慶応4年(1868)閏4月3日、上総の小さな藩の殿様が、自分の陣屋に火を放って藩を抜け出しました。請西藩主・林忠崇、21歳。江戸から渡ってきた旧幕府の遊撃隊と手を組み、房総の諸藩をまわって仲間を集めながら南へ進み、館山から海を渡って箱根で新政府軍と戦います。藩主みずからが脱藩した、ほかに例のない戦いです。
この記事では、房総半島を舞台にした遊撃隊と林忠崇の挙兵を、なぜ房総だったのか、どの藩をまわり、それぞれの藩がどう応じ、どう終わったのかの順に、進軍図とあわせて解説します。
遊撃隊と林忠崇の房総転戦とは?ひとことで言うと
江戸開城に従わなかった旧幕府の遊撃隊が房総に渡り、請西藩主・林忠崇とともに内房の諸藩に協力を求めながら南下し、相模・伊豆へ渡って箱根で戦った一連の戦いです。飯野藩や勝山藩からは藩士が加わり、館山藩は物資を出しました。けれども大多喜藩や一宮藩は誘いに乗らず、箱根の戦いに敗れたあと、協力した藩は新政府から重い責任を問われることになりました。
| 期間 | 慶応4年閏4月3日〜5月26日(1868年5月24日〜7月15日) |
|---|---|
| 場所 | 上総・安房(現在の千葉県木更津市・君津市・富津市・鋸南町・館山市)から、相模・伊豆(神奈川県・静岡県)へ |
| 旧幕府側 | 遊撃隊(人見勝太郎・伊庭八郎ら約36名)、請西藩主・林忠崇と藩士約70名。飯野藩・勝山藩などの藩士が加わり、沼津では約270名に |
| 新政府側 | 小田原藩、長州・鳥取・津・岡山などの藩兵 |
| 結果 | 5月26日の箱根・山崎の戦いで敗れ、館山へ戻ったのち東北へ。請西藩は戊辰戦争でただ一つ取りつぶされ、協力した内房諸藩の責任者は切腹した |
なぜ房総が舞台になったのか
江戸開城と、房総へ逃れた旧幕府軍
慶応4年4月11日、江戸城が新政府軍に明け渡されました(江戸城無血開城)。これに従わない旧幕府の将兵は、次々に江戸を抜け出します。大鳥圭介の伝習隊は北の宇都宮へ向かい(宇都宮城の戦い)、榎本武揚の艦隊は房総の館山湾に入りました。福田道直の撒兵隊約2,000人は、木更津に集まります。
江戸湾をはさんで江戸の向かいにある房総は、海から行き来しやすく、しかも小さな藩が並ぶ土地でした。旧幕府軍にとっては、ひとまず身を寄せ、仲間を集めるのにちょうどいい場所だったのです。
遊撃隊、木更津に上陸
遊撃隊は、将軍の身辺を守るために腕の立つ幕臣を集めた部隊です。そのうち、伊庭八郎と人見勝太郎ら36人の一隊が、江戸開城に従わず戦うことを決めました。4月17日、彼らは榎本艦隊の船で木更津の近くに上陸します。
伊庭八郎は、江戸の剣術道場・心形刀流伊庭道場の跡継ぎで、「伊庭の小天狗」と呼ばれた剣士でした。人見勝太郎は京都の二条城に詰めた幕臣で、鳥羽・伏見の戦いも経験しています。
請西藩主・林忠崇、脱藩する
遊撃隊が請西にやってきた
4月28日、遊撃隊は木更津のすぐ南にある請西藩の真武根陣屋を訪ねました。請西藩は林家1万石。徳川家康の先祖をかくまったという由緒を誇る、徳川家に近い譜代の家です。藩主の林忠崇はまだ21歳でしたが、文武にすぐれ、将来は幕府の重職を任されると期待されていた人でした。

遊撃隊の規律正しさを見た忠崇は、協力を約束します。けれども、藩として旧幕府軍に加われば、新政府から藩そのものが罰を受け、領民にも迷惑がかかります。そこで忠崇が選んだのは、藩主である自分が藩を抜け出すという道でした。
閏4月3日、陣屋を焼いて出陣
閏4月3日、忠崇は賛同した藩士約70名とともに真武根陣屋を出ました。出発にあたって、忠崇は陣屋に自ら火を放っています。戻る場所を自分で断ったのです。同じ日、北の市川や船橋では、撒兵隊が新政府軍と戦っていました(市川・船橋戦争)。
藩主が自ら脱藩する。これは江戸時代を通じて例のないことでした。くわしくは請西藩と真武根陣屋のページでも紹介しています。
房総の諸藩をまわる ― 内房を南へ

林忠崇と遊撃隊は、自分たちを「義軍」と名のりました。そして内房の海沿いを南へ進みながら、通り道の藩に兵や物資を出すよう求めていきます。小さな藩にとって、これはとても苦しい選択でした。断れば城下が戦場になるかもしれない。応じれば、新政府から裏切りとみなされる。房総の藩は、それぞれのやり方でこの難題に向き合いました。
富津陣屋:前橋藩の老臣が切腹
最初に向かったのは、富津の陣屋でした。ここは江戸湾の守りのために置かれた前橋藩の陣屋です。義軍に囲まれた陣屋を預かっていた前橋藩の老臣・小河原多宮は、兵と大砲を義軍に引き渡し、その責任を負って切腹しました。義軍はここで武器を手に入れます。
飯野藩:藩主の留守に20名が加わる
富津のすぐ北にある飯野藩は、保科家2万石。会津藩主・松平家と同じ保科の血筋で、会津藩と縁の深い家でした。このとき藩主の保科正益は京都へ上る途中で、藩を留守にしていました。その留守のあいだに、飯野藩士の大出鋠之助にひきいられた20名が義軍に加わり、富津陣屋の包囲にも加わっています。

佐貫藩:撒兵隊に援軍を送っていた
佐貫藩は阿部家1万6千石です。佐貫藩はこれより前に、木更津に集まった撒兵隊へ藩兵を援軍として送り、反対した家老を退けるなど、旧幕府側に寄った動きをしていました。のちに藩主の阿部正恒は、このことで謹慎を命じられています。くわしくは佐貫藩と【現地取材】佐貫城跡を歩くで紹介しています。

勝山藩:31名を「半ば脱藩」の形で差し出す
閏4月7日、義軍は安房の保田あたりに陣を張り、勝山藩に援兵を求めました。勝山藩は酒井家1万2千石。藩主の酒井忠美はまだ6歳で江戸にいて、家老も蝦夷地に出張中でした。留守を預かる藩士たちは、断れば勝山の町が戦火に巻き込まれると迫られ、苦しんだすえに31名を「半ば公認・半ば脱藩」という形で義軍に加えました。

館山藩:物資を送るにとどめる
半島の南の北条(館山)には、稲葉家1万石の館山藩がありました。藩主の稲葉正巳は幕府の要職を歴任した人ですが、戊辰戦争が始まると役職を退き、新政府に従う道を選んでいました。義軍が迫ると、正巳は兵は出さず、物資を送るだけにとどめてこの場を乗り切ります(館山藩)。

誘いに乗らなかった藩もある
房総のすべての藩が義軍に応じたわけではありません。半島の内陸にある大多喜藩は、林忠崇や撒兵隊・遊撃隊からの誘いをはっきりと退けました。大多喜藩主の松平正質は鳥羽・伏見の戦いで幕府軍の指揮をとった人で、新政府から重い罪に問われていましたが、この誘いを断ったことが評価されて、その年の8月に許されています(大多喜藩)。太平洋側の一宮藩も、新政府の側に立ちました(一宮藩)。
外房の藩は? ― 義軍の手が届かなかった半島の東側
義軍が兵や物資を集めたのは、江戸湾に面した内房の藩ばかりでした。半島の東側、太平洋に面した外房には、義軍が協力を求めた記録がほとんど見当たりません。
理由のひとつは、外房にはもともと藩が少なかったことです。たとえば勝浦には、かつて大岡家の勝浦藩がありましたが、宝暦6年(1756)に藩主が武蔵の岩槻へ移ったため藩はなくなり、幕末には飛び地として代官が治める土地になっていました(勝浦藩)。外房の多くは、幕府の直轄地や旗本の領地が入り組んだ土地だったのです。
さらに北の下総・網戸(いまの旭市)も同じです。武田家を裏切った木曽義昌が晩年を過ごしたこの地には網戸藩が置かれましたが、十年ほどで消え、幕末には藩がありませんでした(【現地取材】網戸の東漸寺と木曽義昌)。義軍が仲間に誘えるような大名は、房総の東側にはほとんどいなかったのです。
もうひとつは、義軍の目的地です。義軍がめざしたのは、館山から船で相模へ渡り、箱根や駿河で旧幕府の勢力をまとめることでした。そのため内房の海沿いを南へ急ぎ、外房の村々まで回ることはなかったと考えられます。房総のほかの藩も、内陸の久留里藩(黒田家3万石)は、義軍が通った内房からも近い山あいの藩でしたが、早くから新政府に従い、上野寛永寺で謹慎する徳川慶喜の警護まで務めていました。義軍の誘いに乗る理由はなかったのです(久留里藩・【現地取材】久留里城を歩く)、市原の鶴牧藩は同じころに起きた五井戦争で中立を保とうとして、のちに領地の一部を取り上げられています(鶴牧藩)。
| 藩 | 石高 | 義軍への対応 |
|---|---|---|
| 請西藩(林家) | 1万石 | 藩主みずから脱藩し、藩士約70名とともに加わる |
| 前橋藩(富津陣屋) | (飛び地) | 兵と大砲を引き渡し、老臣・小河原多宮が切腹 |
| 飯野藩(保科家) | 2万石 | 藩主の留守中、藩士20名が加わる |
| 佐貫藩(阿部家) | 1万6千石 | 撒兵隊に援軍を送る。藩主は謹慎に |
| 勝山藩(酒井家) | 1万2千石 | 31名を「半ば脱藩」の形で差し出す |
| 館山藩(稲葉家) | 1万石 | 兵は出さず、物資を送る |
| 大多喜藩(松平家) | 2万石 | 誘いを断る。のちに許される |
| 一宮藩(加納家) | 1万3千石 | 新政府側に立つ |
| 久留里藩(黒田家) | 3万石 | 早くから新政府に従う |
| 鶴牧藩(水野家) | 1万5千石 | 五井戦争で中立をとり、のちに領地の一部を没収 |
海を渡って、箱根へ
閏4月12日、真鶴に上陸
館山にたどり着いた義軍は、旧幕府海軍の船で江戸湾の入口を渡り、閏4月12日、相模の真鶴に上陸しました。小田原藩に協力を求めましたが断られ、伊豆の韮山、駿河の沼津へと進みます。沼津に陣を置いたころには、義軍は約270名にふくらんでいました。勝山藩の31名も、その一隊に組み込まれています。

5月26日、箱根・山崎の戦い
5月15日、江戸の上野で彰義隊が新政府軍に敗れました(彰義隊と上野戦争)。義軍は箱根の関所を押さえ、一時は小田原藩も旧幕府側に傾きます。けれども新政府が長州・鳥取・津・岡山などの兵を差し向けると、小田原藩はふたたび新政府側に戻り、義軍を攻めることになりました。
5月26日、箱根の山崎で戦いが始まります。新政府側の兵は2,000人をこえ、義軍はその1割ほどでした。銃撃戦から斬り合いになり、伊庭八郎はこの戦いで左手を斬られる深手を負います。夕方には義軍は崩れ、熱海から船で館山へ逃れました。この戦いで、勝山藩の31名のうち15名が戦死し、10名が傷を負っています。箱根の戦いの舞台となった小田原については、【現地取材】小田原城を歩くで紹介しています。

戦いのあと ― 東北へ、そして房総に残された責任
林忠崇と遊撃隊は東北へ
館山に戻った義軍は、6月1日に旧幕府海軍の船で東北へ向かいました。磐城では泉藩・湯長谷藩などとともに新政府軍と戦い(磐城の戦い)、その後も会津・仙台へと転戦します。けれども仙台藩が降伏すると、徳川家の存続がすでに決まったことを知った忠崇は、戦う理由は果たされたとして9月に降伏しました。一方、人見勝太郎と伊庭八郎は榎本艦隊とともに蝦夷地へ渡り、箱館戦争を戦っています。伊庭は箱館で傷を負い、五稜郭で亡くなりました(箱館戦争)。
生き残った人見勝太郎は、許されたあと徳川家が移った静岡で静岡学問所の長を務め、のちに大久保利通の推しで政府の勧業寮に入り、製茶の仕事に携わりました。その後は茨城県令となり、利根川と江戸川を結ぶ利根運河の会社を興しています。箱根で刀を振るった遊撃隊の隊長は、明治には国をつくる側に回ったのです。
請西藩、ただ一つの取りつぶし
藩主が脱藩して新政府軍と戦ったことで、請西藩は取りつぶされました。戊辰戦争で藩そのものがなくなったのは、請西藩ただ一つです。忠崇は許されたあと旧領で農民として暮らし、東京府や大阪府の役人を経て、昭和16年(1941)まで生きました。最後まで生き残った元大名として、「最後の大名」「最後の殿様」と呼ばれています。
6月12日、佐貫の三宝寺での切腹
義軍に兵を出した内房の諸藩にも、新政府は責任を求めました。慶応4年6月12日、佐貫の三宝寺で、義軍に加わった藩の責任者が切腹しています。勝山藩からは福井小左衛門と楯石作之丞の二人が腹を切りました。勝山の町を戦火から守るために兵を出し、その兵の多くを箱根で失い、さらに責任を負って命を差し出したのです。
明治23年(1890)、旧勝山藩士たちは勝山に「義士の碑」を建てました。碑の題字を書いたのは、ともに戦った人見勝太郎です。

この戦いが示したもの
遊撃隊と林忠崇の房総転戦は、大きな藩の争いのはざまで、小さな藩がどう生き残るかを迫られた戦いでした。藩主が自ら脱藩した請西藩、留守中に藩士が加わった飯野藩、町を守るために半ば脱藩の形で兵を出した勝山藩、物資だけで切り抜けた館山藩、きっぱり断った大多喜藩。同じ房総の小藩でも、選んだ道はそれぞれ違いました。
そして、どの道を選んでも、そのつけは藩士や領民が払うことになりました。房総の各地に残る碑や陣屋の跡は、その重さをいまに伝えています。
現地を歩く ― 飯野陣屋と勝山
飯野陣屋の跡(富津市下飯野)には、いまも水をたたえた濠と土塁が残り、陣屋の中には飯野神社が建っています。勝山(鋸南町)では、勝山城跡のふもとに勝山藩陣屋の跡と義士の碑があり、切腹した二人の墓は佐貫(富津市)の三宝寺にあります。くわしくは【現地取材】飯野陣屋と保科家と【現地取材】勝山城跡と勝山藩陣屋を訪ねるで紹介しています。
筆者の感想
林忠崇は最後の大名として90歳くらいまで生きました。藩をつぶしてまで徳川の側についた、この時代としてはとても珍しい殿様でした。彼の立場だったら私ならどうするのかなと、よく考えてしまいます。そして仙台まで戦って、函館には行かずに降伏したのかな。
でも人見とともに箱根や三枚橋、小田原などでも戦い、拠点を移しながら数々の苦難をともなって、よくぞ仙台まで行ったものだと思います。徳川家が移った駿河では、旧幕臣たちが牧之原でお茶畑を切り開きました。いま静岡茶は有名ですものね。
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参考資料
- 鋸南町 菱川師宣記念館「勝山藩の戊辰戦争」
- 勝山藩義士の碑 現地案内板
文・写真:佐藤秀信
※進軍図はイラストです


