明治元年(1868)9月20日の朝。山形県寒河江の町は、深い霧に包まれていました。町に泊まっていた桑名藩と庄内藩の兵が朝食の支度をしていたそのとき、町はずれで銃声が響きます。霧にまぎれて近づいていたのは、薩摩藩と、ついこのあいだまで味方だった米沢藩の兵、あわせて約2500人でした。
約300人の桑名・庄内軍は、町なかから長岡山、寒河江川の対岸へと退きながら一日じゅう戦い、夜の山道を越えて庄内へ引き上げました。これが「寒河江の戦い」(長岡山の戦い)です。東北の戊辰戦争で、最後の大きな戦いの一つになりました。この記事では、その一日を進軍図とイラスト、そして筆者が歩いた寒河江の写真で解説します。

寒河江の戦いとは?ひとことで言うと
会津から庄内をめざして北上していた桑名藩兵と庄内藩兵が、寒河江に泊まっていたところを新政府軍に霧の中で急襲され、町・長岡山・寒河江川と場所を変えて戦いながら、庄内へ退いた戦いです。この5日後、庄内藩は降伏を申し入れました。
| 日時 | 明治元年9月20日(1868年11月4日)早朝〜夕方 |
|---|---|
| 場所 | 出羽国村山郡寒河江・長岡山・白岩のあたり(現在の山形県寒河江市) |
| 同盟軍 | 桑名藩の雷神隊・致人隊・神風隊(唐津藩士なども加わる)、庄内藩の4小隊。約300人(約400人とする資料もある) |
| 新政府軍 | 薩摩藩(参謀・黒田清隆)と、降伏したばかりの米沢藩。約2500人(約2000人とする資料もある) |
| 戦死者 | 桑名藩19人・庄内藩4人・新政府軍10人(寒河江市の資料による) |
| 結果 | 新政府軍が寒河江を押さえた。桑名・庄内軍は肘折を越えて9月22日に庄内の清川へ退いた |
なぜ寒河江で戦いが起きたのか
会津を出た桑名藩兵
桑名藩は、藩主の松平定敬が京都所司代をつとめた、幕府に近い藩です。鳥羽・伏見の戦いのあと、藩兵の一部は越後の飛び地・柏崎に移り、雷神隊の隊長・立見鑑三郎(のちの立見尚文)らを中心に、北越戦争や会津戦争を戦い抜きました(桑名藩)。
しかし会津の戦いも先が見えてきます。行き場を失った桑名藩兵が頼ったのが、まだ戦い続けていた庄内藩でした。9月13日、桑名藩兵は福島で庄内藩の兵と合流し、いっしょに庄内をめざして北へ向かいます。

山形を越えて寒河江へ
一行は白石・川崎を通って笹谷街道を越え、9月16日の夕方に山形の城下へ入りました。18日には船町・長崎に泊まって最上川を渡り、19日の夕方、寒河江に着きます。
寒河江に入ったのは、桑名藩の雷神隊(隊長・立見鑑三郎)と致人隊(隊長・松浦秀八)、それに庄内藩の2小隊。あわせて約300人です。別に桑名藩の神風隊(隊長・町田老之丞)と庄内藩の2小隊が、西の左沢・大井沢の守りにつきました。
同盟の崩れと、追ってくる新政府軍
このころ、奥羽越列藩同盟はすでに崩れていました。同盟の中心だった米沢藩は新政府に降り、今度は新政府軍の先鋒として庄内攻めに加わっています。9月18日、薩摩藩を中心とする新政府軍は、鶴岡城をめざして山形を出発しました。指揮をとったのは参謀の黒田清隆で、そのうしろには西郷隆盛もいました。
庄内藩は9月19日、各地の前線から兵を引き上げるよう命じます。寒河江の桑名・庄内軍も、あとは庄内へ帰るだけのはずでした。

両軍の顔ぶれと兵力
同盟軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 桑名藩 | 松平家 11万3千石 |
雷神隊(立見鑑三郎)と致人隊(松浦秀八)が町なかと長岡山で戦った。神風隊(町田老之丞)は左沢から援軍に来た |
| 唐津藩 | 小笠原家 6万石 |
藩としてではなく、白水良次郎ら一部の藩士が桑名藩の雷神隊に加わって戦った |
| 庄内藩 | 酒井家 17万石 |
2小隊が寒河江にいて、先に長岡山に陣を敷いた。ほかの2小隊は左沢方面の守り |
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 薩摩藩 | 島津家 77万石 |
主力。参謀の黒田清隆が率いた |
| 米沢藩 | 上杉家 14万7千石 |
同盟の中心だったが、降伏して新政府軍の先鋒に回った |
両軍の条件を比べる
| 桑名・庄内軍 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 約300人(約400人説も) | 約2500人(約2000人説も)。8倍前後の差 |
| 兵の質 | 北越・会津を戦い抜いた歴戦の兵。ただし長い行軍で疲れていた | 新式銃をそろえた薩摩藩が主力。勝ち戦の勢いがあった |
| 情報 | 敵がこれほど早く来るとは思っていなかった | 霧にまぎれて近づき、不意を突けた |
| 地の利 | 沼川・長岡山・寒河江川と、守りやすい場所を次々に使えた | 数にものを言わせて三方から囲み、川の下流からも回りこんだ |
戦いの流れ

朝7時すぎ:霧の中の銃声
9月20日の夜明け前、山形を出た新政府軍は長崎で最上川を渡りました。朝7時すぎ、寒河江の南の町はずれで、突然銃声が響きます。このとき桑名藩兵は町の中心の本願寺前から道場小路にかけて朝食の支度をしており、庄内藩兵も食事の途中でした。濃い霧のため、敵がすぐ近くに来るまで気づけなかったのです。
沼川の木戸を守る
桑名藩兵はすぐに町はずれの新宿まで出て、沼川に沿って陣を敷きました。沼川にかかる橋を切り落とし、町の木戸を閉めて迎え撃ちます。銃撃戦のあとは刀を抜いての斬り合いにもなりましたが、ついに木戸を破られ、新政府軍は町に火を放ちました。
桑名藩兵は十日市場、越井坂、細小路、下西小路、上町と、町の中を少しずつ下がりながら戦い、六供町を通って西の長岡山へ退きました。

午前10時ごろ:長岡山の激戦
長岡山には、先に庄内藩兵が陣を敷いていました。桑名藩兵はここで庄内藩兵と合流し、態勢を立て直します。午前10時ごろ、霧が晴れると、長岡山で激しい撃ち合いが始まりました。
桑名・庄内軍はいったんは米沢藩兵や薩摩藩兵を山から追い落とします。しかし新政府軍は次々と新手を送りこみ、北・東・南の三方から押し寄せてきました。もちこたえられなくなった桑名・庄内軍は、長岡山を西へ駆け下り、八鍬を通って寒河江川の向こう岸へ退きます。

寒河江川をはさんで2時間
寒河江川の西岸、白岩の陣ヶ峯で、左沢から駆けつけた桑名藩の神風隊が合流しました。桑名・庄内軍は高いところに大砲をすえ、臥龍橋に集まる新政府軍をねらい撃ちます。川をはさんだ撃ち合いは、約2時間つづきました。
しかし新政府軍は、下流の道生のあたりで寒河江川を渡り、慈恩寺に火を放って背後に回りこもうとします。慈恩寺の門前では16軒が焼けました。退路を断たれるのをおそれた桑名・庄内軍は、ここで退くことを決めます。

夜の山越え
夕方5時すぎ、桑名・庄内軍は白岩から北へ、銅山越えの険しい山道に入りました。夜通し歩いて幸生から十部一峠を越え、肘折、古口を通って、9月22日、庄内領の清川にたどり着きます。
この日の戦死者は、桑名藩19人、庄内藩4人(うち1人は長崎の渡し場で戦死)、新政府軍10人でした。8倍前後の敵に不意を突かれながら、桑名・庄内軍は全滅することなく庄内へ帰りついたのです。

戦いのあと
5日後の降伏
9月20日の夜、西郷隆盛と黒田清隆は白岩に泊まりました。新政府軍はそこから谷地を経て新庄方面へ進みます。9月23日、庄内藩の使者が海味の参謀局に降伏嘆願書を出し、25日には古口の本営で黒田清隆に降伏を申し入れました。9月27日、庄内藩は鶴岡城で降伏の調印をします(庄内藩の降伏とその後)。
このとき西郷が庄内藩に示した処分は、意外なほど寛大なものでした。これに感じ入った庄内の人々は、のちに西郷を深く慕うようになります。寒河江の朝にはまだ「敵」だった西郷が、数か月で庄内にとって恩人に変わっていくのです。
野ざらしの戦死者を葬った和尚
戦いのあと、新政府軍の戦死者はまもなく収められましたが、桑名・庄内藩の戦死者はしばらくそのままにされました。関わりを疑われるのをおそれて、町の人々も手を出せなかったのです。
これを見かねたのが、寒河江の陽春院の和尚・薩雲大観でした。和尚は遺体を引き取って供養し、境内の地蔵尊の裏にまとめて葬りました。陽春院の記録では、桑名藩士19人とほかの藩の兵6人、あわせて25人です。翌明治2年には庄内藩士が陽春院を訪れ、庄内藩士3人の遺骨を庄内へ連れて帰りました。

桑名藩士の墓
明治6年(1873)には、唐津藩士・白水良次郎の墓が建てられました。明治8年(1875)7月、七回忌にあたって、もとの桑名藩主・松平定敬と旧藩士たちが、桑名藩士18人の名を刻んだ墓碑を建てます。いまは「戊辰戦争桑名藩軍戦没者の墓」として、寒河江市の文化財になっています。
刻まれた名前の一つに「谷三十郎」があります。新選組にも同じ名前の隊士がいましたが、新選組の谷三十郎は慶応2年(1866)に亡くなっているので、別の人物です。
昭和36年(1961)、道路工事のために墓所は移されることになり、発掘では激しい戦いを物語る遺骨が次々と見つかりました。昭和38年(1963)4月には桑名から遺族が訪れ、分骨の式が行われています。
この戦いが示したもの(筆者の感想)
寒河江の戦いでまず胸に残るのは、新政府軍の先頭に米沢藩がいたことです。ほんの少し前まで、米沢藩は仙台藩とならぶ同盟の中心でした。その米沢の兵が、同盟の仲間だった庄内藩と、遠く伊勢から来た桑名藩の兵に銃を向ける。戦争の終わり方というのは、ときにこういう形をとるのだと思います。
一方で、桑名藩兵の粘りには驚かされます。朝食の最中に霧の中から8倍前後の敵に襲われながら、沼川で、長岡山で、寒河江川で、守りやすい場所を選んで一日じゅう戦い、夜の山を越えて庄内へ帰りついています。立見鑑三郎は、のちに明治の陸軍で将軍となり、日露戦争でも名を上げました。賊軍とされた藩の若い隊長が、その腕を新しい国の軍で生かしたのです。
そして、だれも手を出せなかった戦死者を葬った陽春院の和尚。よその土地から来て死んでいった若者たちを、敵か味方かではなく一人の死者として弔った。筆者は以前、寒河江城跡を歩いたときにこの町の人の温かさにふれました(寒河江城跡を歩く)。この土地のそういう気風は、百五十年以上前から続いているのかもしれません。
現地を歩く ― 寒河江の戦いの史跡
- 長岡山(寒河江市):桑名・庄内軍が最後に陣を敷いて戦った山。厳島神社の南側に「長岡山戊辰戦役古戦場」の標石がある
- 陽春院(寒河江市本町):「戊辰戦争桑名藩軍戦没者の墓」(市の文化財)。桑名藩士18人の墓碑と、唐津藩士・白水良次郎の墓が並ぶ
- 沼川・新宿のあたり:桑名藩兵が橋を落とし、木戸を閉めて戦った町はずれ
- 臥龍橋・陣ヶ峯(寒河江市白岩):寒河江川をはさんで約2時間撃ち合った場所
- 慈恩寺(寒河江市慈恩寺):新政府軍が回りこみ、門前が焼けた古刹
- 寒河江城跡(寒河江市丸内):長岡山は、かつての寒河江城の西の端にあたる


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- 桑名藩/庄内藩/米沢藩
参考にした資料
- 寒河江市「戊辰戦争の戦場となった寒河江と桑名藩軍兵士」および同詳細資料
- Wikipedia「長岡山の戦い」
文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


