土浦藩/土屋家9万5千石:土屋寅直 佐幕派と倒幕派に割れたが無事に維新を乗り切った土浦藩

【藩名】
土浦藩

【説明】
寛文2年(1662年)、徳川家光に仕えて若年寄に栄進した「土屋数直」が1万石で入封します。その後数直は老中に栄進し、所領も4万5000石にまで加増されました。数直の死後、第2代藩主「土屋政直」のときに、駿河田中藩へ移封となります。

土浦藩/場所・アクセス・地図 土屋家9万5千石:土屋寅直 佐幕派と倒幕派に割れたが無事に維新を乗り切った土浦藩【幕末維新写真館】

その後「松平信綱」の五男「松平信興」が2万2000石で入封するが、ほどなく大坂城代に任じられたため、短期間で摂津に領国を移封となります。その後、再び「土屋政直」が駿河田中から6万5000石で再入封となります。以降は土屋氏が10代に渡り支配が続いて明治時代を迎えました。

土屋政直は、徳川綱吉・徳川家宣・徳川家継・徳川吉宗の将軍4代にわたって老中として仕え、最終的には所領を9万5000石にまで拡大しました。幕末時の土屋藩主「土屋挙直」は「徳川斉昭」の第17子であるため、藩論が佐幕派・討幕派に分かれ苦しい立場にあったが無事に明治維新を乗り越えました。

目次

常陸の大藩・土浦藩

土浦藩は、常陸国(現在の茨城県土浦市)に置かれた九万五千石の藩で、水に囲まれた姿から亀城とも呼ばれる土浦城を居城とし、藩主は譜代の土屋家でした。霞ヶ浦に面した水運の要地を治める、常陸南部の有力な藩でした。

藩論の分裂を越えて

幕末の土浦藩は、旧幕府を支持する佐幕派と、倒幕を唱える勤皇派とに藩論が分かれ、去就をめぐって激しく揺れ動きました。しかし最終的には新政府に従い、大きな戦火に巻き込まれることなく維新を乗り切ります。譜代の大藩が内部の対立を抱えながらも、慎重に時代の転換を渡りきった姿を示す藩です。

水戸に隣り合った藩の、微妙な立ち位置

藩主は、徳川斉昭の従弟でした

幕末の土浦藩を理解する鍵は、血筋にあります。九代藩主の土屋彦直は、水戸藩六代藩主徳川治保の三男として江戸小石川の水戸藩上屋敷で生まれ、土浦藩へ養子に入った人でした。つまりその子である十代の土屋寅直は、徳川斉昭の従弟にあたります。

水戸と隣り合う九万五千石の譜代大名が、水戸の血を引いている。この一点が、元治元年の混乱のなかで藩の動きを縛りました。寅直は天狗党の鎮圧に対して消極的な立場に終始したと伝えられます。

ペリーが来たとき、大坂にいました

寅直は文政三年(1820年)の生まれ。天保九年(1838年)に父の眼病による隠居を受けて家督を継ぎました。奏者番、寺社奉行を経て、嘉永三年(1850年)九月一日に大坂城代となります。退任は安政五年(1858年)十一月。つまりこの人は、ペリー来航も日米和親条約も、大坂で迎えています。江戸を離れた場所から幕末の始まりを見ていた大名でした。元治元年(1864年)九月に奏者番兼寺社奉行に再任され、慶応四年三月に退いています。明治二十八年(1895年)に七十六歳で没しました。

城下の隣町が、焼かれました

元治元年(1864年)の天狗党の乱で、土浦は当事者になります。六月二十一日、田中愿蔵の率いる別働隊が真鍋宿で資金の供出を断られ、放火と略奪を行いました。真鍋宿は土浦城下のすぐ隣です。下妻と高道祖での戦いも、この夏の出来事でした。茨城県立歴史館は「この下妻・高道祖戦争は天狗党の勝利となり、敗れた水戸諸生党は、手薄になっていた水戸城に戻り、これを占拠しました」と記しています。幕府本陣が置かれていた下妻の多宝院は、夜襲を受けて七堂伽藍も寺宝も古文書も焼けました。

なお、土浦藩が追討軍にどう動員されたのかについては、自治体や県立博物館の資料で確認できませんでした。斉昭の従弟という立場と、消極的だったという伝えを考え合わせると、積極的な出兵はなかったのかもしれませんが、断定はできません。

最後の藩主は、斉昭の子でした

そして慶応四年(1868年)五月六日、寅直は隠居し、養子の土屋挙直が家督を継ぎます。この挙直というのが、初名を松平昭邦といい、徳川斉昭の子でした。嘉永五年(1852年)の生まれですから、十七歳です。水戸の血を引く藩主のあとを、水戸の実子が継いだ。土浦藩は最後まで水戸と切り離せませんでした。挙直は明治二年(1869年)六月十九日に藩知事となり、明治四年七月に免官されて東京へ移ります。明治十七年(1884年)の華族令で子爵。

やせ地と交換された領地

この藩の財政が苦しかった理由も、はっきりしています。茨城県立歴史館によれば、寛政二年(1790年)の村替えで、肥沃な和泉・近江・美作の領地が、陸奥・出羽のやせ地と交換されたのです。これで財政が傾きました。彦直が着手し寅直が継いだ改革は、農村の振興と人材の登用、そして藩校の建設でした。登用された家臣として大久保要、藤森弘庵、長島尉信の名が挙げられています。

そのうち大久保要は藩校郁文館の館頭を務めた人ですが、安政六年(1859年)十月に国元での永押込に処せられ、そのまま土浦藩内で病没しました。安政の大獄の連座です。藩校は郁文館。七代藩主土屋英直が城内に創建し、寅直が天保十年(1839年)に現在の場所へ新築したとされます。創建の年については資料が分かれています。

関東で唯一の本丸櫓門

土浦城は幾重もの堀に囲まれ、その姿が水に浮かぶ亀に見えたことから「亀城」と呼ばれました。室町時代の永享年間に若泉氏が築いたと考えられています。

この城には全国的に見ても貴重な建物が残っています。櫓門(太鼓櫓門)です。明暦二年(1656年)の建築と伝えられ、関東で唯一現存する本丸櫓門とされます。昭和六十一年から六十二年にかけて解体修理され、平成十七年(2005年)には両側の塀も復元されました。西櫓は平成二年(1990年)、東櫓は平成十年(1998年)の復元で、東櫓は土浦市立博物館の付属展示館になっています。「土浦城跡及び櫓門」は昭和二十七年(1952年)十一月十八日に茨城県の史跡に指定されました。城跡は明治三十一年(1898年)に土屋家から寄付され、いまは亀城公園です。

城下に時を知らせた太鼓も残っています。江戸時代中期に浅草の職人が作ったもので、明和七年(1770年)の墨書があり、漆黒の胴に土屋家の家紋「三つ石畳」が描かれています。明治十二年(1879年)に八坂神社へ奉納され、いまは東櫓の展示館で公開され、毎年六月十日の時の記念日に打ち鳴らされます。

醤油と、霞ヶ浦の船

土浦の産業といえば、まず醤油です。元禄元年(1688年)に大国屋勘兵衛が醤油造りを始め、柴沼庄左衛門も続きました。藩主土屋政直の奨励もあって城下町には九軒の醤油屋が並び、関東の醤油三大名醸地の一つに数えられるまでになります。

もう一つが水運です。承応三年(1654年)に利根川の東遷が完成すると、霞ヶ浦と江戸を結ぶ航路が開けました。東北から江戸へ大量の物資を運ぶ道になり、土浦は高浜・鉾田・佐原・江戸崎と並ぶ主要な河岸になります。水戸街道の土浦宿には本陣が二軒ありました。

なお、現在の土浦を代表するれんこんは、幕末の産業ではありません。販売を目的とした栽培が始まったのは昭和二十年代から三十年代で、作付けが急に増えたのは昭和四十五年(1970年)の転作からです。

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