【藩名】
忍藩
【説明】
忍藩3代藩主「松平忠国」は所領10万石のうち5万石を上総・安房に移されたため、異国船の警備を任じられました。嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求が迫ると、幕府は短期間の工期で品川砲台(現在のお台場)の竣工を行いました。

品川砲台のうち第三台場(現在のお台場砲台)を忍藩に担当させています。これが原因でさらに藩の財政は逼迫し、安政2年(1855年)の「安政の大地震」と安政6年(1859年)の大洪水で領内も大被害を受けました。
※忍藩が担当した品川第三台場(現在のお台場砲台跡地)
慶応3年(1867年)の大政奉還後、4代藩主「松平忠誠」は旧幕府軍と新政府軍のどちらに与するかを迷い、藩論も佐幕派・尊皇派に分裂しました。翌年、「戊辰戦争」が勃発すると前藩主「松平忠国」の意思にて藩論は新政府側に与することで決し、忍藩兵は東北各地に出陣しました。
5代藩主「松平忠敬」は明治2年(1869年)の「版籍奉還」で忍藩藩事となり、明治4年(1871年)7月の「廃藩置県」で忍藩は廃藩となります。その後、忍県が設置され、明治4年(1871年)11月には埼玉県に併呑されました。
十万石を海防で削られた藩——房総へ移された五万石
忍藩の松平家は、徳川家康の長女・亀姫の血を引く奥平松平家です。文政六年(一八二三)の三方領知替で伊勢桑名から忍へ移り、幕末までこの地を治めました。十万石、伺候席は溜間詰という高い家格です。
その忍藩の幕末を決定づけたのが房総の海防でした。天保十三年(一八四二)、藩主松平忠国は江戸湾沿岸の防備を命じられます。しかもこのとき、十万石のうち五万石ぶんの所領を上総と安房へ移されました。安房郡や朝夷郡など百か村あまり、二万七千石ほどが忍藩領となります。武蔵の藩が、海の向こうの房総にもうひとつの領地を持たされたわけです。
担当した場所は時期によって動きます。当初は上総の富津から竹ヶ岡にかけての陣屋と台場を受け持ちましたが、弘化四年(一八四七)に会津藩へ引き継ぎ、以後は安房の洲崎や大房岬の台場などを守りました。ペリーが来航した嘉永六年の時点で、忍藩はすでに富津にはいなかったことになります。品川台場のいずれを担当したかについては第一台場とも第三台場とも伝えられ、諸説あります。
海防の負担は財政を直撃しました。藩の借金は七十六万両に達したと伝えられます。十万石の大藩が、海を守るためだけに破綻寸前まで追い込まれたのです。
戊辰戦争——城を攻められかけた三月
慶応四年(一八六八)、忍藩は危うい立場に置かれます。鳥羽伏見のとき藩主松平忠誠は上洛中で、どちらの軍にも加わらず紀州へ逃れ、病を理由に帰国しました。
三月四日、旧幕府の衝鋒隊八百五十余人が忍城に預けられます。藩論は佐幕と勤王に割れました。決着をつけたのは用人の岸嘉右衛門で、天下の形勢は忍藩一藩の力ではどうにもならないと説いて恭順にまとめます。衝鋒隊には金六百両と草鞋千足を持たせて羽生へ送り出しました。
それでも三月十日、官軍による忍城総攻撃が計画されます。これは藩士の切腹によって中止となり、翌日、藩は誓書と糧食三千俵を差し出して恭順しました。決定を主導した家老のひとりは鳥居強右衛門商次といいます。長篠の戦いで磔にされたあの鳥居強右衛門の名跡が、奥平家の家老として幕末まで続いていたのです。
新政府側に決すると、忍藩は東へ北へ出兵します。飯能戦争では広島藩とともに越生方面へ進み、彰義隊の一隊を秩父で捕らえました。東北では宇都宮・白河・二本松・会津の攻略に加わり、白河口には二百人と大砲四門を送っています。賞典金は一万両でした。
忍城と足袋
忍城の御三階櫓は元禄十五年(一七〇二)に建てられ、明治六年に取り壊されました。いま行田市郷土博物館とともに建つ御三階櫓は昭和六十三年の再建で、しかも本来の位置とは別の場所に建っています。もとは現在の水城公園のあたりでした。城跡には土塁の一部が残ります。
行田の名産である足袋については、藩主が藩士の妻女に足袋づくりを奨励したという伝承があります。ただし行田市の観光協会自身がこれを伝説と明記しており、確かな記録は享保年間の絵図に足袋屋が三軒見えるところまでです。
藩校は進脩館。桑名で開かれたものを忍で再建しました。最後の藩主松平忠敬は米沢藩主上杉斉憲の六男で、版籍奉還で知藩事、廃藩置県後は初代の忍県知事となり、のちに子爵を授かっています。
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