小倉藩/小笠原家15万石:小笠原忠忱 幕長戦争(四境戦争)では小倉口を担当した高杉晋作に惨敗して小倉城を自焼 藩庁を移転した小倉藩

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小倉藩の歩み

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで、細川忠興は徳川家康の東軍について戦いました。丹後の田辺城では、父の細川幽斎が、天皇の命令で和睦するまで西軍の大軍を相手に城を守り抜いています(田辺城の戦い)。この功績で忠興は、丹後田辺と豊後杵築をあわせた十八万石から、豊前一国と豊後の国東郡・速見郡の三十九万九千石へと大きく加増され、小倉城を本拠とする小倉藩を開きました。

小倉藩/場所・アクセス・地図 小笠原家15万石:小笠原忠忱 幕長戦争(四境戦争)では小倉口を担当した高杉晋作に惨敗し落城 藩庁を移転した小倉藩【幕末維新写真館】

肥後の「加藤忠広」の改易により細川氏が熊本藩へ移封となります。小倉には小笠原家が十五万石にて入封し幕末まで小倉を統治しました。時代は下って文久三年(1863年)、小倉藩は海の守りを固めるため、関門海峡沿いに葛葉台場・東浜台場・西浜台場などの砲台を築き、兵を補うために農民の兵の募集と訓練も始めます。海峡の向こう岸の長州藩は、関門海峡を通る外国船に大砲を撃ちかけ、これが下関戦争へとつながっていきます。しかし幕府は、こちらに敵意を見せていない外国船を一方的に攻撃するのは控えるよう命じていました。小倉藩はその命令に従ったため、長州藩とは立場が正反対になります。このため小倉藩では砲台や兵を配備したものの戦闘は行っていません。

このころ長州藩は、海峡に面した小倉藩領の田野浦に勝手に兵を送り込んで占領し、砲台を築こうとするなど、両藩の争いが続きました。小倉藩は幕府と相談したうえで、長州藩と武力でぶつかることは避け、話し合いでの解決に努めました。「八月十八日の政変」以降長州藩の勢力が弱まると、占拠されていた地域は小倉藩へ返還され、一旦小康状態となります。そのあとも守りを固め、慶応元年(1865年)には蒸気船「飛龍丸」を買い入れています。

長州征討では、小倉藩は征討軍の九州側の最前線として、第一次・第二次とも兵を出しました。元治元年(1864年)の第一次長州征討では長州藩が恭順したため戦闘は発生しなかったが、慶応二年(1866年)の「第二次長州征討(四境戦争)」では、征長総督の老中「小笠原長行(唐津藩)」の指揮で小倉口の先鋒として参戦しました。

この戦闘は小倉口を担当した長州藩の「高杉晋作」指揮する奇兵隊や正規軍による激しい攻撃で門司が制圧され、小笠原総督は事態を収拾することなく戦線を離脱しました。これにともない他の九州諸藩も軒並み撤兵に転じました。ところが第二次長州征討では、ほかの藩の兵が次々に引き揚げ、小倉藩だけが取り残されます。孤立した小倉藩は、慶応二年(1866年)八月一日、自ら小倉城に火を放ち、田川郡の香春(いまの香春町)へ退きました。

それでも家老の島村志津摩を中心に軍を立て直し、金辺峠と狸山に守りの拠点を築き、高津尾を前線にして長州軍にゲリラ戦を挑み、一時は小倉城を取り返すほどの粘りを見せました。しかし、同年十月には他戦線での幕府軍との停戦成立に伴い、長州側の兵力が増強されると、次第に圧迫され多くの防衛拠点が失われるに及び、停戦交渉が開始されました。

しかし講和の条件の一つとして、小倉城のある企救郡は引き続き長州藩が占領することになり、小倉藩は企救郡を取り戻せませんでした。企救郡はそのまま長州藩の支配下に置かれ、明治二年(1869年)になって日田県の管轄に移されます。

慶応三年(1867年)三月に小倉から藩庁を香春へ移転し、この間「香春藩」と呼ばれました。さらに明治二年(1869年)十二月二十四日には京都郡豊津(みやこ町)に藩庁を移して豊津藩となりました。藩は本拠を豊津に移し、明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で豊津県となったあと、小倉県をへて福岡県に入りました。

小倉城を焼いたのは、長州軍ではありません

八月一日、藩が自分の城に火を放ちました

北九州市が公開している年表は、この戦いの経過を日付で並べています。慶応二年(1866年)六月十七日に長州藩の奇兵隊が田野浦(現在の門司区)へ上陸し、七月三日に大里、七月二十七日に赤坂で戦いが起こりました。そして七月三十日、肥後藩をはじめ加勢に来ていた諸藩が自分の領国へ引き上げ、小倉城で軍議が開かれます。翌八月一日、小倉藩は自ら小倉城に火を放ち、田川郡の香春(かわら)方面へ退きました。

長州軍が攻め落としたのではありません。守り切れないと判断した藩が、城を敵に渡さないために焼いたのです。「落城」と紹介されることもありますが、市の公式記述は一貫して「自ら火を放ち」です。小倉城の公式サイトも「自ら小倉城に火を放って戦線を後退せざるをえませんでした」と書いています。

なお北九州市の年表に高杉晋作の名前は出てきません。上陸したのは「長州藩の奇兵隊」と記されています。指揮官として高杉を名指しする自治体公式の記述は見あたらないので、ここでは奇兵隊の上陸として書いておきます。→ 長州藩・熊本藩(肥後藩)

総督は、城が焼ける前に船で去っていました

このときの幕府軍総督は、老中の小笠原長行(ながみち)でした。小倉小笠原家の分かれである肥前唐津藩の世子で、慶応元年(1865年)正月に老中となった人物です。世界大百科事典は「小倉城の陥落直前に脱出し、長崎を経て大坂へ帰った」と書いています。九州諸藩の軍をまとめる立場の人間が、城が焼ける前に戦線を離れていたわけです。

ただし離脱の具体的な日付は、辞典類でも「自焼の直前」までしか特定できませんでした。→ 唐津藩

このとき藩主は、四歳でした

もう一つ、小倉藩の戦いを理解するうえで欠かせない事情があります。藩主の死が隠されていたのです。

藩主の小笠原忠幹(ただまさ)は慶応元年(1865年)に三十九歳で亡くなっていました。しかし藩は第二次長州征討を目前にしており、葬儀を出すことも当主の交替を届け出ることもできません。死が公にされたのは慶応三年(1867年)になってからで、嫡子の忠忱(ただのぶ)はそのときまだ四歳でした。

つまり城を焼いた慶応二年八月の小倉藩には、実権を持つ藩主がいません。動かしていたのは家老たちです。「幕末の小倉藩主 小笠原忠忱」と書くと、幼児が采配を振ったように読めてしまうので、ここは分けて考える必要があります。忠忱は文久二年(1862年)二月八日生まれ、明治三十年(1897年)二月五日に亡くなり、明治十七年(1884年)に伯爵となりました。

城下と企救郡は、戻ってきませんでした

香春へ退いた藩は、慶応三年(1867年)正月に長州藩と和議を結びます。このとき小倉城下と企救(きく)郡は長州藩が支配することになりました。企救郡は、いまの門司区と小倉北区・小倉南区の一部にあたる区域です。藩の心臓部がそのまま相手の手に渡ったのですから、事実上の降伏です。

ここから先が、あまり知られていない部分です。企救郡は小倉藩には返されませんでした。北九州市の資料をたどると、明治二年(1869年)七月、企救郡は長州藩が支配していた土地だという理由で小倉県には入らず、日田県の一部とされます。明治四年(1871年)二月、企救郡の百姓一揆をきっかけに長州藩が撤退し、門司は日田県預かりの形になりました。そして同年十一月十四日、企救郡はようやく小倉県の一部となります。藩に戻ったのではなく、県という新しい器に入り直したのです。

藩庁のほうは香春にとどまらず、明治二年(1869年)のうちに仲津郡の豊津(現在のみやこ町)へ移り、豊津藩と改称しました。香春藩・豊津藩という名は、城を失った藩がどこに腰を下ろしていたかを示す地名でもあります。移転の月については明治二年一月とするものと十二月とするものがあり、郡名も仲津郡・京都郡の両説が見られるため、ここでは年までにしておきます。

藩校の名は、いまも学校に残っています

小倉藩の藩校は思永斎(しえいさい)で、福岡県の文化財データベースによれば宝暦八年(1758年)に四代藩主小笠原忠総が開きました。豊津へ移った藩は、すぐに子弟の教育に手を付けます。みやこ町の説明では、校舎は行事(ゆくはし)の商人玉江彦右衛門が私財を投じて建てて藩に寄付し、明治三年一月に育徳館として開校しました。その校門が「黒門」で、一時期は苅田の真念寺の山門になっていたものを昭和四十五年に現在地へ戻しています。県立育徳館高校の名は、ここから続いています。

ひとつ注意が要るのは、現地に建つ「思永館」は藩校の建物ではないことです。これは明治三十五年(1902年)に建てられた旧福岡県立豊津中学校の講堂で、平成元年八月二十六日に福岡県の有形文化財に指定されています。名前は藩校を継いでいますが、建物そのものは明治のものです。

天守は再建ですが、城跡は史跡に指定されていません

いまの小倉城の天守は昭和三十四年(1959年)の再建です。小倉城公式サイトは「唐造り(からづくり)の天守」と呼び、四階と五階の間に屋根の庇がなく、五階が四階より大きくなっているのが特徴だと説明しています。南蛮造りという呼び方や「破風がない」という言い方は公式には出てきませんので、公式の表現に合わせておきます。公式は「福岡県で唯一天守閣を有する城」「大阪城・名古屋城に次ぐ国内で三番目の規模」とも自称しています。

そして調べていて意外だったのが、小倉城跡には国・県・市いずれの史跡指定も確認できないことです。北九州市の文化財一覧で見つかるのは二の丸家老屋敷跡から出た石棺と副葬品の市指定で、城跡そのものは挙がっていません。天守を焼いた藩が、城跡としての指定を持たないまま天守を建て直した—という形になっています。同じ十五万石級で城跡が国史跡になっている郡山藩と並べると、この違いはよく見えます。

城の東側には小笠原家の下屋敷跡地を使った小倉城庭園が平成十年九月に開かれ、池泉回遊式の庭と書院、小笠原礼法の展示があります。城内の八坂神社は、元和三年(1617年)に小倉藩主細川忠興が藩の総鎮守として鋳物師町に社殿を建てたのが始まりです。

小倉織が途絶えたのは、幕末ではありません

小倉の名物として知られる小倉織は、北九州市の資料では江戸時代初期から小倉藩の特産で、徳川家康も愛用したと伝えられる綿織物です。ところが「幕末に途絶えた」わけではありません。市の資料は昭和初期に途絶え、1984年に染織家の築城則子(ついき・のりこ)が手織りで復元したと書いています。機械織りでの再生は2007年です。縦糸を横糸の三〜四倍も入れる、鮮やかな縦縞の布です。

食べものでは「ぬかみそ炊き」があります。農林水産省の郷土料理の解説では、もとは小笠原藩の保存食だったぬか漬けが旧家から庶民へ広まったもので、栄養があって日持ちするので戦にも用いられ、藩主の小笠原公から「陣立煮(じんだに)」と名付けられたと伝わります。城を焼いて山あいへ退いた藩の兵も、似たものを背負っていたのかもしれません。

廃藩置県では明治四年(1871年)七月に廃藩となって豊津県、同年十一月十四日に小倉県、明治九年(1876年)四月十八日に福岡県へ合併されました。→ 広島藩

坂本龍馬も加わった小倉口の戦い

第二次長州征討の小倉口の戦いには、坂本龍馬も加わっていました。慶応二年(1866年)六月、龍馬は亀山社中が長州のために動かしていた蒸気船・乙丑丸(ユニオン号)に乗り込み、高杉晋作が率いる長州の艦隊とともに、関門海峡を渡って小倉藩領の田野浦・門司への攻撃を助けています。龍馬が実際の戦いに加わった、数少ない場面の一つです。

この戦いの前日に龍馬が長州藩士へ宛てた手紙が残っています。くわしくは品川省吾宛の手紙をご覧ください。

小倉藩をもっと詳しく

小笠原家の初代・小笠原忠真

小倉の小笠原家の初代・小笠原忠真は下総の古河城で生まれました。慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣で父・秀政と長兄・忠脩がそろって戦死したため家督を継ぎ、信濃松本八万石、播磨明石十万石を経て、寛永九年(1632年)に十五万石で小倉へ入りました。前の小倉藩主・細川忠利とは義理の兄弟の間柄です。忠真の母は家康の長男・松平信康の娘で、忠真は家康のひ孫にあたります。この血筋から、小倉の小笠原家は西国の譜代大名の筆頭として九州の入口を押さえ、外様大名を見張る「九州探題」のような役目を負いました。

忠真は島原の乱では長崎の守りを務め、剣豪・宮本武蔵がもっとも長く仕えた大名ともいわれます。武蔵の養子・宮本伊織は島原の乱の手柄などで小倉藩の筆頭家老となり、宮本家は代々その地位を継ぎました。忠真は茶人としても知られ、上野焼を育て、茶道の小笠原家茶道古流をおこしています。ぬか漬けを好み、小倉入りの際にもぬか床を持ち込んで城下に勧めたと伝わります。

本家と分家・親戚の家

忠真が小倉に入ったとき、親族も九州に配置されました。甥の小笠原長次が八万石で豊前中津藩に、弟の忠知が四万石で豊後杵築藩に入っています。

寛文七年(1667年)には、二代藩主・忠雄が弟の真方に一万石を「内分分知」し、小倉新田藩ができました。新田藩とは、本家の石高の中から一族に石高を分けて大名とする仕組みで、自分の城や独立した領地を持たないことも多い藩です。小倉新田藩の藩主家は参勤交代をせず江戸に住み続ける「定府」の大名でした。明治二年(1869年)に千束(今の豊前市)に陣屋を構えて千束藩と名を改め、明治四年(1871年)の廃藩置県で千束県となりました。七代の貞嘉は、のちに本家を継いで小倉藩主・小笠原忠嘉となっています。千束藩の小笠原家は明治十七年(1884年)に子爵となりました。

また享保十五年(1730年)、三代忠基の次男・長逵が播磨の安志藩を継ぎました。それ以後、小倉藩・小倉新田藩・安志藩の三家は養子のやりとりで結びつきを深め、もともとは小笠原家の嫡流だった安志藩まで、小倉藩の分家のように見られるようになりました。

藩政の出来事—改革と白黒騒動

安永六年(1777年)に家老となった犬甘知寛は財政改革を行い、寛政十年(1798年)ごろには銀八千貫を貯えるまでに立て直しました。しかし反対派に追い落とされて享和三年(1803年)に失脚し、無実の罪で牢に入れられて亡くなりました。

文化八年(1811年)には、六代藩主・小笠原忠固のもとで「白黒騒動」と呼ばれるお家騒動が起こります。忠固が老中になろうとして江戸家老の小笠原出雲に運動を命じたため、多額の出費で財政が破綻しかけ、反対派は出雲の暗殺を図りました。反対派の一部は藩を出て隣の福岡藩領・黒崎へ立ち去ったため、黒崎にちなんで反対派を「黒」、城に残る出雲派を「白」と呼んだのが名前の由来です。幕府の裁きで出雲は家老を解かれ、反対派の一部は処刑され、忠固も百日の閉門となりました。借金は十五万両にふくらんだといわれます。

文政三年(1820年)からは郡代・杉生貞則による産業振興で、今川の改修、道路の整備、宇島港の築港が行われました。安政元年(1854年)には家老・島村志津摩と郡代・河野四郎が改革を始め、農産物・石炭・焼物などを藩が集めて売る仕組みを整えています。のちに小倉口の戦いで軍を立て直したのも、この島村志津摩でした。

領地のようす

細川家の時代の小倉藩は豊前一国と豊後の一部(三十九万九千石)でしたが、小笠原家の小倉藩は豊前北部十五万石でした。企救郡を失った後の豊津藩の領地は、豊前国の田川郡六十四村、京都郡七十一村、仲津郡七十六村、築城郡四十一村、上毛郡のうち三十一村で、今の福岡県の香春町・みやこ町・行橋市・築上町・豊前市などにあたる地域です。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、十五万石のこの藩はおよそ三千五百三十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「小倉藩」「小笠原忠真」「小倉新田藩」「小笠原忠固」

場所・アクセス・地図

〒803-0813 福岡県北九州市小倉北区城内2-1

参考資料:Wikipedia日本語版「小倉藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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