| 中島登 | |||
| 職名 | 番兵取締 | ||
| 出身 | 武州多摩(八王子) | ||
| 終焉場所 | 浜松(晩年の居住地) | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
中島登をもっと深く—仲間の姿を描き残した隊士
新選組の隊士たちの姿を、自分の手で絵に描いて残した人がいます。中島登です。
八王子の農家に生まれ、千人同心に
天保九年、武州多摩郡小田野村(いまの東京都八王子市西寺方町)の農家の長男として生まれました。天然理心流を学び、八王子千人同心に加わりますが、同僚を斬って逃れたと伝わります。
江戸・甲州・相模を探る
元治元年に新選組に入ります。近藤勇の命で、武州・甲州・相模の地理を調べる役目を負ったとされ、慶応三年には伍長になりました。
慶応四年四月、流山で近藤が新政府軍に出頭した場にも立ち会っています。その後は宇都宮、日光口、会津と戦い、箱館では弁天台場を守りました。明治二年五月に降伏します。
『戦友姿絵』と覚え書
中島は、ともに戦った隊士たちの姿を描いた『戦友姿絵』と、戦いの記録『中島登覚え書』を残しました。写真がほとんど残らない隊士たちの姿を伝える、貴重な資料です。
浜松で店を開く
赦されたあとは静岡へ移り、明治十二年ごろから浜松に住みました。質屋を営んで失敗し、植物の葉蘭の新種で評判を取り、明治十七年には鉄砲火薬店を開いています。明治二十年四月二日に亡くなりました。
中島登を読み解く
千人同心から新選組へ
中島が加わった八王子千人同心は、甲州口の守りのために置かれた、半農半士の集団です。ふだんは農業を営みながら、幕府の役目も担いました。多摩には千人同心の家が多く、天然理心流もその間で広まっていました。近藤勇や土方歳三と同じ土地で、同じ剣を学んだ中島が新選組に入ったのは、自然な流れだったといえます。
地理を探る役目の意味
中島は近藤の命で、武州・甲州・相模の地理を調べたとされます。京都で活動する新選組が、なぜ関東の地理を調べさせたのか。関東に地元を持つ近藤にとって、いざというときに関東で動く備えだったのかもしれません。実際、慶応四年の新選組は甲州勝沼へ向かい、流山に陣を置くことになります。中島が調べた土地で、新選組の最後の戦いが行われたことになります。
『戦友姿絵』の価値
新選組の隊士で写真が残っている人は、ごくわずかです。中島が描いた『戦友姿絵』は、ともに戦った仲間たちの姿を、実際に見た者の手で残した記録です。絵なので写真ほど正確ではありませんが、服装や持ち物、立ち姿から、戦場の隊士の様子がよく分かります。あわせて残した『中島登覚え書』は、隊士の最期などを記した記録として、多くの研究で使われています。尾形俊太郎を「行方不明」と書いたのも、この覚え書です(尾形俊太郎のページで紹介しています)。
浜松での後半生
赦されたあとの中島は、静岡、ついで浜松に移り、質屋、葉蘭の栽培、鉄砲火薬店と、商いを変えながら暮らしました。新選組の隊士の多くは、明治になって故郷に帰るか、名前を変えて身を隠しました。中島は、旧幕臣が多く移った静岡の地で、商人として新しい暮らしを立てた人です。箱館での戦いは箱館の新選組にまとめています。
中島登の後半生をさらに掘り下げる
なぜ静岡・浜松だったのか
赦された中島が移り住んだ静岡は、明治のはじめ、徳川家の新しい領地になった土地でした。江戸城を明け渡した徳川家は、家達を当主として駿河・遠江などに七十万石で移され、静岡藩が生まれます。これに従って、多くの旧幕臣とその家族が江戸から静岡へ移り住みました。
職を失った旧幕臣たちは、牧之原の台地を開いて茶畑をつくるなど、新しい土地で暮らしを立て直していきます。旧幕府方として戦った中島が静岡へ向かったのも、こうした「徳川の人々の移住」の流れの中にあったと考えられます。浜松は、その静岡藩の中でも大きな町の一つでした。
葉蘭と鉄砲火薬店
中島は浜松で、葉蘭(はらん)の新しい品種を見出して評判を取ったと伝えられます。明治のはじめごろには、万年青(おもと)などの珍しい鉢植えの草木が高値で取り引きされるほどの流行がありました。刀を置いた元隊士が、園芸の世界で名を上げたというのは、明治という時代の意外な一面を見せてくれる話です。
その一方で、中島は鉄砲や火薬を商う店も開いています。鳥羽伏見から箱館まで、新政府軍の銃と大砲に押されて戦い続けた人が、明治には鉄砲を売る側に回ったことになります。戦いの道具としての鉄砲ではなく、狩りなどに使う品として扱ったのでしょうが、刀の時代の終わりを見届けた人らしい商売でもありました。
絵で残すということ
新選組の隊士の写真は、近藤勇や土方歳三などごく一部しか残っていません。沖田総司の確かな肖像写真も見つかっていないほどです。そのなかで、中島がともに戦った仲間の姿を絵に描き残したことは、とても大きな意味を持っています。
もちろん絵は写真とは違い、描いた人の記憶や思いが入ります。顔立ちが本人にどれだけ似ているかは分かりません。けれども、隊士たちがどんな身なりで、どんな武器を持って戦っていたのかを、実際に戦った者の目で伝える資料はほかにほとんどありません。中島の絵は、新選組の「見た目」を知るための、数少ない手がかりなのです。『戦友姿絵』は、戦いで命を落とした隊士たちをしのんで描かれたもので、いまは市立函館博物館に伝わっています。
多摩から出て、多摩に帰らなかった
同じ八王子の出で、同じく箱館まで戦った横倉甚五郎は、明治のはじめに東京の牢で亡くなりました。中島は赦されて静岡・浜松で後半生を送り、明治二十年に五十歳で亡くなっています。二人とも、故郷の多摩に戻って暮らすことはありませんでした。多摩の隊士たちの戦後については横倉甚五郎や松本捨助のページもご覧ください。
中島登と関わりの深い人たち
中島登のゆかりの地
- 八王子(東京都八王子市)—生まれ故郷で、八王子千人同心の町。
- 近藤勇陣屋跡(千葉県流山市)—近藤の出頭に立ち会った場所。
- 宇都宮城・母成峠古戦場—北関東・会津での転戦の地。
- 弁天台場跡(函館市)—降伏した場所。
- 浜松(静岡県浜松市)—晩年を過ごした町。
参考にした資料:『中島登覚え書』、『戦友姿絵』。
蝦夷地での新選組の組織と顔ぶれは、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。
近藤勇がどこで隊と別れ、どう死んだのかは、近藤勇、最後の百日—甲陽鎮撫隊・勝沼の敗戦から流山の出頭、板橋の刑場までに日付の順でまとめています。
会津での新選組の戦いと、土方・斎藤の別れについては、会津の新選組—宇都宮・白河口・母成峠・如来堂、土方と斎藤が別れた夏にまとめています。
銃砲店と葉蘭
箱館で降伏したあと、中島は静岡藩の預かりとなって開墾に従事しました。その後、明治十二年ごろに浜松へ移り、明治十七年に中島銃砲火薬店を開いています。狩猟や競技の銃を扱う店で、旧隊士が銃を商う側になったことになります。
もう一つ知られているのが葉蘭の栽培です。「金玉簾」という品種を世に出して一財産を築いたと伝わります。刀の時代に生きた人が、明治になって銃と植木で身を立てたわけです。中島が残した「戦友絵姿」は、仲間の似姿と短い経歴を描き残したもので、新選組の隊士の顔を知る手がかりとして今も使われています。
職名について
当サイトはこの人の職名を「番兵取締」としてきましたが、この役名を裏づける資料は今のところ確かめられていません。事典類は伍長とし、箱館では弁天台場の第二分隊で嚮導役を務めたと記しています。名簿の写しによって役名の書き方が違うため、こうした食い違いが生まれます。
新選組をもっと知る本
中島登は「戦友絵姿」に仲間の似姿と短い経歴を残しました。文字で語った永倉新八『新撰組顛末記』、聞き書きでまとめた子母澤寛『新選組始末記』と並べると、誰が何を語り継いだのかが見えてきます。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:富山弥兵衛(伍長)
次の隊士 ▶:中村五郎(平隊士)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

