河合耆三郎【新選組隊士 勘定方 幕末】

京都の寺の墓碑に供えられた白菊と線香
河合耆三郎
職名 勘定方
出身 播磨高砂
終焉場所 京都
終焉方法 切腹
播磨高砂の米問屋の生まれで、勘定方として隊の経理を担いました。 池田屋事件にも加わり、褒賞を受けています。 慶応二年に切腹を命じられましたが、その理由ははっきりしていません。
目次

河合耆三郎をもっと深く—隊のお金を預かった勘定方の切腹

剣ではなく帳簿で新選組を支えた隊士です。そしてその死の理由は、いまもはっきりしていません。

高砂の米問屋の跡取り

天保九年、播磨国高砂(いまの兵庫県高砂市)の裕福な米問屋に生まれました。大坂の商家に嫁いでいた妹の口ききで新選組に入り、商家の出らしく勘定方として隊の経理を任されます。元治元年の池田屋事件にも加わり、褒賞金を受けています。

慶応二年二月、切腹

慶応二年二月十二日、河合は切腹を命じられました。二十九歳です。

理由には、隊の金が合わなかった、近藤勇の金遣いをいさめた、金を流用したと疑われた、などいくつもの説があります。実家から金が届くのを待ってほしいと願ったが間に合わなかった、という話もよく語られますが、どれも確かめられてはいません。粛清に至った背景は分かっていないというのが実情です。

河合耆三郎の歩みを年表で

年できごと
天保九年(1838)播磨国高砂の裕福な米問屋(蔵元)に生まれる
文久三年〜元治元年ごろ大坂の商家に嫁いだ妹の口ききで新選組に入り、勘定方になる
元治元年(1864)六月池田屋事件に加わり、褒賞金を受ける
慶応元年(1865)三月屯所が壬生から西本願寺へ移る
慶応二年(1866)二月十二日切腹を命じられる。二十九歳。壬生寺に葬られる

河合耆三郎を読み解く

切腹の理由とされる七つの説

河合の切腹の理由には、大きく分けて次のような説があります。

説中身見方
身請け金の説近藤勇が深雪太夫を身請けする金をすぐに出せなかった近藤の側の事情に結びつけた話で、信用しにくいとされる
経理の失敗説ほかの芸妓の身請けなどで帳簿が合わなくなった勘定方の責任を問われたという筋は通る
苦言説近藤の金遣いをいさめたことで恨まれた裏づけとなる記録はない
流用説隊の金を使い込んだと疑われた疑いがかけられた理由ははっきりしない
反乱の企て説隊に背く動きに関わったとされた根拠は乏しい
私用の使い込み説自分のために金を使った裕福な実家を持つ河合には考えにくいともいわれる
送金の遅れ説不足分を実家に頼んだが、実家の事情で金が届くのが遅れたよく語られるが、確かめられていない

どの説も決め手はありません。ただ、「隊のお金が理由だった」という点では、多くの説が重なっています。

米問屋の跡取りが勘定方に

新選組の隊士の多くは、武士や郷士、農民の出でした。そのなかで河合は、商家の生まれで算盤ができることを買われて勘定方になった人です。屯所が西本願寺に移って隊士が増えると、隊の出費も大きく膨らみました。帳簿を預かる者への目は、それだけ厳しくなったと考えられます。同じ勘定方で、慶応元年に隊を脱走したとされる酒井兵庫のページもあわせてご覧ください。

墓は壬生寺に

河合の墓は、新選組の隊士が多く眠る光縁寺ではなく、壬生寺にあります。壬生寺には、芹沢鴨の一派とされる隊士たちの墓などが集められた「壬生塚」があり、河合の墓もそこに並んでいます。墓所の違いについては新選組の墓所めぐりで整理しています。

河合耆三郎の死をさらに掘り下げる

近藤勇の留守中の切腹

河合が切腹した慶応二年二月は、局長の近藤勇が京都を離れていた時期にあたります。近藤はこの年の正月末、長州の処分を伝える老中・小笠原長行の一行に加わって、伊東甲子太郎・篠原泰之進・尾形俊太郎とともに広島へ向かっていました。前の年の十一月にも広島へ出向いており、二度目の出張です。

つまり河合の処断は、屯所に残った副長の土方歳三のもとで行われたことになります。「近藤の金遣いをいさめて恨まれた」という説が語られる一方で、当の近藤はその場にいませんでした。どの説をとるにしても、この日付の重なりは頭に置いておくとよい点です。

新選組の財布は何でまかなわれていたか

新選組は会津藩のお預かりとして手当を受けていましたが、それだけで隊士の給金や武具、屯所の費用をまかなえたわけではありません。結成まもない壬生浪士組の時代には、大坂の商家から金を借りた記録も残っています。池田屋事件のあとには幕府や会津藩から多額の褒賞金が出ましたが、これは臨時の収入です。

隊士が増え、西本願寺に屯所を移したころの新選組は、出ていくお金が大きく膨らんでいました。入ってくるお金は不定期で、出ていくお金は毎月決まっている—帳簿を預かる勘定方は、いつも苦しい立場に置かれていたと考えられます。河合の切腹の理由とされる説の多くが「お金が合わなかった」ことに集まるのは、こうした事情と無関係ではないでしょう。

商人の子が「士道」で裁かれたということ

局中法度のいちばん目には「士道に背くこと」を禁じる条があったと伝えられます。武士の家に生まれた者にとっては当たり前の掟でも、商家に育った河合にとっては、帳簿の不足という商売のうえの失敗が、そのまま命にかかわる罪になるという世界でした。

新選組には、農民や町人の出でありながら武士として生きようとした人が少なくありません。近藤や土方自身も多摩の農家の出です。武士になろうとする者の集団だったからこそ、規律はかえって厳しくなった—河合の死は、そうした新選組の性格をよく表しているように思われます。ほかの隊士の処断については新選組の切腹・粛清一覧にまとめています。

遅れて届いた金と、立派な墓

実家に頼んだ金が、切腹のすぐあとに届いたという話はよく知られています。確かめようのない話ですが、壬生寺にある河合の墓は、新選組が建てた墓とは別に親が建てた立派なものだと伝えられています。跡取り息子を京都で失った高砂の家の人々の思いが、墓の大きさに表れているのかもしれません。

河合耆三郎と関わりの深い人たち

河合耆三郎のゆかりの地

参考にした資料:新選組の褒賞・役職の記録、子母澤寛『新選組物語』ほかの聞き書き。

池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。

親が建てた墓碑

壬生寺の壬生塚には隊士の墓碑と慰霊碑が十一基あり、河合の墓碑はそのうちの一つです。寺の説明は、この墓碑を建てたのが河合の親族であると明記しています。金の不足を理由に腹を切らされた息子のために、高砂の実家が京都まで出て墓を建てたことになります。隊が建てた墓ではなく、家が建てた墓という点が、この一基の性格を決めています。

切腹の理由についても、帳簿の不足だけではない説が伝わります。近藤勇の妾を身請けする費用をめぐる話や、隊への反抗を企てたという話です。どれも決め手はありませんが、勘定方という役が金の出入りのすべてを見る立場だったことは確かです。見てはいけないものを見る役目だった、という読み方もできます。

新選組をもっと知る本

帳面の金が足りないという理由で腹を切らされた河合の一件は、隊の内側の厳しさを示す例としてよく引かれます。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、その空気を伝える二冊です。

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