浜田藩の歩み
第4代藩主「松平康爵」は天保七年(1836年)、三月十二日に陸奥棚倉藩へ懲罰的な転封となりました。その後、上野国館林藩より第6代将軍「徳川家宣」の弟「清武」を祖とする越智松平家の「松平斉厚」が六万一千石で入封しました。第15代将軍「慶喜」の実弟であり水戸徳川家から養子に入った第4代藩主「松平武聰」は、慶応二年(1866年)の第二次長州征伐のとき石州浜田口を担当し長州藩の「大村益次郎」が指揮する軍にことごとく撃破されました。

浜田の街に長州軍が入ると武聰は戦わずして浜田城を放棄して松江城に逃れました。その後、武聰は美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えました。この際に、浜田の街は焼き払われ、浜田城も同時に灰燼に帰しました。その後、浜田は長州藩が占領し続けました。
明治二年(1869年)、版籍奉還により隣接して同じく長州藩の占領下にあった旧幕府領・石見銀山領とともに大森県となり、さらに明治三年(1870年)、県庁が浜田へ移されて浜田県となった後、島根県に編入されました。
石見の要・浜田藩
浜田藩は、石見国(現在の島根県浜田市)に置かれた六万石余りの藩で、浜田城を居城とし、藩主は徳川親藩につらなる松平家でした。日本海に面した山陰の要地を治め、長州藩とは目と鼻の先という、幕末には緊張の最前線に立たされる位置にありました。
長州軍に敗れ、城を捨てて
第二次長州征討(1866年)において、浜田藩は石州口で、長州藩の軍略家・大村益次郎の率いる軍と戦いました。しかし近代的な戦術を駆使する長州軍の前に惨敗し、藩主・松平武聰は浜田城にみずから火を放って放棄し、飛び地であった美作へと敗走します。幕府方の劣勢と長州の勢いを象徴する出来事であり、のちにこの地に代わって美作の鶴田藩が生まれることになりました。
末期養子としての相続と鶴田での家老切腹
武聰は弘化四年(1847年)、先代藩主武成の末期養子として越智松平家を継ぎました。鶴田への移転後、戊辰戦争に際しては朝敵と見なされることを避けるため、家老3名が切腹するという痛ましい犠牲を払っています。武聰は長男の武修に家督を譲り、明治十五年(1882年)に41歳で没しました。
城を自ら焼いた日は、慶応二年七月十八日の午後四時でした
石州口の一か月
第二次長州征討の石州口(石見国方面)の経過を、島根県の講座資料と浜田市教育委員会の資料から日付で並べます。
慶応二年(1866年)六月十六日、扇原関門で激突し、浜田藩の岸静江が戦死。六月十七日、益田で市街戦となり、長州軍が益田に入ります。益田の戦いの戦死者は浜田藩十一人、福山藩十四人、幕臣三人でした。そして七月十三日・十五日・十六日に内田村周辺、大麻山、周布村で戦闘が続き、七月十七日に長州軍が要求を出して同日に藩主らが退去。
七月十八日午後四時、浜田城は自焼されました。浜田市の公式ページも「慶応二年(1866)七月十八日、松平武聡の自焼退城」と記しています。翌十九日、長州軍が城下へ進出します。小倉城の自焼(八月一日)より二週間早い—四境戦争では、幕府側の城が二つ、自分の手で焼かれています。→ 小倉藩・長州藩・備後福山藩
このとき藩主の松平武聰(たけあきら)は、浜田市教育委員会の資料によれば「四月以来病に臥し」ていました。徳川斉昭の子で、将軍慶喜の弟にあたります。将軍の弟が病床で城を捨てたというのが、石州口の結末でした。
美作の飛地に逃れて、もう一つの藩を作りました
浜田を追われた藩は、松江を経て美作国の飛地へ移ります。浜田市教育委員会の資料によれば、慶応三年三月二十日に移動を開始し、二十二日に武聰が松江を出発、二十六日に美作の里公文中村(大庄屋 福山元太郎邸)に入りました。
ここで立てたのが鶴田(たづた)藩です。日本大百科全書によれば1867年に二万石で立藩し、1869年に六万一千石余へ戻り、1871年七月の廃藩で鶴田県、のちに岡山県へ編入されました(石高は二万八千石とする資料もあります)。城を失った藩が、飛地の大庄屋の家から藩を再開したわけです。
いっぽう浜田は、明治二年まで長州に占領され続けました。明治二年八月に大森県、翌明治三年三月に浜田県と改称、明治四年六月に津和野藩を編入し、明治九年四月に島根県へ編入されています(島根県公式)。自分の藩の城下に、戦争が終わっても三年間、相手の兵がいた—他の藩にはあまりない戦後です。武聰は明治十五年十一月七日に没しており、華族令より前なので叙爵はしていません。→ 鶴田藩・松江藩・津和野藩
竹島事件で家老が自害し、藩主家が替わりました
越智松平家が浜田に来た経緯にも、事件があります。
前の松井松平家の時代、浜田の廻船問屋会津屋八右衛門が竹島への渡海をめぐる密貿易の罪で、天保七年十二月二十三日に死罪となりました。島根県竹島問題研究所の講座資料によれば、家老の岡田頼母と松井図書は「江戸取調べ前に自害」、前藩主の松平康任は「永蟄居」、当主の康爵は「御目通差扣」となっています。
ただし同じ資料は、天保七年三月十二日の棚倉への転封の直接の原因は竹島一件ではなく、仙石騒動とされると書いています。転封と竹島事件は同じ年だが、原因は別—ここはよく混同されるところです。その後に館林から入ったのが、越智松平家の松平斉厚(六万一千石)でした。→ 棚倉藩
城跡には石垣が残っています
浜田城跡は島根県指定史跡で、指定は昭和三十七年(1962年)六月十二日(浜田市公式)。元和五年(1619年)着工、元和九年(1623年)完成で、浜田市は「17藩主18代、248年」続いたと記しています。石垣が残り、城山には濱田護國神社があります。続日本100名城には2017年に選定されました。
藩校については、浜田市教育委員会の資料に「斉厚は藩校道学館・官渝舎を設立」とありますが、創設年はわかっていません。二百四十八年続いた城の最後は、藩が自分で火を放った一日でした。
浜田藩をもっと詳しく
藩の成り立ち・古田家から松井松平家まで
石見国はもともと毛利家の領地でしたが、関ヶ原の戦いで毛利家が周防・長門の二国に減らされると、徳川家の直轄地となり、津和野藩に坂崎直盛が入るとその管理下に置かれました。元和五年(1619年)二月十三日、伊勢松坂から古田重治が石見の一部五万四千石を与えられて入り、浜田藩が生まれます。古田家が新たに城を築いた鴨山は、「鴨」の名が城地にふさわしくないとして亀山と改められ、浜田城は亀山城とも呼ばれました。
二代の古田重恒は慶安元年(1648年)に重臣を斬り殺すお家騒動(古田騒動)を起こし、跡継ぎもなかったため改易となりました。慶安二年(1649年)には播磨山崎から松平(松井)康映が五万石で入り、五代続きます。この間、享保元年(1716年)には「春定用捨訴願騒動」と呼ばれる農民の訴えが起こり、享保九年(1724年)には奥女中から起きた内紛「鏡山事件」がありました。
宝暦九年(1759年)に松井松平家が下総古河へ移ると、古河から本多忠勝の嫡流にあたる本多忠敞が五万石で入りました。一族の本多忠央が前の年に郡上騒動に連座して改易され、本家もこれに巻き込まれて移された形とされます。明和六年(1769年)には本多家が三河岡崎へ移り、松井松平家の康福が五万五千四百石で再び浜田に入りました。康福は老中としての働きで一万石を加えられています。
越智松平家の先祖・松平清武
幕末の藩主家・越智松平家の祖、松平清武は寛文三年(1663年)、甲府藩主徳川綱重の次男として生まれました。六代将軍家宣の同母弟でしたが、母の身分が低かったため家臣の越智喜清に養われ、その家を継ぎました。宝永四年(1707年)に上野館林藩二万四千石の大名となって松平の姓を許され、兄家宣の遺言による加増などで五万四千石となりました。享保九年(1724年)に亡くなると、三代将軍家光の男系はこれで絶えたとされます。
越智松平家はその後、陸奥棚倉への移封と館林への再移封を経て、明和六年(1769年)に七千石を加えられて六万一千石となり、天保七年(1836年)、松平斉厚の代に石高を保ったまま浜田へ移りました。
領地のようす
幕末の浜田藩の領地は、石見国の邑智郡のうち四十六村、那賀郡のうち七十六村、美濃郡のうち四十九村でした。これに美作国の飛び地が加わります。のちに藩が逃れた鶴田は、この飛び地の一つでした。
鶴田藩としての戊辰戦争と藩の終わり
Wikipedia「越智松平家」によると、鶴田藩は飛び地約八千石に、将軍慶喜から与えられた二万石を加えて二万七千八百石で立てられました。慶応四年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属して敗れ、本来なら改易となるところを、家老の尾関当遵が京都で新政府に切腹して詫びたことで、藩の存続が許されたとされます。翌明治二年(1869年)には蔵米二万四千石余りを与えられて元の六万一千石余りに戻り、武聰は同年六月二十四日の版籍奉還で鶴田藩知事となって、明治四年(1871年)の廃藩置県まで務めました。明治維新の後、鶴田藩の領地には美作国の勝北郡・勝南郡・久米北条郡・久米南条郡・英田郡の村々が加わっています。
藩主家の子孫・明治以降
明治十七年(1884年)七月七日の華族令施行を受けて、翌八日、武聰の跡を継いだ松平武修が旧小藩知事として子爵となりました(Wikipedia「越智松平家」)。昭和前期の越智松平子爵家の邸宅は、東京市中野区城山町にあったとされます。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、幕末の六万一千石のこの藩はおよそ千四百三十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「浜田藩」「松平清武」「越智松平家」
場所・アクセス・地図
▶ あわせて読みたい:四境戦争とは?第二次長州征伐で長州藩が4方向の幕府軍を破った戦い



