得て建てた碑で、刻まれているのは建立までに亡くなった百十人です。京の光縁寺と江戸の碑と、二か所に名が残っていることになりますが、それでも出身や死因までは伝わりませんでした。尾張藩の領から出てきたと記す資料はあるものの、そこから先はたどれません。
市橋鎌吉の生きた時代—尾張藩の立場
御三家筆頭の尾張 市橋鎌吉は尾張の出身です。尾張藩(徳川家六十二万石)は御三家の筆頭で、前藩主の徳川慶勝は、元治元年(1864)の第一次長州征討で征討軍の総督を務めました。慶勝は長州に寛大な処分を行い、戦わずに兵を引いています。
新政府の側へ その尾張藩は、慶応四年(1868)の正月、藩内の佐幕派とされた重臣たちを処刑して(青松葉事件)、新政府の側に立つことを決めました。御三家の筆頭が新政府についたことは、東海道や中山道の諸藩の動きに大きな影響を与えます。尾張出身の市橋の故郷もまた、幕府から離れていったのです。
入隊したころの新選組と、尾張藩の幕末
京都で入った隊士
市橋鎌吉が京都で入隊したとされる慶応元年は、新選組が最も大きくなった年です。前の年の池田屋事件と禁門の変で名を上げた隊には志願者が集まり、総勢はおよそ二百人に達したとされます。江戸での募集だけでなく、京都で直接加わる者も少なくありませんでした。このころの主な幹部は次のとおりです。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 総長:山南敬助(慶応元年二月に切腹)
- 参謀:伊東甲子太郎
- 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
- 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
- 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助
青松葉事件
市橋の故郷とされる尾張藩は、御三家の筆頭でありながら、幕末には前藩主・徳川慶勝のもとで朝廷寄りの道を歩みました。慶応四年一月、藩内で佐幕派とみなされた重臣たちが、慶勝の命で次々と処刑されます。「青松葉事件」と呼ばれるこの粛清で、尾張藩は新政府側に立つことをはっきりさせました。新選組に身を投じた尾張の若者と、新政府についた故郷の藩とは、正反対の道をたどったことになります。
参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:一瀬寛次(平隊士)
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