岩国藩(長州藩支藩)/吉川家3万石:吉川経幹 四境戦争では芸州口で幕府軍を撃退した岩国藩

岩国藩(長州藩支藩)

目次

藩の歩み

慶長五年(1600年)、「関ヶ原の戦い」で「吉川広家」は徳川家康率いる東軍に内通し、毛利勢の動きを封じ、関ヶ原の本戦に参加させませんでした。吉川広家は関ヶ原の戦いの前、黒田長政を通じて家康から毛利家の領地を守るという約束を取りつけていました。ところが戦いのあと家康は、毛利輝元が大坂城に入って西軍の総大将になったことを理由に毛利家を取りつぶし、かわりに吉川家を取り立てようとします。

岩国藩(長州藩支藩)/場所・アクセス・地図 吉川家3万石:吉川経幹 四境戦争では芸州口で幕府軍を撃退した岩国藩【幕末維新写真館】

広家は事態収拾のために奔走し、結果として毛利氏の改易は免れ、本来広家に与えられるはずだった長門国・周防国2ヶ国を毛利本家が与えられました。広家はこれを断って毛利家の存続を願い、毛利家は周防・長門の二国に減らされて残りました。広家自身も、豊臣時代には出雲の富田で十四万石を持っていましたが、毛利本家とともに領地を減らされ、岩国で三万石を与えられます。

幕末にあっては、藩自体は佐幕的態度を示していました。元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)にかけての長州征討では、12代当主の吉川経幹が長州藩と幕府のあいだに立って話をまとめ、幕府軍の出兵を先に延ばさせることに成功しました。しかし、結果的に長州藩は幕府軍の撃退しこの戦いには勝利しました。

この「四境戦争(第二次長州征伐)」において岩国藩は芸州口で幕府軍と交戦しこれを撃破することに貢献しました。その経幹は慶応三年(1867年)三月二十日に亡くなりますが、藩主・毛利敬親の命令で、その死は伏せられます。慶応四年(1868年)三月十三日、「徳川慶喜」の大政奉還の後、新政府が樹立され岩国藩は独立した藩として正式に認められました。

生きているものとして扱われた経幹は、城主格の正式な大名と認められ、岩国藩の初代藩主となりました。江戸時代を通じて「大名ではない」とされてきた吉川家が、亡くなった当主の名で大名になったのです。経幹は明治元年十二月二十八日(1869年2月9日)、長男の経健に家督を譲って隠居したという形がとられました。「戊辰戦争」では主に「東北戦争」で功績を挙げ、戦後は永世五千石を与えられました。明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で岩国県となり、同じ年の十一月十五日に山口県へ入りました。

吉川家はもともと駿河国の出で、南北朝期に安芸国へ移り国人領主として勢力を築いた家柄です。戦国時代、毛利元就の次男・元春が吉川家に養子入りしたことで、以後「毛利両川体制」の一翼を担う存在となりました。広家はその元春の三男にあたります。関ヶ原後、岩国に押し込められた吉川家は、長らく萩の毛利宗家から正式な「藩」として認められず、家臣でありながら陪臣という不安定な立場に置かれ続けました。経幹の代でようやく独立の藩として認知されたのは、こうした二百数十年越しの悲願がかなった結果でもあります。家督を継いだ経健は、明治十七年(1884年)の華族令で子爵に列せられ、岩国吉川家はその後も華族として存続しました。旧岩国藩士の子孫の多くは、今も岩国の地に根を張っています。

『武鑑』に名を載せてもらえない六万石でした

岩国の扱いがどれほど変わっていたかは、制度の細かいところに出ます。萩の毛利本家は岩国を支藩として幕府に届け出ず、吉川家を家来、岩国の地を岩国領と呼びました。陪臣であるから諸侯ではない、というのが萩側の立場です。そのため吉川家は江戸時代を通じて『武鑑』に名を載せてもらえませんでした。参勤交代についても、通常の義務は負わず、将軍家と自家の代替わりのときには必ず参勤し、特別のときには随時参勤した、というのが国史大辞典の系統の記述です。江戸城で詰めたのは柳間で、外様の中小の大名と同じ部屋でした。長州藩の支藩である長府藩、徳山藩、清末藩の三つにも、岩国は入っていません。

安政三年の和解と、文久三年の訪問

宗家との関係が変わりはじめるのは幕末です。安政三年九月に毛利敬親が吉川経幹を萩へ招いて両家が和解し、文久三年二月には敬親みずから岩国を訪れて、岩国も他の三支藩と同じに扱うと伝えました。経幹が第一次長州征討で周旋役を果たせたのは、この和解のあとだったからでもあります。元治元年九月三十日に福岡藩の喜多岡勇平と薩摩藩の高崎五六が岩国へ入り、十一月四日には西郷隆盛が経幹と会っています。十一月十二日に福原元僴が腹を切ったのは、岩国の龍護寺、いまの清泰院でした。

小瀬川をはさんだ芸州口

四境戦争の芸州口は、小瀬川をはさんで岩国領と広島藩領が向き合う場所でした。幕府側は広島城に三万を集め、彦根藩の五百名が大竹村の大瀧神社へ、高田藩の千名が苦の坂の方面へ進みます。長州側の主力は岩国の兵で、和木村の川岸の竹やぶに陣を敷き、最初の総指揮を経幹が執りました。彦根藩の使者が小瀬川の中ほどまで進んだところで対岸から一斉射撃を受けて戦いが始まり、長州側は木野村の山を越えて大竹村へ回り込み、彦根の軍を背後から突きます。彦根軍は小島新開へ敗走し、高田藩も苦の坂で退けられました。開戦の日は六月十三日とする資料と六月十四日の未明とする資料があります。そのあとも玖波や大野で激戦が続き、九月二日に宮島で休戦の取り決めがなされました。

喪が公にされたのは、明治二年三月二十日です

経幹の死が伏せられていた期間を、日付で並べておきます。亡くなったのは慶応三年三月二十日、満三十七歳でした。諸侯に列したのが慶応四年三月十三日ですから、死の約一年後に、生きているものとして大名になったことになります。従五位下駿河守に叙されたのも死後です。喪が公にされたのは明治二年三月二十日、亡くなったちょうど二年後の同じ日でした。伏せた理由を明記した資料は見あたりません。跡を継いだ吉川経健は安政二年の生まれで、明治元年十二月二十八日に正式に家督を継いだときは十四歳でした。

幕末に生まれた藩という系列

六万石を領しながら大名と認められない、という立場は岩国だけのものではありません。尾張藩の付家老だった成瀬家は慶応四年一月二十四日に独立して犬山藩となり、旗本のまま二百六十年以上を過ごした本堂家が志筑藩になったのは同じ年の七月十四日です。いずれも、幕府が倒れたその年に藩になりました。

錦帯橋から城山までを歩いた記録は【現地取材】岩国城と錦帯橋を歩く—六万石を領しながら、幕末まで大名ではなかった吉川家にまとめています。

岩国藩をもっと詳しく

先祖・吉川家の始まり

吉川家は藤原南家の流れをくむと伝えられ、平安時代に駿河国入江庄(今の静岡市清水区)に移って入江氏を名乗り、のちに入江の吉川に住んだことから吉川を称したとされます。鎌倉時代に安芸国大朝本荘の地頭職を与えられ、鎌倉時代の終わりごろにその地に根を下ろしました。広家の父・吉川元春は毛利元就の次男で、吉川家に養子に入り、元春の長男元長を経て、元長の死後に三男の広家が跡を継ぎました。

岩国領の成り立ちと石高

慶長五年(1600年)、広家は毛利輝元から周防国玖珂郡の南半に三万石を与えられ、同年に岩国へ入りました。岩国の横山に岩国城を築きましたが、元和元年(1615年)の一国一城令で城を壊し、山のふもとの館に移っています(日本大百科全書)。石高ははじめ表向き三万石でしたが、寛永十一年(1634年)、毛利家からの独立をにらんで内高の六万石を公称し、幕府にも認められました。世界大百科事典は、廃藩置県のころの石高を八万石余りとしています。

二代の広正は、毛利本家と不仲になった長府藩主の毛利秀元とともに本家からの独立を図りましたが、失敗に終わりました。

領地のようす

幕末の領地は周防国の玖珂郡のうち八十四村と、大島郡のうち二村(鳴門村・神代村)でした。瀬戸内海に面した海辺は米どころ、山あいは紙の産地でした(日本大百科全書)。二代広正は製紙業を興し、寛永十七年(1640年)には紙を専売にしています。世界大百科事典も、岩国領では主に紙の専売が行われたとしています。

三代広嘉のときの延宝元年(1673年)に錦帯橋が完成し、四代広紀の時代には藩営の干拓が広げられて、岩国領は最も栄えた時期を迎えました。元禄期(1688〜1704年)には岩国川の河口で干拓が行われています。ところがこの繁栄が、財政難に苦しむ本家の長州藩の妬みを買い、本家との対立につながったとされます。享保二年(1717年)には海辺の農民が年貢の減免を求め、大きな百姓一揆に発展しました(日本大百科全書)。

七代経倫の時代には、正式な大名に列するための運動や凶作で財政が悪化し、紙の生産高も半分に落ち込みました。寛政年間(1789〜1801年)から財政の立て直しが始まり、十代経礼が干拓などで改革を成し遂げています。藩校の養老館は弘化四年(1847年)に開かれました(日本大百科全書)。

幕末の岩国と本家の目

幕末の岩国では、「三士」と呼ばれる東沢瀉・栗栖天山・南部五竹が尊王の活動をしましたが、領としては幕府寄りの態度をとっていました。経幹が長州征討で幕府との間を取り持ったことについては、高杉晋作のように本家への裏切りと見る長州藩士もおり、功のあった清末藩に岩国領を加増すればよいとまで言われたと伝わります。

藩主家の子孫・明治以降

明治二年(1869年)六月、最後の藩主経健は、父経幹の戊辰戦争での功によって賞典禄五千石を与えられました。爵位については、Wikipedia「吉川氏」が、明治十七年(1884年)の華族令ではもと毛利家の家臣だった家とみなされて男爵とされ、明治二十四年(1891年)に父の維新の功で子爵に上がったとしています(同じWikipediaでも「岩国藩」の項は明治十七年に子爵としていて、記述が分かれます)。同じ年には経幹の三男・吉川重吉も分家して男爵となりました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、公称六万石のこの藩はおよそ千四百十人が目安です(表向きの三万石なら、およそ七百十人)。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「岩国藩」「吉川氏」、コトバンク「岩国藩」(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)

場所・アクセス・地図

参考資料:Wikipedia日本語版「岩国藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

岩国の現地を歩いた記録

岩国藩(長州藩支藩)の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

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