【現地取材】雨の今治城を歩く ― 本家の松山藩は朝敵に、分家の今治藩は会津へ

仕事の研修で四国へ飛んだとき、少しだけ時間が空いたので今治城へ寄りました。あいにくの雨で、堀の水面には雨粒の輪がいくつも広がっていました。この堀の水は海から引き入れたもので、今治城は瀬戸内海に面した「海城」です。幕末の今治藩は、この海に向いた城を抱えたまま、ペリー来航から戊辰戦争までを過ごしました。

雨の内堀越しに見た今治城の石垣と天守・多聞櫓【幕末歴史ガイド】
内堀の向こうに石垣と多聞櫓、左奥に天守。雨の今治城です

今治市の説明では、今治城は藤堂高虎が慶長七年(1602)に築き始め、完成は慶長十三年ごろと推測されています。海水を引いた広い堀と、城の中の港にあたる「船入」を備えた、全国でも指折りの海城です。

目次

築城の名手・藤堂高虎の城

今治城の縄張りをしたのは、築城の名手として知られる藤堂高虎です。高虎は慶長十三年に伊賀と伊勢へ移り、そこで伊賀上野城と津城に手を入れました。伊賀上野城の高石垣は、いまも高虎の仕事として知られています。どちらの城も歩いたことがあり、【現地取材】伊賀上野城を歩く【現地取材】津城跡を歩くに書きました。雨の今治で石垣を見上げていると、伊賀上野で見た石垣が自然と思い出されました。

ただ、高虎の天守がどうなったかは、はっきりしていません。市の説明では、高虎が五重の天守を建てたと伝わり、伊賀・伊勢へ移るときに解体されたとされています。その天守を丹波亀山城へ移したという話も伝わっていますが、そもそも今治城に天守があったのかどうかも含めて、諸説あります。いま建っている天守は昭和五十五年(1980)に鉄筋コンクリートで建てられたもので、高虎の天守をそのまま再現したものではありません。

今治城の藤堂高虎騎馬像と天守【幕末歴史ガイド】
藤堂高虎の騎馬像。うしろに天守が見えます

城内には藤堂高虎の騎馬像が立っています。平成十六年(2004)に、築城と開町から四百年を記念して建てられたものです。雨に濡れて黒く光る高虎の背中越しに天守を見ると、この城がいまも「高虎の城」として語られていることがよく分かります。

幕末の今治藩を治めていたのは、久松松平家でした

高虎が去ったあと、今治は養子の藤堂高吉が治めましたが、寛永十二年(1635)に藤堂家は伊賀の名張へ移ります。同じ年、伊勢桑名から松平定行が伊予松山へ十五万石で入り、その弟の松平定房が今治に三万石で入りました。この定房の家が久松松平家で、途中で石高が変わって三万五千石に落ち着き、十代にわたって今治を治めたまま明治を迎えます。

歩いていて感じたのは、三万五千石の藩には城が大きすぎる、ということでした。堀と石垣の範囲が広く、いざ戦になったら藩士だけで守り切れる広さには見えません。それもそのはずで、今治城を築いたときの藤堂高虎は、関ヶ原の戦功で二十万石を領する大名でした。今治城はもともと二十万石の大名の居城として造られ、その器を、あとから入った三万石余りの久松松平家が受け継いだのです。文久三年に城を山あいへ移す話が出たのも、この広すぎる海城を小さな藩で守る難しさと無関係ではなかったのかもしれません。

幕末の藩主は十代の松平定法です。文久二年(1862)に家を継ぎ、明治二年(1869)の版籍奉還で知藩事となりました。つまり今治藩と松山藩は、兄と弟が同じ年に伊予へ入って始まった、親戚どうしの藩でした。この関係が、幕末になって大きな意味を持ちます。

文久三年、海に向けた砲台と、山あいへの移城計画

定法は家を継いだ翌年に初めて国元へ入り、家老の久松長世に、洋式の兵制を取り入れた改革を命じました。文久三年(1863)には『火政全軍録』という軍制の書がまとめられています。同じ年の三月には、来島海峡に砲台を築くことについて、定法が朝廷へ上申書を出しています。

『愛媛県史』によると、文久三年には総社川裾・城下浜・天保山脇・浅川裾の四か所に砲台を築くことになりました。ただ、大砲が据えられたのは天保山脇の三門だけで、ほかの砲台には結局据えられませんでした。三万五千石の藩が海岸線の全部を守るのは難しかったのだろうと思います。

もっと思い切った計画もありました。同じ文久三年、異国船への備えとして、城そのものを海岸から十キロほど内陸へ移す話が持ち上がったのです。移転先は総社川をさかのぼった鈍川村(現在の今治市玉川町)とされ、最後は同じ村の神子ノ森に決まりました。けれども城は移らず、今治城は海辺に残りました。

海水の堀は、平和な時代には船を城の中まで引き込める便利な仕組みでした。けれども異国の軍艦が大砲を積んで来る時代になると、海に近いことはそのまま弱みになります。雨の中で堀の水面を見ていると、海とつながった城を捨てて山へ逃げようとした当時の人たちの焦りが、少し分かる気がしました。

雨の内堀の水面に映る今治城の石垣と櫓、天守【幕末歴史ガイド】
雨粒が落ちる内堀。石垣の上に櫓と多聞櫓が続き、右に天守が見えます

長州再征では、御手洗から引き返した

今治藩は元治元年(1864)の第一次長州征討で、応援の兵を出しています。ところが慶応二年(1866)の第二次長州征討では、編成された部隊が安芸の御手洗まで進んだあと、波止浜まで引き返しました。『愛媛県史』の年表は、そのあと幕府の出陣命令に応じなかったと記しています。

藩がどういう議論をしてこの判断に至ったのかは、この年表からは分かりません。それでも、幕府の命令をそのまま受けずに兵を引いたという事実は、二年後の今治藩の動きを考えるうえで見落とせません。

本家の松山藩は朝敵に、今治藩は会津へ

慶応三年(1867)十二月二十五日、家老の久松長世が江戸を発って京都へ向かいました。『愛媛県史』によると、長世が京都に着いたのは慶応四年一月三日で、そこで鳥羽・伏見の戦いの砲声を聞いています。一月八日には藩主に出頭の命令が来て、今治藩は御所の警衛を命じられました。警衛には鈴木永弼を隊長とする天応隊があたり、のちに服部和泉の率いる風撃隊と交代しています。

そこからの足取りは長いものでした。五月十四日に甲府城の警衛を命じられ、七月二日に甲府へ着きます。七月十九日には江戸の藩邸に入り、二十三日に下野の今市への出陣を命じられました。八月六日に今市へ着き、翌七日には丹生で戦っています。八月二十日に白河口の総督から会津へ進むよう命じられ、九月三日に大内村、四日に関山口で戦い、五日には本郷村から若松城下の材木町まで攻め入りました。そのあとも城の西の飯寺村で戦い、九月二十日に若松を発って日光へ移りました。今治へ帰り着いたのは十二月一日です。

県史に出てくる死傷は負傷者だけで、戦死者の記述は見当たりません。新政府からは十一月に三百六十四両、明治二年六月に二千両の慰労金が出ています。

一方、兄の家にあたる伊予松山藩はまったく違う道をたどりました。藩主の松平定昭は慶応三年に老中となってすぐに辞め、鳥羽・伏見のあと朝敵とされます。慶応四年一月、松山城は土佐藩に受け取られ、藩は十五万両を新政府へ納めるよう命じられました。詳しくは伊予松山藩のページにまとめています。

同じ久松松平の一族で、同じ年に伊予へ入った二つの藩が、幕末の最後の一年でまったく逆の立場になりました。今治藩の兵が会津の城下へ攻め込んでいたころ、松山藩は朝敵としての処分を受ける側にいました。雨の今治城を歩きながら、いちばん考えたのはこのことでした。

葉を落とした木々の上に見える今治城の天守【幕末歴史ガイド】
葉を落とした木々の上に天守がのぞきます

いまの今治城で見られるもの

明治維新のあと、今治城の建物はほとんど取り壊され、残ったのは内堀と本丸まわりの石垣だけでした。明治五年(1872)には、市内にあった四つの神社をまとめて本丸に祀り、吹揚神社となっています。祭神には藤堂高虎も含まれています。

いま見られる建物は、すべて戦後に建て直されたものです。天守と多聞櫓、武具櫓が昭和五十五年(1980)、御金櫓が昭和六十年(1985)、山里櫓が平成二年(1990)、鉄御門が平成十九年(2007)の再建です。石垣と堀は江戸時代から続くもので、雨に濡れて黒ずんだ石の面は、白い櫓よりもずっと古い時間を感じさせました。

石垣の角の上に見上げた今治城の天守と多聞櫓【幕末歴史ガイド】
石垣の角から見上げた天守と多聞櫓

幕末の今治藩士が見ていたのは、この石垣と海水の堀のほうです。市の説明のとおり高虎の天守が転封のときに解体されたのだとすれば、江戸時代の今治城で天守が建て直されたという話は出てきません。砲台を築き、城を山へ移そうとし、最後は会津まで兵を送った藩の人たちにとって、この城は天守の見えない海辺の城だったのだと思います。

わずかな寄り道で、雨にも降られましたが、兄弟の藩が逆の道を選んだ幕末の話を、城の石垣を前にして考えられたのはよい時間でした。今治藩の基礎データは今治藩のページに、高虎が移った先の藩は津藩のページにまとめています。

今治城(愛媛県今治市通町)

  • URLをコピーしました!
目次