丙寅丸【長州藩 バーク船 幕末軍艦】

丙寅丸
藩名 長州藩
藩主 毛利慶親
船種 バーク船
機関 蒸気内車
備砲 6門
材質 鉄製
馬力 30馬力
写真 絵図
丙寅丸のイメージイラスト
丙寅丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(バーク船・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

英国製、原名オテントサマ号・長20間半・幅2間半・94トン。1866年5月に「高杉晋作」が独断で英国商人グラバーから3万9千価で購人しました。第二次長州征伐に備えての独断専行かと思われます。以後、高杉の乗艦として四境戦争(長州征伐)で活躍しました。

小倉方面の開戦時には、他の3隻を率いて先制攻撃を行い門司、田野浦を占領するなど、四境戦争の事実上の勝利に大きく貢献しています。戊辰戦争の後はオテント丸の名で、定期貨客船として博多~大阪間の航路に就役しました。

藩の許しを得ずに買った船です

慶応二年五月、高杉晋作は伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途中の長崎でこの船を買いました。藩の了解を取らないままの独断です。原名はオテントサマ号、長二十間半・幅二間半で九十四トン、三十馬力のスクリュー船。値は三万九千両、記録によっては三万九千二百五両という細かい数字まで残っています。第二次長州征討が近いと見ての判断でした。

六月十三日の未明、幕府の船を奇襲しました

慶応二年六月六日に高杉晋作が海軍総督となり、十三日の未明、久賀の沖で幕府の旭日丸と八雲丸を奇襲します。この戦果については評価が分かれていて、周防大島町は丙寅丸の奇襲で戦況が好転したとしていますが、目立った戦果はなかったとする見方もあります。十七日には癸亥丸や丙辰丸とともに田ノ浦を砲撃し、七月三日には庚申丸も加えて大里の沖から撃ちました。小倉方面では他の三隻を率いて先制攻撃を行い、門司と田野浦を取っています。相手は小倉藩でした。

値段で見ると、安い船です

三万九千両という値は、幕末の船としては安いほうに入ります。同じ長州藩が第二丙寅を下取りに出して造らせた丁卯二隻は、二隻で二十五万ドルでした。丁卯のページに書いたとおりです。幕府が文久二年に買った順動丸は十五万ドル。高杉が独断で買ってしまえたのも、この値段だったからかもしれません。

坂本龍馬が乗っていたのは、別の船です

丙寅丸を龍馬の乗った船とする説明を見かけますが、龍馬が乗っていたのは乙丑丸です。もとのユニオン号で、桜島丸とも呼ばれた船でした。

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丙寅丸を船の型と持ち主から読む

丙寅丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「バーク船」。後ろのマストだけに縦帆を張る3本マストの「バーク型」の帆装の船です(帆の張り方・軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。

当サイトで紹介している長州藩の船は、この丙寅丸を含めて11隻あり、そのうち帆船は4隻です。同じ長州藩の船には、丁卯丸(スクーナー級)、第二丙寅(輸送船)、第二丁卯(バーク船)、第一丁卯(スクーナー級)、丁卯(砲艦)、丙辰丸(砲艦)、壬戌丸(輸送船)、庚申丸(砲艦)などがあります。

持ち主の長州藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。丙寅丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の長州藩—「そうせい侯」毛利敬親

藩主・毛利敬親

丙寅丸を持った長州藩の藩主・毛利敬親は、家臣たちの意見に「そうせい(そうしなさい)」と答えることが多かったことから、「そうせい侯」と呼ばれました。優柔不断と見られがちですが、身分にこだわらずに有能な家臣を用い、その判断に任せたことで、高杉晋作や桂小五郎らが思い切って動くことができたともいわれます。

藩主と高杉

慶応二年(1866)、高杉晋作は藩の許しを待たずに長崎で蒸気船を買い入れ、これが丙寅丸となりました。家臣の独断を許し、その働きを生かした敬親のもとで、長州藩は四境戦争を勝ち抜いたのです。

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