| 乙丑丸 | |||
| 藩名 | 長州藩 | ||
| 藩主 | 毛利慶親 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 70馬力 | ||
| 写真 | 有 | ||
■ 詳細
英国ロッテルニーヒで建造されました。原名ユニオン号。1865年10月17日英国商人グラバーより亀山社中の仲介で5万両で購人。7500挺の洋式銃と共に長州藩にもたらされました。第二次長州征伐では亀山社中に運用され、大島郡、小倉口等に出撃。第二次長州征伐後、指揮権は長州藩海軍局が取り戻しました。
所属した長州藩と、薩摩名義で買った「乙丑丸」
この軍艦・乙丑(いっちゅう)丸は、長州藩(毛利家)にとって特別な一隻でした。じつはこの船は、薩摩藩の名義を借りて長州が購入した軍艦なのです。
朝敵とされた長州は、自分の名では武器も船も買えませんでした。そこで坂本龍馬の亀山社中が仲立ちし、慶応元年(乙丑、1865)に薩摩の名義でこの軍艦(ユニオン号)を手に入れます。これは薩長が水面下で手を結んだ具体的なあらわれで、翌年の薩長同盟へとつながりました。乙丑丸は、薩長協調の象徴というべき一隻です。
乙丑丸をもっと深く——一隻の船に、二つの藩名がついた
買えない藩と、買える藩
慶応元年(1865年)、長州藩は幕府から敵視されており、外国商人から船や武器を直接買うことができませんでした。禁門の変の後です。買いたくても、名前を出した瞬間に取引が止まります。
そこで使われたのが、薩摩藩の名義でした。長崎のグラバー商会から「ユニオン号」を、薩摩藩の名で購入します。仲介したのは坂本龍馬らの亀山社中です。資金五万両を出したのは長州で、近藤長次郎と井上馨が協定案を作り、亀山社中が操船を担うという取り決めになりました。
結果、この船には二つの名前がつきました。薩摩は「桜島丸」と呼び、長州は「乙丑丸」と呼びました。同じ一隻の船を、二つの藩がそれぞれの名前で呼んでいたのです。
| 建造 | イギリス(1854年) |
|---|---|
| 旧名 | ユニオン号 |
| 別称 | 桜島丸(薩摩藩側の呼称) |
| トン数 | 300トン |
| 全長 | 約45メートル |
| 船体 | 木鉄混造・3本マスト |
| 推進 | スクリュー |
名義貸しが、同盟になった
この名義購入は、単なる事務上の便宜ではありませんでした。薩摩が長州のために船と銃を買うという行為そのものが、両藩を実務で結びつけました。
慶応元年、乙丑丸は上海から小銃七千三百挺を運んでいます。長州の軍備を実際に変えたのはこの取引でした。そして翌慶応二年正月、薩長同盟が結ばれます。
同盟というと京都の一室で交わされた密約が思い浮かぶが、その前段には、船と銃が先に両藩をつないでいたという事実があります。政治的な合意より、物の流れのほうが早かったです。
ユニオン号事件
もっとも、話は円滑には進まありませんでした。船の引き渡しをめぐって近藤長次郎と長州藩が対立し、いわゆるユニオン号事件が起きます。慶応元年十二月二十五日、長州に有利な新しい条約を結び、船を長崎へ回航することで決着しました。
薩摩の名義、長州の資金、土佐脱藩浪士の操船——三つの勢力が絡んだ船です。誰のものか分からなくなるのは、むしろ当然でした。
小倉口で、龍馬が指揮を執る
慶応二年四月、乙丑丸は長州から兵糧五百俵を積んで出航しました。そして六月十七日、高杉晋作の要請を受けて小倉口の渡海作戦に参加します。このとき指揮官として門司を襲撃したのが坂本龍馬でした。
龍馬が実際に軍艦を指揮して戦闘に加わった、数少ない場面です。長府藩の海岸に据えられた砲台と、この船の砲が、同じ関門海峡を撃っていました。
明治四年、乙丑丸は山口の商人に貸与されたのち、下関の商人へ払い下げられました。二つの藩名を持った船の最後は、一人の商人の持ち船です。
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