黒羽藩/大関家1万8千石:大関増勤 戊辰戦争では新式装備にて三斗小屋攻略や会津戦争へ参戦した黒羽藩

【藩名】
黒羽藩

【説明】
第15代黒羽藩主「大関増裕」は外様の小藩ながら幕末には「海軍奉行」や「若年寄」などの幕府要職を歴任します。藩政では「作新館」を開校し藩兵の洋式化を目指し当時最先端のスペンサー銃の標準装備化を目指しました。このような開明的な軍改革を推し進めたが、惜しくも慶応3年(1868年)に死去します。

黒羽藩/場所・アクセス・地図 大関家1万8千石:大関増勤【幕末維新写真館】

跡を継いだ16代藩主「大関増勤」は戊辰戦争に新政府軍に属して参戦、三斗小屋の攻略や会津戦争などで戦功を挙げました。戊辰戦争後はこれらの功績を認められ、永世賞典禄1万5000石を贈与されました。明治4年(1871年)、黒羽藩は他の藩同様に「廃藩置県」にて廃藩となります。

目次

那須の要・黒羽藩

黒羽藩は、下野国那須郡(現在の栃木県大田原市)に置かれた一万八千石の藩で、黒羽城を居城とし、藩主は戦国以来この地に根を張った大関家でした。奥州へ抜ける街道を押さえる那須の要地を、代々守り続けた藩です。

会津戦争での奮戦

戊辰戦争において黒羽藩は新政府軍に与し、新式の装備を整えて会津方面の戦いに加わりました。険しい山道を越えて三斗小屋方面を攻略するなど、会津戦争で積極的な働きを見せています。小藩ながら装備の近代化に努め、戊辰の戦いで存在感を示した藩です。

幕府の陸軍奉行・海軍奉行を務めた藩主——大関増裕

一万八千石の外様小藩でありながら、黒羽藩の幕末には幕府中枢に食い込んだ藩主がいました。十五代の大関増裕です。

文久元年(一八六一)に家督を継ぐと、翌年には講武所奉行、同じ年の十一月に陸軍奉行。慶応元年(一八六五)には新設の海軍奉行に就き、慶応三年正月には若年寄まで昇りました。幕府の軍事を陸と海の両方で預かった人物です。城跡に立つ解説板は、増裕が勝海舟と並んで名を天下に轟かせたと記しています。

藩政でも改革を進めました。文久三年の初入国で家臣に全権の委任を認めさせ、西洋式の砲術を導入。藩兵の装備を洋式化し、連発の利くスペンサー銃を持たせたと伝えられます。一万八千石の藩が最新の兵器に手が届いたのは、藩主が幕府の軍政の中枢にいたからでした。

その増裕は慶応三年十二月九日、狩猟中に猟銃が暴発して死亡します。享年三十一。ただしこの死には事故死説・自殺説・他殺説の三説があり、決着はついていません。この日はちょうど京都で王政復古の大号令が発せられた日にあたります。

戊辰戦争——二十度あまりの接戦と、賞典禄一万五千石

増裕には子がすべて早世していたため死は伏せられ、慶応四年三月に大関増勤が急養子として家督を継ぎました。当主を失ったばかりの黒羽藩は、しかし驚くほど速く動きます。

慶応四年二月に五月女三左衛門を京都へ派遣し、三月十一日には奥州出兵の願書を大総督府に提出。四月に奥羽鎮撫使へ拝謁し、四月十八日に藩として官軍支持を決議しました。江戸城の無血開城すら済まぬうちに、自分から東北へ出ると申し出たわけです。

従軍したのは兵士三百二十九名、軍夫六百八十二名。大小あわせて二十度あまりの接戦を戦いました。五月二十四日に白坂へ到着して白河口の守りにつき、二十六日には大垣藩とともに応戦して討死二名を出します。六月に棚倉、七月に三春と二本松。八月二十三日には三斗小屋で激戦となり一番隊長の益子四郎が戦死しました。九月に会津へ攻め入り、関山を攻略、九月十四日の若松城攻めで一番隊長の高橋亘理が戦死しています。最後は九月二十七日、領内の佐良土村で水戸諸生党の市川三左衛門らを撃ち破りました。

十月十三日に凱旋。新政府が与えた賞典禄は永世一万五千石で、本高一万八千石の藩としては破格の評価でした。

戦死者を祀るため、明治二年十二月に藩主増勤らが黒羽田町に官祭黒羽招魂社を創建します。明治八年には、関東で館林・宇都宮・黒羽の三社だけが太政官達により官祭招魂社となりました。現在の黒羽神社です。

▼ 現地取材の記事はこちら
【現地取材】黒羽城跡と黒羽藩 ― 勝海舟と並び称された藩主、四十七名を祀る招魂社

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