小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物か——横須賀を作り、罪なくして斬られた幕臣

横須賀の岸壁に並ぶ護衛艦を対岸から

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

横須賀の岸壁に並ぶ護衛艦を対岸から
対岸から見た横須賀。小栗が作らせた造船所は、いまも艦を直す場所として動いている

幕末の幕臣で、いまも横須賀に「作ったもの」が残っている人はほとんどいません。小栗忠順が着工させたドライドックは、明治四年に完成し、いまも横須賀基地で現役です。本人はその完成を見ていません。三年前に、裁判もないまま川原で首を斬られていたからです。

目次

小栗忠順とはどういう人か

生没 文政10年6月23日(1827年7月16日)〜慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)。享年42(41とする説もあり)
生まれ 江戸・神田駿河台(現在の千代田区神田駿河台一丁目)
三河小栗氏十二代。安祥譜代の旗本。2,500石を相続し、のち200石加増で2,700石
通称・官位 幼名・剛太郎、通称・又一。従五位下豊後守(安政6年)→上野介(文久3年)
学問・武芸 安積艮斎に学び、直心影流免許皆伝(島田虎之助・藤川整斎)。山鹿流兵学も修める
道子(林田藩前藩主・建部政醇の娘)
最期 上野国群馬郡権田村(現・群馬県高崎市倉渕町)の烏川・水沼河原で斬首

八歳のとき、安積艮斎の私塾「見山楼」に入りました。ここで生涯の盟友となる栗本鋤雲と出会っています。のちに横須賀の話を持ちかけるのも、「土蔵付売据」の言葉を書き留めるのも、この栗本です。

ネジを一本、持ち帰った

安政六年、三十三歳で目付。その翌日、渡米を命じられます。万延元年の遣米使節です。正使は新見正興、副使は村垣範正、小栗は目付(監察)でした。禄高の順で正副が決まったにすぎず、禄高の順で正副が決まったにすぎず、貨幣の交渉など実務の要は小栗が担いました。(なお「アメリカ側から使節の代表と勘違いされた」という話が広く紹介されていますが、当時の米紙は新見を首席使節と正しく報じており、一次史料での裏付けは確認できませんでした。

この旅で小栗は、ワシントン海軍工廠を視察しています。そして技術の差に衝撃を受け、ネジを持ち帰りました。よく「工場の床に落ちていたのを拾った」と紹介されますが、東善寺はこれを否定しています。量産しているのを見て箱でもらい受け、土産として配ったものの一本です。すりわり付きの小ねじで、旋盤で削られたものと見られます。これはいまも群馬の東善寺にあります。望遠鏡やハンドドリル、ピストルも持ち帰りました。

そのネジ一本が、横須賀造船所の出発点になりました。

造幣局で小判の品位を検分する小栗上野介のイメージイラスト

イメージ(イラスト)|造幣局での分析。小栗は小判を出して、同じ重さで比べるよう求めました。

フィラデルフィアで、小判を分析させた

造幣局の技師に小判と一分銀を示し、品位の測り直しを求める小栗
造幣局の技師に小判と一分銀を示し、品位の測り直しを求める小栗(本記事のためのイメージ図です。当時の記録画ではありません)

この遣米使節そのものについては、万延元年遣米使節とはに詳しくまとめました。七十七人の顔ぶれ、咸臨丸が実はサンフランシスコで引き返していること、ブロードウェイのパレードなどです。

この使節でいちばん重要な仕事は、条約の批准書交換ではありません。貨幣の交渉です。

何が不当だったのか

日米和親条約のころは「一ドル=一分銀一枚」でした。ところが日米修好通商条約で、ハリスが「同種同量交換の原則」を持ち込みます。銀は銀の重さどうしで交換せよ、というものです。これで一ドル=一分銀三枚になりました。

ここに落とし穴がありました。天保一分銀は、実質の価値の約三倍の名目価値を持つ計数貨幣だったのです。額面ではなく重さで換算されると、日本側が一方的に損をする構造でした。

小栗がやったこと

小栗はカス国務長官に申し出て、約半月にわたって交渉しました。そして、口で説明するのではなく物証を作りにいきます。天保小判・一分銀・一分金・二朱銀を、実際にフィラデルフィア造幣局で分析させたのです。

結果はこうでした。一分銀は三十五・六セント、一分金は八十九セント。同じ「一分」でも、銀と金でこれだけ違う。換算すると一両=三ドル六十セント前後になります(数字は資料により幅があります)。そのうえで主張したのが、次の四点です。

  • 一分銀は「楮幣」——いまでいう紙幣にあたる名目貨幣であり、銀の目方で換算すべきものではない
  • ドル銀貨と一分銀の交換を禁止せよ
  • 一分判は九十セントの定価で外国金銀貨と交換せよ
  • 新銀貨を鋳るまで、一分銀は日本人にのみ通用する楮幣とせよ

そして、負けました

交渉は不成立に終わります。アメリカ側は小栗の主張が正しいこと自体は理解しました。それでも応じませんでした。不当性を認めれば賠償問題になるからだ、とも言われます。帰国した日本は、金の含有量を減らした万延小判を発行して自衛するしかありませんでした。

百六十年前に、幕府の役人が造幣局で自国の貨幣を分析させ、数字を突きつけています。結果は負けでしたが、やっていることは現代の通商交渉と変わりません。なお帰路はナイアガラ号で大西洋を渡り、喜望峰を回って帰国しました。幕府の使節としては初の世界一周でした。(日本人として最初ではありません。一八〇四年、若宮丸の漂流民・津太夫らがロシア船で世界を一周して長崎へ帰り着いています。)咸臨丸は「護衛」として知られますが、実際は幕府側の求めで出された別船です。サンフランシスコまでで引き返しており、ワシントンにもニューヨークにも行っていません。使節本隊がまだ滞米中の万延元年五月に、浦賀へ帰着しています。

小栗上野介忠順の胸像と多言語の解説板

小栗上野介忠順の胸像。台座のわきに、生涯を記した解説板が立っています。

四度、勘定奉行になっています

帰国後の小栗の役職は、めまぐるしく変わります。外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、陸軍奉行並、軍艦奉行、海軍奉行並——そして辞任と罷免を繰り返しました。勘定奉行には四回就いています。上層部に遠慮なく直言したため煙たがられ、そのたびに役を離れました。意見の具申は七十回に及んだとも言われます。

途中、文久元年のロシア軍艦対馬占領事件では対馬へ出張し、艦長ビリレフと三度交渉しています。これも失敗に終わりました。

横須賀製鉄所——「土蔵付売据」の本当の意味

小栗の名を残した仕事です。

四年かけて反対を押し切りました

建設案を出したのは文久三年。財政難を理由とする猛反対を、およそ四年かけて説得し続けました。きっかけは元治元年、幕府船「翔鶴丸」の機関修理をフランス軍艦に頼んだことでした。担当したのが、幕府きってのフランス通・栗本鋤雲——八歳のときからの友人です。

フランスを選んだのは消去法でした。アメリカは南北戦争の最中、イギリスとロシアには侵略の懸念があり、オランダは国力が落ちていました。公使レオン・ロッシュが支援し、まず小規模にと助言して慶応元年一月に横浜製鉄所を先に置きました。

首長に迎えたのがフランソワ・レオンス・ヴェルニー。エコール・ポリテクニーク出身の技師で、約百三十名のフランス人を率いました。

着工は慶応元年十一月十五日。費用は四年継続で総額二百四十万ドル。

「土蔵付売据」——これは冗談ではありません

幕府の財政が火の車なのに、この巨費をどうするのか。栗本鋤雲にそう問われたとき、小栗はこう答えました。

いよいよ出来の上は旗号に熨斗を染出すもなお土蔵付売家の栄誉を残すべし

別の伝えではこうです。「同じ売据にしても土蔵付き売据の方がよかろう。あとは野となれ山となれでは面目が立たぬ」幕府が倒れて造船所が新政権の手に渡ったとしても、「土蔵付きの売家」として立派な財産が残る——そういう意味です。

ここが大事なところです。栗本鋤雲は自分の著書『匏庵十種』に、これは一時の冗談ではなく、時勢の行く末が避けられないと分かったうえでの覚悟の言葉だった、と書いています。

小栗は、幕府が滅びることを織り込んで造船所を作っていました。

建設費は埋蔵金ではありません

二百四十万ドルという金額が、のちに徳川埋蔵金伝説を生みます。ですが財源ははっきりしています。万延二分金——通称「小栗二分金」など、貨幣を増鋳して得た発行益です。

そして、いまも現役です

第一号ドライドックは慶応三年に着工し、明治四年に完成しました。長さ百三十四・五メートル、幅二十九メートル、深さ九メートル。いまも横須賀基地で使われています。横須賀製鉄所については、こちらで詳しくまとめています。ヴェルニーという人物、番号順に完成していないドック、日本で最初に日曜が休みになった工場の話などです。

幕府が倒れたあと、造船所は明治政府が引き継ぎました。ヴェルニーは帰国せず、任務を最後までやり遂げています。明治八年には国産軍艦第一号を進水させました。造船所だけではありません。灯台を建て、走水から約七キロの水道を敷きました。この水はいまも「ヴェルニーの水」と呼ばれています。日本の近代水道の発祥地のひとつです。

記念艦三笠を見に横須賀へ行かれた方は、ヴェルニー公園を歩いているはずです。その名前の由来が、この人です。

株式会社も、郡県制も、この人が先に言っています

小栗が「明治の父」と呼ばれるのは、造船所だけが理由ではありません。

兵庫商社——日本初の株式会社

慶応三年、兵庫開港が決まりました。このままでは外国商館が日本商人を隷属させ、利潤を独占してしまいます。それを防ぐために作ったのが兵庫商社です。資本は百万両。大坂の豪商を京都の旅館に集め、出資者がそのまま役員になる半官半民の会社でした。頭取は鴻池屋の山中善右衛門、加島屋の広岡久右衛門ら三人。肝煎六人、世話役十一人。

英語の “company” を「商社」と訳したのは小栗だとされます。

ただし実績は乏しいものでした。金札の発行は計画百万両に対して一万両のみ、外国貿易は実施されないまま、わずか半年で終わっています。王政復古と鳥羽・伏見で消滅しました。それでもこの仕組みは、三野村利左衛門らの通商会社・為替会社へ流れ、三井の発展につながっています。

郡県制——廃藩置県の先取り

小栗は幕藩体制に代わる郡県制を建議しています。中央集権国家の構想です。明治政府が廃藩置県でやったことを、幕府側で先に言っていました。

ほかにも

  • フランス式軍制改革——慶応二年十二月にフランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練開始。大砲九十門、シャスポー銃一万丁を含む後装小銃二万五千丁、軍服二万七千人分を発注(総額七十二万ドル)
  • 横浜フランス語伝習所(慶応元年)——語学に加え数学・軍事学も教えた
  • 滝野川反射炉——日本初の西洋式火薬工場(1866年完成)
  • 築地ホテル館の建設
  • 日本初の兌換紙幣、理工系・外国語学校、ガス灯、鉄道、郵便、電信の構想、恩給法・所得税・奢侈税の導入案

パリ万博では、日本の工業製品を出品してフランスを後ろ盾に国債で六百万両を調達する計画まで立てていました。これは薩摩藩の反対で頓挫します。

敵将が「実行されていたら我々の首はなかった」と認めた作戦

慶応四年一月、鳥羽・伏見に敗れたあとの江戸城。小栗は榎本武揚・大鳥圭介らとともに徹底抗戦を主張しました。その作戦が具体的です。箱根でも碓氷峠でも防がない。薩長軍を全部、関東平野に引き入れる。そのうえで両方の関門を閉ざし、袋のネズミにする。陸軍で迎え撃ちながら、旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて挟み撃ちにする——。

これを後年、敵方の大村益次郎がこう評しています。

幕府でもし小栗豊後守の献策を用いて実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかった

ですが徳川慶喜は、勝海舟の恭順論を採りました。薩長の官軍化に困惑する味方を安心させるには、朝廷に恭順を示す必要があった。明確に敵対する小栗の作戦は、採れなかったのです。

一月十五日、小栗は陸軍奉行並と勘定奉行を罷免されます。

勝海舟は、小栗をどう見ていたか

勝の小栗評が残っています。

小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の情勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無比の徳川武士で(中略)しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった

「眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし」とも書いています。手放しの称賛ではありません。なお造船所の建設についても、勝は反対する側でした。「軍艦は数年で造れても、運用する人材がいない。イギリスは人材育成に三百年かけた、日本なら五百年かかる」というのが理由です。

ちなみに「勝が後年、横須賀を小栗の功績だと称えた」という話が広く流布していますが、今回調べた範囲では出典にたどり着けませんでした。後述する東郷平八郎の言葉と混同されている可能性があります。

権田村での六十四日

罷免から十三日後の一月二十八日、小栗は上野国群馬郡権田村——いまの群馬県高崎市倉渕町権田への土着願書を出しました。二月末、渋沢成一郎から彰義隊隊長への就任を打診されますが、断っています。理由は「無名の師」——大義名分のない戦いだから、というものでした。徹底抗戦を主張した人が、私戦には加わらなかったわけです。

二月二十八日、駿河台の屋敷を出発。二度と戻りませんでした。三月一日、権田村の東善寺に到着します。ここで過ごしたのが最後の六十四日でした。

三月四日には二千人規模の世直し勢が東善寺を包囲し、これを鉄砲で撃退しています。ですがそれ以外は静かな日々でした。観音山に邸宅を建てる計画を立て、用水路(小高用水)を整備し、塾を開こうとしていました。村人の記録に、農兵訓練の様子は出てきません。その小高用水は、いまも機能しています。

小栗上野介の寺と記された東善寺の寺標

権田村(現在の高崎市倉渕町)の東善寺。寺標に「小栗上野介の寺」とある。六十四日を過ごし、いまも墓のある寺である

水沼河原での処刑を描いたイメージイラスト

イメージ(イラスト)|閏四月六日、水沼河原。取り調べは行われませんでした。

閏四月六日、水沼河原

慶応四年閏四月四日(五日とする資料もあります)、東善寺で逮捕されました。命じたのは東山道総督府。実行したのは軍監・豊永貫一郎と原保太郎が率いる高崎藩安中藩吉井藩の兵でした。そして閏四月六日の朝四ツ半——午前十一時ごろ、烏川の水沼河原で斬首されます。家臣三名も同時に斬られました。

取り調べは一切ありませんでした。裁判なしの処刑です。

罪状とされたのは、大砲二門と小銃二十挺を持っていたこと、農兵を訓練していたこと、そして徳川埋蔵金を隠していたことでした。いずれについても、根拠となる文書はいまだに出てきていません。原保太郎の問いかけに対する最期の言葉が伝わっています。

私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい

養子の小栗忠道も翌日、高崎城下で斬られました。こちらも取り調べなし。享年二十一です。逮捕から処刑までの経過、罪状をめぐる諸説、そして首を取り返した村人については、小栗忠順はなぜ斬られたのかに日付を追ってまとめました。

首は、村人が取り返しました

ここは知られていない話です。小栗の首は翌日、高崎から館林の東山道総督府へ送られました。『太政官日誌』に「小栗父子首級并武器類ハ総督府へ護送仕候」と記録があります。館林城内で岩倉具定の首実検を受け、泰安寺を経て法輪寺の墓地に埋められました。

そして明治二年の春、権田村の農民が法輪寺から首を盗掘し、東善寺の胴が埋められた場所へ運んで、一緒にしました。裁判もなく殺された領主の首を、村人が掘り返しに行ったわけです。

身重の妻は、善光寺参りに扮して逃げました

妻の道子は、このとき身重でした。善光寺参りの姿に扮し、村人の中島三左衛門らに守られて悪路を越え、閏四月二十九日に会津へたどり着きます。そして六月十日、女児を出産しました。国子といいます。松平容保の計らいで、会津藩の野戦病院に収容されました。

その後、母子の面倒を見たのが三野村利左衛門です。兵庫商社の流れを受け継いで三井を興した、あの三野村。小栗家の家臣として日本橋浜町の別邸に匿い、明治十年に自分が死ぬまで面倒を見続けました。道子は明治十八年に亡くなります。そのあと遺児の国子を引き取ったのは、大隈重信でした。

徳川埋蔵金について

小栗の名が埋蔵金伝説に出てくる理由は、整理するとこうなります。

  • 大政奉還当時の勘定奉行=幕府の財政責任者だった
  • 罷免後、上州に隠遁した——「幕府の金を持って逃げた」という噂が立った
  • 江戸城開城にともなう幕府側の処分者のうち、斬首されたのは小栗だけだった
  • 新政府が江戸城の金蔵が空だと気づいた
  • 「利根川を遡った船から、誰かが赤城山中へ何かを運び込むのを見た」という証言が出た
  • 横須賀の二百四十万ドルという金額が想像を刺激した

一九九〇年から二年半にわたるテレビ番組の発掘をはじめ、二〇一七年まで何度も赤城山が掘られました。いずれも成果はありません。

史実としても、成り立ちにくい話です。幕府の財源は五代綱吉のころにはすでに枯渇していました。小栗自身が造船所に大金を投じた人物で、資金を隠す行動とは矛盾します。維新後に徳川宗家が静岡で財政難に陥ったとき、蓄えがあれば必ず使ったはずです。そして横須賀の建設費は、貨幣発行益で賄われたことが分かっています。

埋蔵金は伝説です。ただし「小栗が処刑された理由として当時噂されたもの」としては、記録しておく意味があります。

四十四年後、東郷平八郎が遺族を招きました

明治四十五年の夏。東郷平八郎が、小栗の遺族を自邸に招いています。招かれたのは、国子の夫として小栗家を継いだ小栗貞雄と、その子の又一でした。そして東郷はこう言ったと伝えられます。

日本海海戦で完全な勝利を得ることができたのは、小栗上野介さんが横須賀造船所を作っておいてくれたおかげです

自ら揮毫した「仁義禮智信」の書も贈っています。小栗が斬られてから四十四年後のことでした。(この逸話は東郷本人の日記など一次史料での確認には至っていないため、「伝えられる」という書き方にとどめます。)

記念艦三笠を歩いたときにも書きましたが、日露戦争の勝利は艦隊の操艦だけで決まったものではありません。船を直せる場所を、誰かが四十年前に作っておいたということです。

ほかの人はこう言っています

  • 大隈重信——「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない」。しかも大隈は、実際に小栗の遺児・国子を引き取っています
  • 大村益次郎——「幕府でもし小栗豊後守の献策を用いて実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかった」
  • 福澤諭吉——「鞠躬尽瘁の人」
  • 司馬遼太郎——「明治国家の父の一人」

造船所、フランス式軍制、株式会社、郡県制、兌換紙幣、理工系と外国語の学校、鉄道・郵便・電信・ガス灯。明治政府がやったことのほとんどを、この人が幕府側で先に構想し、いくつかは着手していました。「明治の父」と呼ばれるのは、そういう意味です。

東善寺にある小栗上野介忠順と小栗又一忠道の墓

東善寺の墓所。「小栗上野介忠順」と「小栗又一忠道」の名が並んで刻まれています。父と、ともに斬られた養子です。

小栗忠順ゆかりの地

群馬県高崎市倉渕町——終焉の地

  • 東善寺(高崎市倉渕町権田169)——最後の日々を過ごした寺。父子と家臣の供養墓があり、裏山に本墓。「小栗公遺品館」に、アメリカから持ち帰ったネジ・望遠鏡・ハンドドリル・ピストルが残っています
  • 小栗忠順の墓(東善寺境内)——高さ約一メートル。「陽嘉院殿法岳淨性居士」。群馬県重要文化財
  • 終焉の地の顕彰慰霊碑(高崎市倉渕町水沼)——碑文は「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」。昭和七年、地元有志の建立。高崎市指定史跡
  • 観音山小栗邸跡(倉渕町権田3584)——礎石が残り、整備した小高用水はいまも機能しています
  • 小栗又一源忠道の墓(高崎市下斎田町335)——村民が「小栗様」として供養を続けてきました

東善寺の墓地に並ぶ小栗家ゆかりの墓碑

東善寺の墓地。丸石を積んだ石垣を背にして、二基の墓碑が並んでいます。

命日の五月二十七日ごろには、小栗上野介顕彰会による「小栗まつり」が東善寺で開かれています。

横須賀

  • ヴェルニー公園(横須賀市汐入町)——フランス式庭園。名はもちろん初代首長のヴェルニーから
  • ヴェルニー記念館——ブルターニュ地方の住宅を模した建物。旧横須賀製鉄所のスチームハンマーを展示。国の重要文化財で、機械遺産にも認定されています
  • 第一号ドライドック——明治四年完成。いまも横須賀基地で現役です(一般公開はされていません)

東京

小栗上野介屋敷跡(生誕の地)——千代田区神田駿河台一丁目。文久三年の切絵図に「小栗豊後守」とあります。現在は大部分が東京YMCA会館の敷地で、千代田区の標示板「小栗上野介ここに生まれる」が立っています。JR御茶ノ水駅から徒歩四分。

慶応四年二月二十八日、小栗はここを出て、二度と戻りませんでした。

小栗家累代之墓(豊島区・雑司ヶ谷霊園 1-4B-5区画)——大正元年九月、娘婿の小栗貞夫によって建てられた墓所です。正面に「小栗家累代之墓」と刻まれ、台石と裏面には忠順、ともに斬られた養子の又一、妻の道子、貞夫らの名と略歴が刻まれています。忠順の遺骨は東善寺にあり、こちらは遺族が都内に建てた供養の墓です。

雑司ヶ谷霊園にある小栗家累代之墓

雑司ヶ谷霊園の小栗家累代之墓。群馬の東善寺まで足を延ばせないときは、まずここを訪ねる手があります。

埼玉

普門院(さいたま市大宮区)——小栗家の江戸での菩提寺の一つで、忠順自身も権田村へ向かう道中に立ち寄り、永代供養料を納めたと伝わります。境内には文字を刻まない自然石の供養塚があり、権田で斬られた首を家臣がひそかに持ち出し、住職に託して埋めたという伝承が残ります。刻銘がないのは、新政府の目をはばかったためと言われます。

そのとなりには、徳川家康に仕え「また一番」の槍働きで名をとどろかせた小栗家の始祖・小栗忠政以下、一族の笠付墓石が並びます。養子の又一の名は、この始祖から来ています。境内にはほかに、昭和初期に建てられた「小栗上野介招魂碑」と、大砲・錨のモニュメントもあります。

普門院にある小栗上野介忠順の首塚と伝わる自然石

普門院の供養塚。文字を刻まない自然石が、首塚と伝えられています。左に並ぶのは小栗家の宝篋印塔です。

館林市が設置した小栗上野介ゆかりの法輪寺の案内板

館林市教育委員会が立てた「小栗上野介ゆかりの法輪寺」の案内板。前橋市教育委員会蔵の肖像と、乾龍山法輪寺の写真が添えられている

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』

二〇二七年のNHK大河ドラマは、この小栗忠順が主人公です。タイトルは『逆賊の幕臣』、主演は松坂桃李。幕府側から見た幕末を描く作品になります。タイトルの「逆賊」は、慶応四年閏四月六日に水沼河原で下された扱いのことでしょう。取り調べもなく斬られ、罪状の根拠となる文書はいまも出てきていません。

そして水沼の碑には、こう刻まれています。「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」昭和七年、地元の人が建てたものです。

あわせて読みたい

現地取材

【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓 ― 首を取り返した村、雨の権田を歩く
群馬県高崎市倉渕町権田。墓、裏山の本墓、横須賀から来た胸像、そしていま境内に建ちつつある記念館を訪ねました。

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