安中藩の歩み
安中藩は幕末期に「和宮降嫁」のために中山道の守備を務めました。「偽官軍事件」として有名な「赤報隊」事件はこの安中で起こっています。慶応四年(1868年)三月には老臣を上洛させて、いち早く新政府に恭順の姿勢を示し同年四月には新政府軍に弾薬を献上します。

明治四年(1871年)の「廃藩置県」で、安中藩は廃藩となって安中県となり、同年十月には群馬県に編入されました。藩主板倉家と諏訪武田氏の重臣から安中藩重臣となっていた小林家が子爵を授かりました。

安中藩の遺構として城の東に位置する熊野神社、及び市内2箇所に城門が移築されました。安中藩出身の「新島襄」は会津藩山本家の八重を妻とし、京都市に同志社英学校(現在の同志社大学)を創設したことで知られています。

新島襄を生んだ安中藩
安中藩は、上野国碓氷郡(現在の群馬県安中市)に置かれた二万石の藩で、安中城を居城とし、幕末には譜代の板倉家が藩主を務めました。中山道の宿場・安中を擁し、江戸と信州を結ぶ交通の要地を治めた藩です。
近代教育の先駆者を輩出
この安中藩の藩士の家からは、のちに同志社英学校(現在の同志社大学)を創立する新島襄が出ています。新島は幕末に国禁を犯してアメリカへ渡り、キリスト教と西洋の学問を学んで帰国し、日本の近代教育に大きな足跡を残しました。小さな藩でありながら、新しい時代を切り開く人物を世に送り出した土地柄として知られます。
藩士に走らせた「安政遠足」と、復元された武家長屋です
安政二年、碓氷峠まで走らせました
安中市公式によれば、藩主板倉勝明は安政二年(1855年)、藩士の心身を鍛えるために安中城内から碓氷峠の熊野権現まで走らせました。これが安政遠足で、「日本最古のマラソン」とも呼ばれています。昭和五十年からは、これにならった催しが行われています。
藩校は造士館で、文化五年(1808年)三月の創設とされます(Wikipedia)。
武家長屋と郡奉行役宅
安中市の指定文化財一覧によれば、旧安中藩武家長屋は平成四年(1992年)三月二十五日、旧安中藩郡奉行役宅は同年四月二十八日に、いずれも市の重要文化財となりました。上の段の新島襄にゆかりの新島襄旧宅は、昭和三十九年(1964年)十二月三十日の市史跡です。
武家長屋は萱葺きの四軒長屋で、桁行は二十六間(約47メートル)あります。藩の書役が残した図面をもとに、平成のはじめに復元されました。郡奉行役宅も曲がり屋の形に復元されたもので、こちらは1800年代初頭の建物と推定されています。
新島襄の生まれた場所は、資料で分かれます
新島襄の生年は天保十四年(1843年)です。生まれた場所を、安中市公式は江戸神田錦町の上屋敷とし、日本大百科全書は江戸一ツ橋の安中藩邸としています。ブリタニカ国際大百科事典は、父を安中藩の右筆と記しています。明治七年にアメリカから帰国したあと、新島はこの家に三週間滞在して講演を行いました(安中市公式)。
最後の藩主勝殷
板倉勝殷は文政三年(1820年)に生まれ、安政四年閏五月十一日、兄の勝明が亡くなったことで家督を継ぎました。上の段の恭順と弾薬の献上は、この勝殷のもとでの動きです。明治五年三月に隠居し、翌明治六年(1873年)八月三十一日に亡くなりました。明治十七年の華族令より前なので、勝殷本人は爵位を受けていません。板倉家が子爵となった年は、明治十七年とする資料と明治十九年とする資料に分かれています。
藩士を峠まで走らせた藩の城下には、いま武家長屋と郡奉行役宅、そして新島襄の旧宅が残っています。
安中藩と新島襄
安中藩士の子 安中藩(板倉家)の江戸屋敷で、天保十四年(1843)に一人の男の子が生まれました。のちの新島襄です。新島は藩の家臣の子として育ちましたが、元治元年(1864)、箱館から国禁を犯してアメリカへ渡り、キリスト教と西洋の学問を学びました。
同志社の創立 明治になって帰国した新島は、明治八年(1875)、京都に同志社英学校を開きます。のちの同志社大学です。新島は故郷の安中でもキリスト教を伝え、安中には新島が説いた教会が残っています。妻は会津出身の新島八重でした。
安中藩をもっと詳しく
藩の成り立ち—彦根藩主の座を弟に譲った井伊直勝
安中藩の始まりは、徳川四天王のひとり井伊直政の家と深く関わっています。直政の跡を継いだ長男の直継は病弱で、大坂の陣で出陣を命じられたのは弟の直孝でした。直継は安中に赴いて碓氷の関所などを守り、元和元年(1615年)、名を直勝と改めて、彦根藩から分けられた安中藩三万石の藩主となります。代わって彦根藩は直孝が継ぎました。直勝が彦根藩主だった経歴は、のちに消されたとされます。
直勝は田畑になっていた安中城を普請し、城下町づくりに力を注ぎました。安中藩は江戸時代を通じて中山道の碓氷関所を受け持ち、一時は三国街道の杢ヶ橋関所も担当しています。
めまぐるしく替わった藩主家
井伊家のあとは、水野家、堀田家、板倉家、内藤家と藩主家が替わりました。水野元知は妻への傷害事件を起こして寛文七年(1667年)に改易され、続いて入った堀田正俊は老中に進んで加増され、下総古河へ移っています。最後に入ったのが板倉家で、寛延二年(1749年)に遠江相良から板倉勝清が二万石で入り、勝清が西の丸老中となったときに一万石を加えられました。
本家と分家—板倉家の「重形系」
安中の板倉家は、京都所司代として知られる板倉勝重の孫・重形に始まる分家で、「重形系板倉家」と呼ばれます。重形は天和元年(1681年)に一万五千石でいちど安中に入っており、子の重同の代に陸奥泉へ移され、さらに遠江相良を経て、重同の子・勝清の代に安中へ戻ってきました。板倉家の宗家は備中松山藩で、ほかに陸奥福島藩・備中庭瀬藩の板倉家がありました。戊辰戦争では宗家と福島藩が新政府に敵対したとされて処分を受けた一方、安中藩と庭瀬藩は新政府軍に加わり、処分を受けていません。
領地のようす
幕末の領地は、本拠の上野国碓氷郡三十四村と群馬郡六村のほか、遠く離れた下総国の匝瑳郡十村、香取郡九村、海上郡四村にも飛び地がありました。下総の三郡は、今の千葉県北東部にあたります。
同じ時代の出来事—学者藩主・板倉勝明
本文の安政遠足を始めた五代藩主の板倉勝明は、「学者大名」として知られた人物です。大坂加番として往復した旅を『西征紀行』『東還紀行』にまとめ、弘化二年(1845年)からは新井白石や荻生徂徠らの著作を「甘雨亭叢書」として出版しました。藩校造士館に学者を招き、安政三年(1856年)には五料村に郷学「桃渓書院」を開いて領民の教育も試みています。
苦しい藩財政を立て直すため、同じ安政三年には領内に漆の苗百万本を植え、その利益を地主・植え付け費用・藩の収入・困窮した領民の救済に四等分して充てようとしました。この事業を記した「漆園の記碑」は安中市の史跡となっていますが、事業は勝明の死もあってまもなく行き詰まりました。
また、享保十二年(1727年)には碓氷郡二十一か村の農民が年貢の減免を求める一揆を起こし、藩は小物成(雑税)の減免などを認めました。このとき下増田村の潮藤左衛門が処刑されたと伝わり、義民として顕彰されています(内藤家時代の出来事です)。
藩主家の明治以降—叙爵までの曲折
本文では子爵となった年が資料で分かれるとしていますが、その背景には廃藩後の家督の混乱がありました。勝殷は明治五年(1872年)に婿養子の勝任に家督を譲りましたが、勝任は翌明治六年八月に隠居し、勝殷がもう一度当主に戻ったものの、同じ月の三十一日に亡くなります。その後は娘の種子が女戸主となるなど当主の交代が続き、明治十七年(1884年)の華族令のときの当主は女性の花子だったため、爵位は授けられませんでした。
明治十九年(1886年)、花子は元川越藩主の松平康載を夫に迎え、康載が板倉勝観と名乗って家を継ぎ、同年四月二十四日に子爵を授けられました。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、勝清の加増後の三万石のこの藩はおよそ七百十人が目安です(二万石とすれば、およそ四百七十人)。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「安中藩」「板倉氏」「板倉勝明」「板倉勝殷」


