| 青木連 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 江戸 | ||
| 終焉場所 | 函館弁天台場 | ||
| 終焉方法 | 降伏 | ||
蝦夷渡海後に入隊しました。弁天台場にて降伏しました。
静岡藩に引き渡されたがその後消息不明です。
青木連をもっと深く—蝦夷に渡ってから入った隊士
新選組に入った時期で、その人がどんな隊を見たかがだいたい決まります。この青木連は、いちばん最後に入った組です。
負けたあとに、加わっています
出身は江戸。入隊は蝦夷へ渡ったあとでした。
時期を確かめておきます。旧幕府軍が蝦夷地へ渡ったのは明治元年十月。近藤勇はその半年前に板橋で処刑されており、鳥羽伏見も上野も会津も、すべて終わったあとです。勝ち目は残っていませんでした。
それでも人は入ってきました。青山次郎が会津藩士ら二十人を連れて入隊したのも同じ時期です。仙台では唐津・桑名・備中松山の藩士が加わっています。行き場を失った幕府方の人間が、最後に流れ着く先が新選組でした。
弁天台場で降伏
明治二年五月十一日、土方歳三が一本木関門で戦死します。弁天台場の新選組を救援に向かう途中でした。
台場は四日後の五月十五日、永井尚志以下二百四十名で降伏します。青木連もその中にいました。そしてその日、相馬主計が隊長に選ばれています。新選組の最後の局長です。
静岡藩へ引き渡され、そこで記録が切れます
降伏後、青木連は静岡藩に引き渡されました。徳川宗家が駿河七十万石で移された、あの静岡藩です。
幕臣の身柄を旧主の家が引き受ける、という処理でした。沼津藩や浜松藩が房総へ追い出されて空いた土地に、徳川家と旧幕臣が移り住んでいた時期にあたります。
そして、以後の消息は分かっていません。
戦って死ねば記録に残り、生き延びれば記録から消える。当サイトの隊士ページをたどっていくと、「その後消息不明」で終わる人がいくつも並びます。青木連もその一人ですが、少なくとも「蝦夷で入隊し、弁天台場で降伏し、静岡へ送られた」ところまでは残っています。
新選組隊士全456名情報
一度は青森まで行って、連れ戻されています
静岡藩へ引き渡されて記録が切れると上に書きましたが、そこへ至るまでの経緯が少し変わっています。明治二年五月十五日に弁天台場跡で降伏したあと、この人はいったん台場で謹慎し、十月二十四日には青森港から大坂艦に乗せられました。ところが東京へ送られる同志とはそこで別れることになり、翌二十五日の夜、ふたたび蝦夷地へ上陸して弁天台場で謹慎を続けています。静岡藩へ引き渡されたのは明治三年四月十日で、長鯨艦に乗って蝦夷地を離れたのが十五日でした。降伏から一年近く、津軽海峡を行ったり来たりしていたことになります。
読みは「あおき むらじ」とされます
「連」を「むらじ」と読む資料があります。もとは徳川家の陸軍の兵で、御目見以下の身分だったとも記されています。幕府が洋式の陸軍を持っていたことはあまり知られていませんが、その兵が幕府の瓦解とともに行き場を失い、北へ向かった者が新選組に加わった—そういう一人だったようです。
箱館の新選組には、分隊がありました
青木連の所属は第二分隊とされます。阿部隼太のページに書いたとおり、蝦夷地へ渡ってからの新選組はいくつかの分隊に分かれていて、第二分隊の嚮導役は中島登でした。同じ第二分隊には明石覚四郎もいます。ただし明石が唐津の旧藩へ引き渡されたのに対し、青木は静岡藩へ送られました。静岡は徳川家が七十万石に減らされて移った先ですから、もと幕府の陸軍兵であるこの人は、徳川家そのものへ返されたということになります。なおここに書いたことは典拠の史料名が示されていない資料によるもので、裏づけまでは取れていません。
青木連の生きた時代—二股口の戦い
土方の勝利 箱館戦争の明治二年(1869)四月、新政府軍は蝦夷地の西海岸の乙部に上陸し、箱館へ向けて進みました。このとき、内陸の二股口で新政府軍を迎え撃ったのが、土方歳三の率いる部隊です。土方の兵は胸壁を築いて昼夜にわたって撃ち合い、新政府軍をたびたび退けました。
それでも 二股口の守りは固かったものの、海沿いの道を進んだ新政府軍が背後に回り込む危険が高まり、土方はついに兵を箱館へ引き上げます。旧幕府軍は次第に追い詰められ、五月に降伏しました。江戸出身の青木連も、箱館の新選組の一員として最後まで戦った一人です。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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