まだ暗い明け方、日本海から吹きつける風に、冷たい雨がまじっていました。越後の柏崎(かしわざき)の南、鯨波(くじらなみ)の海辺では、崖の上や岩山に身をひそめた兵たちが、北陸街道をやってくる大軍をじっと待ち受けていました。慶応4年閏(うるう)4月27日(1868年6月17日)、のちに北越戦争と呼ばれる長い戦いの、はじめのころの大きな戦いが、ここ海沿いの戦線で始まります(前の日には、山側の雪峠でも戦いが起きていました)。
待ち受けていたのは、遠い伊勢(三重県)の桑名藩の兵たちです。故郷の城を失い、雪国の飛び地にたどり着いた彼らの中に、のちに名指揮官として知られる若き立見鑑三郎(たつみ かんざぶろう)がいました。数で大きくまさる新政府軍を相手に、桑名藩兵は地形を生かして一日じゅう戦い抜きます。この記事では、その一日を進軍図とイラストで解説します。

鯨波の戦いとは?ひとことで言うと
鯨波の戦いは、柏崎に拠点を置いていた桑名藩兵と旧幕府方の部隊が、北陸街道を北上してきた新政府軍を鯨波の海辺で迎え撃った、北越戦争の緒戦です。桑名藩兵は崖や岩山を生かしてはげしく抵抗し、新政府軍の進撃を一時食い止めましたが、内陸の戦いで味方が敗れたため、翌日には柏崎を離れて退きました。新政府側の記録では「鯨波で桑名藩兵を破った」とされており、どちらが勝ったのかは見る側によって評価が分かれます。
| 日時 | 慶応4年閏4月27日、早朝から夕方まで |
|---|---|
| 場所 | 越後国刈羽郡鯨波村とその周辺(現在の新潟県柏崎市鯨波・青海川あたり) |
| 旧幕府方 | 桑名藩(雷神隊・致人隊・神風隊・大砲隊)、衝鋒隊、会津藩士らの浮撃隊など |
| 新政府軍 | 薩摩藩・長州藩・加賀藩・高田藩・富山藩など(参謀 黒田清隆・山県有朋) |
| 兵力(おおよそ) | 旧幕府方:鯨波を守る桑名藩兵約250人のほか、衝鋒隊約200人・浮撃隊約100人。新政府軍:海沿いの本隊は約2500人、鯨波に攻めかかったのは1000人あまりとされる |
| 戦死者(わかれば) | 新政府軍:戦死8人とする資料と12人とする資料がある(負傷は数十人)。桑名藩:戦死1人とする資料のほか、のちに傷で亡くなった人を含めて5人の名が伝わる |
| 結果 | 戦場では桑名藩兵が持ちこたえたが、内陸の小千谷方面が破られたため、翌28日に柏崎を離れて妙法寺村へ退却。新政府軍が柏崎に入った |

なぜ鯨波で戦いが起きたのか
城を失った桑名藩、柏崎へ
桑名藩は、伊勢の桑名に城をもつ松平家11万石の藩です。藩主の松平定敬(まつだいら さだあき)は会津藩主・松平容保の実の弟で、京都所司代として兄とともに幕府側の中心にいました。そのため、鳥羽・伏見の戦いのあと、新政府から厳しく罪を問われることになります。
定敬は徳川慶喜とともに江戸へ逃れましたが、そのあいだに国元の桑名では藩士たちが新政府に従うことを決め、慶応4年1月28日に城を明け渡してしまいました。帰る城を失った定敬は、品川から外国の船に乗って新潟へ向かい、桑名藩の飛び地(遠くはなれた領地)があった越後の柏崎へ、およそ220人の藩士とともにたどり着きます。3月の末のことでした。定敬は柏崎の大久保にある勝願寺(しょうがんじ)で謹慎しました。
恭順か、戦うか―割れた藩の意見
柏崎の桑名藩の中でも、新政府に従うべきだという人たちと、最後まで戦うべきだという人たちに意見が分かれていました。閏4月3日、恭順を説いていた重臣の吉村権左衛門(宣範)が暗殺され、藩の空気は一気に「戦う」へと傾きます。この暗殺には、藩主の定敬自身がかかわっていたとする資料もあります。会津へ出ていた主戦派の藩士たちも柏崎へ戻ってきました。
閏4月13日、柏崎の陣屋で戦いの体制が整えられました。このとき各隊の隊長は、藩士たちの入れ札(投票)で選ばれたといわれます。のちに雷神隊(らいじんたい)と呼ばれる隊の隊長に選ばれたのが、数え24歳の立見鑑三郎でした。ほかに、のちの致人隊(ちじんたい)の松浦秀八、神風隊(じんぷうたい)の町田老之丞らが隊長となりました(雷神隊・致人隊・神風隊という隊の名が正式に決まったのは5月に入ってからとする記録もあり、この記事ではわかりやすさのため、のちの隊名で呼びます)。藩主の定敬は、柏崎が孤立するおそれがあったため、会津寄りの加茂へ移りました。
閏4月17日には、旧幕府の歩兵部隊である衝鋒隊(しょうほうたい)の一部と、会津藩士の木村大作が率いる浮撃隊(ふげきたい)が援軍として柏崎に到着します。衝鋒隊は、古屋佐久左衛門に率いられて上州の梁田(やなだ)で新政府軍に敗れ、その後、信濃の飯山でも敗れて越後に戻ってきた部隊でした。負けを重ねてきた部隊と、城を失った藩。追いつめられた者どうしが、柏崎で手を組んだのです。

北陸街道を北上する新政府軍
一方の新政府軍は、北陸道の総督府に黒田清隆(薩摩)と山県有朋(長州)を参謀として送り込み、閏4月17日に越後の高田(現在の上越市)に集まって作戦会議を開きました。軍は二手に分かれます。ひとつは海沿いの北陸街道を進んで柏崎をめざす「海道軍」、もうひとつは山の中を通って小出島(こいでじま)・小千谷(おぢや)をめざす「山道軍」です。
海道軍は閏4月21日に高田を出発し、高田藩兵を先鋒に、柿崎・鉢崎と海沿いを進み、米山峠を越えて青海川(おうみがわ)へ近づきました。その先、柏崎の手前で海と山にはさまれた細い道が続く場所――それが鯨波でした。

両軍の顔ぶれと兵力
旧幕府方
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 桑名藩 | 松平家 11万石 |
約250人で鯨波を守る。雷神隊(立見鑑三郎)は海側の崖沿いの嫁入坂、致人隊(松浦秀八)は浜の上の岩山、神風隊(町田老之丞)は山側の丘に陣取った。大砲隊は岩山の上から砲撃した |
| 衝鋒隊 | 旧幕府歩兵の部隊 | 約200人(松田昌次郎指揮)が来援し、山側の黒岩口を守った |
| 浮撃隊 | 会津・旧幕府・水戸の兵の混成 | 約100人(会津藩士の木村大作指揮)。谷根口を守り、小河内山で雷神隊とともに戦った |
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 高田藩 | 榊原家 15万石 |
先鋒。浜づたいに攻め進み、山県有朋から勇敢だったとほめられたとされる |
| 加賀藩 | 前田家 102万石 |
浜の方面から攻めたが、高い所からの銃撃に苦しみ、いちばん多くの死傷者を出した |
| 長州藩 | 毛利家 36万9千石 |
山の上から大砲で反撃した |
| 薩摩藩 | 島津家 77万石 |
参謀・黒田清隆の藩。海道軍の中心の一つ |
| 富山藩 | 前田家 10万石 |
海道軍に加わり、負傷者を出した |
両軍の条件を比べる
| 桑名藩・旧幕府方 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 鯨波の桑名藩兵は約250人。援軍を合わせても500人ほど(全員が同じ場所で戦ったわけではない) | 海道軍は約2500人。鯨波に攻めかかったのは1000人あまり |
| 武器 | 小銃と大砲。大砲は旧式とする資料もある | 洋式の大砲2門など、新式の装備が多い |
| 指揮官 | 立見鑑三郎・松浦秀八・町田老之丞ら若い隊長たち(総督は服部半蔵正義) | 参謀 黒田清隆・山県有朋 |
| 地の利 | 崖・岩山・丘など高い所に陣取り、細い道を見下ろせた | 本隊は海と山にはさまれた細い道を進むしかなかった(山側の谷根・黒岩方面にも別の部隊が回った) |
| 天気 | 雨と強い風。銃の火薬がしめりやすく、どちらにとっても戦いにくい一日だった | |

戦いの流れ

閏4月27日 明け方:雨の中、鯨波の入口で戦いが始まる
27日の早朝4時ごろ、北陸街道を進んできた新政府軍が鯨波の入口にさしかかり、待ち受けていた桑名藩兵との間で戦いが始まりました。空は暗く、雨まじりの風が海から吹きつけていました。
新政府軍は数にものをいわせて押し寄せ、最前線にいた致人隊はしだいに押されて後ろへ下がります。それでも桑名藩兵は、あらかじめ決めておいた高い場所へ移りながら、粘り強く撃ち返しました。

午前:崖の上の雷神隊と浜を進む高田・加賀兵
海側の崖沿いの道「嫁入坂(よめいりざか)」と、その奥の小河内山(おごうちやま)には、立見鑑三郎の雷神隊と、木村大作の浮撃隊が陣取っていました。新政府軍の高田藩兵と加賀藩兵は、浜づたいに鯨波の海岸を進み、蘭穴(鬼穴)と呼ばれる岩場の前まで迫ります。
しかし、見通しのきかない浜辺から高い所の敵を撃つのは大変です。上から降ってくる銃弾に、新政府軍は大きな損害を出しました。とくに加賀藩兵の死傷者が多かったとされます。

昼すぎ:燃える村と、桑名藩の大砲
やがて鯨波の民家が燃え上がり、風雨もいっそう強くなりました。火が出たのは新政府軍の砲撃によるとも、桑名藩側が退くときに火を放ったともいわれ、記録によってちがいます。桑名藩の大砲隊は岩山の上から砲撃を続け、敵が集まった場所に続けて命中させたと伝えられます。それを見た立見らは斬り込んで敵を押し返したといいます。
また、桑名藩側は村人を集めていっせいに大声を上げさせ、味方の数が多いように見せて敵をおどかしたという話も残っています。少ない兵でどうにか大軍に立ち向かおうとした工夫だったのでしょう。

午後:長州の大砲と、じりじりの後退
新政府軍は、左手の山の上に長州藩の大砲2門を引き上げ、桑名藩兵の陣地に向けて撃ちかけました。高い所の利を相手にも取られてしまったのです。神風隊の町田老之丞が引き上げの合図を出し、桑名藩兵は隊列を保ったまま、少しずつ後ろへ下がっていきました。
それでも小河内山では、立見の雷神隊と木村の浮撃隊が最後まで持ちこたえ、新政府軍に道を突破させませんでした。

夕方:番神堂へ退く桑名藩兵、深追いしない新政府軍
夕方、桑名藩兵ら旧幕府方は、柏崎の町の西のはずれにある番神堂(ばんじんどう)のあたりまで退きました。新政府軍も一日じゅうの戦いで兵が疲れきっており、深追いはしませんでした。資料によっては、新政府軍は鯨波の集落に火を放ったうえで、後ろへ引き上げたとも書かれています。
戦場だけを見れば、桑名藩兵は大軍を相手に一日をよく持ちこたえたといえます。ただし新政府軍も鯨波の先まで進んでおり、桑名藩兵は少しずつ後ろへ下がっていました。新政府軍の戦死者は8人とも12人ともいわれ、負傷者は数十人にのぼりました。一方、桑名藩の戦死者は1人とする記録があるほか、傷がもとで数日のうちに亡くなった若者を含め、5人の名が伝わっています。

戦いのあと
小千谷が破られ、柏崎を離れる
鯨波で持ちこたえた桑名藩兵でしたが、そのころ内陸では、山道軍が閏4月24日に三国峠、26日に雪峠(ゆきとうげ)で旧幕府方を破り、27日には小出島も落ちていました。小千谷が新政府軍の手に入れば、柏崎は背後から切りはなされてしまいます。
桑名藩兵は戦いの翌朝、閏4月28日までに柏崎を離れ、刈羽郡の妙法寺村(みょうほうじむら)に集まって、小千谷から退いてきた会津藩兵と合流しました。旧幕府方がいなくなった柏崎では、住民が新政府軍による焼き討ちをおそれましたが、町の有力な商人たちが両軍に願い出て、町は大きな戦火に巻き込まれずにすんだと伝えられます。戦場になって焼けた鯨波村とは、対照的な結果でした。
その後、5月2日の小千谷談判の決裂をへて長岡藩が同盟軍に加わり、北越戦争は本格的な戦いへと進んでいきます。

その後の立見鑑三郎と桑名藩兵
鯨波で名をあげた立見鑑三郎は、このあと長岡の南の朝日山の戦いなどでも新政府軍を苦しめ、敵からも名を知られる指揮官になっていきます。桑名藩の主戦派の藩士たちは、越後から会津、さらに庄内へと戦い続け、一部は箱館まで転戦しました。立見は明治になってから陸軍に入り、のちに陸軍大将にまでなりました(名を尚文と改めています)。
この戦いが示したもの(筆者の感想)
鯨波の戦いでまず胸に残るのは、桑名藩兵たちの立場です。城はすでに明け渡され、故郷の桑名へ帰ることもできない。遠い雪国の飛び地で、主君を守るためだけに銃を取った人たちでした。そんな彼らが、隊長を自分たちの入れ札で選び、20代の若者たちを先頭に立てて戦ったという話には、追いつめられた集団ならではの結束の強さを感じます。
戦いそのものは、地形がどれほど大切かをよく示しています。海と山にはさまれた細い道で、高い所を押さえた側は、数が何倍もの敵とも互角に戦えました。逆に、新政府軍が山の上に大砲を上げると、桑名藩兵は下がるしかありませんでした。戦いの勝ち負けが、兵の数だけでは決まらないことがよくわかります。
一方で、戦場で持ちこたえても、ほかの戦場で負ければ退かなければならない。鯨波の桑名藩兵がまさにそうでした。「局地戦ではよく戦ったのに全体では押されていく」という姿は、このあと北越戦争、そして戊辰戦争全体を通して、同盟軍に何度もくり返されることになります。その最初の一コマが、この雨の海辺だったのだと感じます。
現地を歩く ― 鯨波の戦いの史跡
- 鯨波海岸(新潟県柏崎市鯨波):高田藩兵・加賀藩兵が浜づたいに攻め進んだ戦場。現在は海水浴場として知られる
- 番神堂(新潟県柏崎市番神):戦いの夕方、桑名藩兵ら旧幕府方が退いた場所
- 勝願寺(新潟県柏崎市大久保):柏崎に入った藩主・松平定敬が謹慎した寺
- 御野立公園(新潟県柏崎市):鯨波の海を見下ろす高台の公園。戦場となった海辺一帯を見渡せる
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- 梁田の戦い
- 寒河江の戦い
- 鳥羽伏見の戦い
- 桑名藩/会津藩/高田藩/加賀藩/長州藩/薩摩藩/富山藩
参考にした資料
- ウィキペディア「鯨波戦争」「雷神隊」「北越戦争」
- 「桑名藩戊辰戦記」(個人ブログ)
- 『幕末維新全殉難者名鑑』(上記ブログでの引用による)
- 新潟県観光協会「鯨波海水浴場」
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


