慶応4年(1868)6月24日、陸奥の棚倉城は、新政府軍の攻撃を受けてわずか1日で落ちました。棚倉藩の主力は白河口の戦いに出ていて、城にはほとんど兵が残っていなかったのです。守る側は城に火を放って退き、徳川の世に「奥州の押さえ」として築かれた城は、その役目を終えました。
この記事では、棚倉城の戦いを、棚倉藩がどんな藩だったのか、なぜ新政府軍に狙われたのか、6月24日に何が起きたのか、そして落城がその後の戦いにどうつながったのかの順に、進軍図を使ってわかりやすく解説します。白河口の戦いと二本松の戦いのあいだをつなぐ戦いです。
棚倉城の戦いとは?ひとことで言うと
白河城を押さえた新政府軍が、北へ進む前に、背後になる東の棚倉藩をたたいた戦いです。板垣退助の率いる約800人の別働隊が白河から攻め寄せ、主力を白河口に出していた棚倉藩は城を守りきれず、城に火を放って退きました。棚倉を押さえたことで、新政府軍は三春・二本松への北上に動き出せるようになります。
| 期間 | 慶応4年(1868)6月24日。1日で落城 |
|---|---|
| 場所 | 陸奥国 棚倉(現在の福島県東白川郡棚倉町) |
| 新政府側 | 土佐藩の板垣退助が率いる別働隊。約800人、大砲6門 |
| 同盟側 | 棚倉藩(阿部家)。主力は白河口に出ていて、城に残ったのは少しの守備兵だけ |
| 結果 | 新政府軍の勝利。棚倉藩は城に火を放って退き、棚倉城は焼け落ちる。新政府軍は棚倉を足場に三春・二本松へ北上する |
棚倉藩はどんな藩だったのか
「奥州の押さえ」として築かれた城
棚倉城は、寛永2年(1625)に丹羽長重が2代将軍・徳川秀忠の命を受けて築いた城です。棚倉は常陸との境に近い奥州の入り口にあたり、東北の外様大名ににらみをきかせる役目を負っていました。天守も高い石垣もありませんが、本丸を大きな土塁と水堀で囲んだ、実戦を考えた造りの平城です。
江戸時代を通じて、棚倉には譜代や親藩の大名が入れかわり立ちかわり入りました。城主の家は8家にもおよび、幕府の役目でしくじった大名が移されることも多かったため、「左遷の地」とも呼ばれました。
白河から移ってきた阿部家
幕末の棚倉藩主は阿部正静です。父の阿部正外は白河藩主で老中を務めましたが、慶応元年(1865)に罷免され、阿部家は翌年、白河から棚倉へ移されました。こうして白河城は空き城となり、隣の二本松藩が預かることになります。棚倉藩にとって白河は、ついこのあいだまで自分たちの城だった土地でした。
白河口の戦いで主力を失う
慶応4年閏4月、東北の諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、棚倉藩もこれに加わりました。白河城をめぐる白河口の戦いが始まると、棚倉藩は主力を白河口に送ります。
棚倉藩の家老・阿部内膳は「十六ささげ隊」(十六人組)と呼ばれる隊を率いて奮戦し、新政府軍に恐れられました。しかし5月1日、新政府軍が白河城を奪った戦いのなかで、内膳は撃たれて戦死します。その後も同盟軍は白河城を取り返そうと何度も攻めかかりましたが、すべて退けられ、棚倉藩の兵も白河の周りにくぎ付けになりました。
両軍の兵力と武器
棚倉城に攻め寄せた新政府軍と、城を守る棚倉藩とでは、兵の数だけでなく武器にも大きな差がありました。
| 棚倉藩(守る側) | 新政府軍(板垣退助の別働隊) |
|---|---|
| 主力は白河口に出ていて、城に残ったのは少しの守備兵だけ | 約800人 |
| 大砲はほとんどなく、城の守りは土塁と水堀が頼り | 大砲6門を引いて進む |
| 白河口では、家老・阿部内膳の「十六ささげ隊」のように、鎧兜に弓や槍で戦う隊もあった | 土佐藩の迅衝隊など、洋式の小銃をそろえ、洋式の調練を受けた部隊 |
| 城下と地形にはくわしい | 白河で兵をそろえ、守りの薄い時をねらって出撃 |
阿部内膳の率いた十六ささげ隊は、白河口で新政府軍に恐れられたほどの勇猛な部隊でした。しかし、昔ながらの武器で戦う隊がどれほど奮戦しても、洋式の銃と大砲で攻める相手を長く食い止めることはできません。棚倉城の場合はそれ以前に、城を守る兵そのものがほとんど残っていませんでした。大砲で撃ち込まれれば、土塁と水堀だけでは支えきれなかったのです。
新政府軍が棚倉を狙った理由
白河城を守りきった新政府軍は、6月に入って土佐・薩摩・長州などの援軍がそろうと、北へ攻め上がる準備を始めます。そのとき気がかりだったのが、白河の東にある棚倉藩でした。北へ進んでいるあいだに背後の棚倉から攻められれば、白河との連絡を断たれてしまいます。
しかも6月の中ごろには、新政府軍の別の部隊が海から平潟に上陸していました。棚倉城を守っていた仙台藩や相馬中村藩の兵は、平潟の新政府軍に備えて東へ向かい、城の守りはますます薄くなっていました。新政府軍にとって、棚倉をたたくには絶好の時でした。
なぜ白河口の主力は棚倉を救えなかったのか
ここで、ひとつ不思議に思うかもしれません。棚倉藩の主力は白河口にいたのに、なぜその白河から板垣の部隊が棚倉へ向かえたのでしょうか。
答えは、5月1日を境に白河での立場が逆になっていたことにあります。この日から白河城の中にいたのは新政府軍で、棚倉藩をふくむ同盟軍は、城の周りの山や村に陣を張って城を取り返そうと攻めかかる側でした。新政府軍は城に守りの兵を残したまま、板垣の部隊を城から東へ出したのです。同盟軍の陣は北の奥州街道や西の会津方面への備えが中心で、東の棚倉へ向かう道は手薄でした。
しかも同盟軍は、棚倉を助けに向かいませんでした。新政府軍が兵を二つに分けたのを好機と見て、白河城への攻撃を続けたのです。ところが城の守りは崩れず、そのあいだに棚倉城のほうが落ちてしまいました。棚倉藩の兵は白河にいながら、自分たちの城を守りに戻れなかったのです。
6月24日、棚倉城の落城

板垣退助の別働隊、白河を出る
6月24日、土佐藩の板垣退助は、約800人の別働隊を率いて白河を出発しました。大砲6門を引き、東へ金山を越えて棚倉へ向かいます。白河にいた同盟軍の主力は、この動きを止めることができませんでした。
逆川での迎撃と、城に放たれた火
棚倉藩の守備兵の一部は、城の北の逆川のあたりで新政府軍を迎え撃ちました。しかし兵の数も大砲の数もまるで違い、すぐに押し返されてしまいます。城にこもって戦えるだけの兵は、もう残っていませんでした。

守る側は城を敵に使わせないよう、みずから城に火を放って退きました。こうして棚倉城は、攻撃を受けたその日のうちに焼け落ちます。寛永の築城から240年あまり、一度も戦場にならなかった城の、あっけない最期でした。
落城のあと—三春・二本松へ
棚倉を押さえた板垣退助は、城下の蓮華寺に陣を置き、およそ1か月とどまりました。この間に磐城の戦いで磐城平城が落ち、板垣は蓮華寺から三春藩と帰順の交渉を進めます。
7月24日、板垣の部隊は棚倉から北へ動き出しました。26日には三春藩が戦わずに新政府軍に降り、29日には二本松城が落ちます。棚倉城の落城は、この北上の最初の一歩でした。
棚倉藩主の阿部正静は戦後、新政府に処分されて領地を減らされ、家督は弟の阿部正功が継ぎました。
戦いの流れ(慶応4年)
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 閏4月 | 奥羽越列藩同盟が結ばれ、棚倉藩も加わる。白河口の戦いが始まる |
| 5月1日 | 新政府軍が白河城を奪う。棚倉藩の家老・阿部内膳が戦死 |
| 5月〜7月 | 同盟軍が白河城を何度も攻めるが、取り返せない |
| 6月中旬 | 新政府軍の別の部隊が平潟に上陸 |
| 6月24日 | 板垣退助の別働隊が白河を出て棚倉を攻める。棚倉城が落ちる |
| 7月13日 | 磐城平城が落ちる |
| 7月24日 | 板垣の部隊が棚倉から北上を始める |
| 7月26日 | 三春藩が新政府軍に降る |
| 7月29日 | 二本松城が落ちる |
この戦いが示したもの
棚倉城の戦いは、戦いそのものはわずか1日でした。けれども、その意味は小さくありません。主力を白河口に出しているあいだに本拠地を突かれるという形は、このあと二本松藩でもそっくり繰り返されます。同盟軍が白河にこだわって兵を集めつづけたことが、まわりの城を手薄にし、新政府軍に北上の道を開いてしまったのです。
そして棚倉は、新政府軍にとって白河の背後を固め、三春・二本松へ向かう足場になりました。小さな城の1日の落城が、奥州の戦局を大きく動かしたといえます。
現地を歩く—棚倉城跡(亀ヶ城公園)
棚倉城跡は、いま亀ヶ城公園として整備されています。本丸を囲む土塁と水堀がよく残り、平成31年(2019)には国の史跡に指定されました。堀に住む大亀が浮かぶと城主が替わる、という言い伝えから「亀ヶ城」とも呼ばれます。城跡のくわしい様子は、【現地取材】棚倉城と棚倉藩で紹介しています。




筆者の感想
棚倉城は、こぢんまりとしたお城でした。水堀も、それほど幅が広いわけではありません。
でもね、良いお城でしたよ。私は、このくらいのお城が落ち着いていいかな。自分が城主なら。
じつは、この戦いのことはあまりわかっていなくて、1日、あるいは半日で落城したということしか知りませんでした。
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参考資料
- 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社)
- 『棚倉町史』
- 棚倉町「棚倉城築城400年」
- 城跡の案内板「棚倉城跡」(棚倉町・棚倉町観光協会)
文・写真:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです


