喰違の変とは—右大臣・岩倉具視はなぜ赤坂で襲われたのか。堀に落ちて助かった夜と、征韓論に敗れた高知県士族9人

喰違見附跡

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明治7年(1874)1月14日の夜、東京・赤坂の喰違(くいちがい)見附の近くで、右大臣・岩倉具視の馬車が刀を持った男たちに襲われました。岩倉は斬られながらも、暗い堀へ転がり落ち、襲った者たちが姿を見失ったことで、かろうじて命を取りとめます。

襲ったのは、高知県の士族9人。前の年に政府を去った西郷隆盛や板垣退助のあとを追って、官職を辞めた士族たちでした。この「喰違の変」は、明治政府の最高首脳が狙われた暗殺未遂事件です。

なぜ岩倉は狙われたのか。襲ったのは誰で、どうなったのか。喰違の変の真相を、誰が・いつ・どこで・なぜ・その後どうなったか、の順に見ていきます。

目次

先に答え—喰違の変とは

いつ 明治7年(1874)1月14日の夜
どこで 東京・赤坂の喰違見附(いまの東京都千代田区紀尾井町と港区元赤坂の境あたり)。赤坂の仮皇居から自宅へ帰る途中でした
誰が 高知県士族の武市熊吉(たけち くまきち)ら9人。下野した西郷隆盛や板垣退助らの主張に共鳴して官職を辞めた元官僚・元軍人でした
誰を 右大臣・岩倉具視(数え50歳)
なぜ 明治6年の征韓論争で、西郷隆盛の朝鮮派遣を延期させた中心人物と見られたため
その後 岩倉は傷を負い、ひどく衰弱しましたが、命は助かりました。犯人9人は事件の3日後から次々に捕まり、7月に全員斬罪となります。4年後、すぐ近くの紀尾井坂で大久保利通が暗殺されました

岩倉具視はどんな人だったのか

岩倉具視は文政8年(1825)、京都の公家の家に生まれました。公家の中では身分の低い家の出でしたが、才覚を認められて朝廷の政治に関わるようになります。幕末には、孝明天皇の妹・和宮を将軍・徳川家茂に嫁がせる「和宮降嫁」を進め、尊王攘夷派から「四奸」のひとりとして憎まれました。文久2年(1862)には朝廷を追われ、京都北郊の岩倉村で5年近く身をひそめて暮らしています。

岩倉具視の肖像
岩倉具視(明治期の写真。Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

やがて薩摩の大久保利通らと手を結び、慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令を実現させる中心人物となりました。明治政府では右大臣となり、明治4年(1871)からは特命全権大使として、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らを率いて欧米を回る「岩倉使節団」を指揮しています。

時代背景—征韓論争と「明治六年の政変」

岩倉使節団の首脳の集合写真
明治5年(1872)に撮影された岩倉使節団の首脳。中央が岩倉具視で、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らが並びます(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

岩倉使節団が欧米を回っているあいだ、日本に残った西郷隆盛・板垣退助・江藤新平らの「留守政府」は、朝鮮との国交問題をめぐって、明治6年(1873)8月、西郷を使節として朝鮮に送る方針を内定しました。最終的な判断は、岩倉の帰国を待って行うことになります。なお、西郷が主張したのは、すぐに軍隊を送ることではなく、まず自分が使節として朝鮮に渡ることでした。「征韓論」といっても、その中身はひとつではなかったのです。

9月に岩倉が帰国すると、先に帰っていた大久保利通らは、まず国内を固めるべきだとして派遣に強く反対します。10月の閣議では派遣を進める方向に傾き、政府の中は真っ二つに割れました。議論が紛糾するなかで太政大臣の三条実美が倒れると、10月20日、岩倉が太政大臣の代理となります。岩倉は閣議の経緯とあわせて、派遣を延期すべきだという自分の意見を天皇に上奏し、10月24日、天皇がこれを認めて派遣は延期と決まりました。

敗れた西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らの参議は、いっせいに政府を去ります。これが「明治六年の政変」です。西郷や板垣を慕う多くの軍人や官僚も、あとを追って職を辞めました。

なぜ岩倉具視は狙われたのか

職を辞めた士族たちの怒りは、西郷の派遣を止めた岩倉と、大久保利通に向けられました。とくに岩倉は、太政大臣の代理として最後に派遣を延期させた人物です。西郷や板垣に心を寄せる者たちから見れば、岩倉こそが「国を誤らせた張本人」でした。

武市熊吉ら高知県の士族たちは、板垣退助と同じ土佐の出身です。のちの判決文によれば、彼らの動機は、征韓論が実現しなかったことへの不満と、岩倉を殺して政府の方針を変えさせることにありました。ただし、西郷や板垣が暗殺を指示したという証拠は見つかっていません。

事件当日の模様—喰違見附の闇

当時の皇居は、明治6年5月5日の火事で江戸城の西の丸御殿が焼けたため、旧紀州徳川家の赤坂邸が仮の皇居になっていました。いまの迎賓館赤坂離宮がある一帯ですが、いまの迎賓館の建物は明治42年(1909)にできたもので、当時の建物とは別です。明治7年1月14日の夜、公務を終えた岩倉は、仮皇居を出て、馬車で自宅へ向かいます。

喰違見附跡
いまの喰違見附跡(国の史跡「江戸城外堀跡」の一部)。土橋と、わざと食い違わせた道筋の名残が残ります(写真:Asanagi/Wikimedia Commons, CC0)

馬車が赤坂の喰違見附にさしかかったとき、待ち伏せていた男たちがいっせいに襲いかかりました。喰違見附は、江戸城の外堀にかかる土橋の入口で、道がわざと食い違うように曲げてつくられていたことから、この名がつきました。夜は暗く、人通りの少ない場所でした。

岩倉は斬られながらも馬車から逃れ、道わきの土手から堀へ転がり落ちたとされます。暗闇の中で、襲った者たちは岩倉の姿を見失いました。その後、岩倉は通りかかった宮内省の役人に助けられ、宮内省に運ばれて侍医の手当てを受けます。

傷については、眉の下と腰とする解説もありますが、侍医・岩佐純の診察記録として、右の腰に長さ7〜8センチほどの切り傷、右の肩のあたりに刺し傷があったと伝えられています。冬の夜の堀に落ちたこともあって、手当てを受けたときの岩倉は体がひどく冷え、脈も弱っていたといいます。けっして「かすり傷」ではなかったのです。岩倉が公務に戻ったのは、1か月あまりのちの2月23日でした。

犯人は誰か—高知県士族・武市熊吉ら9人

知らせを受けた内務卿・大久保利通は、ただちに参内しました。政府の最高首脳が襲われたことを重く見た大久保は、警察の整備を進めていた川路利良らに、犯人の捜索を急がせます。ちょうど事件の翌日、1月15日には東京警視庁が発足し、川路がその長となりました。

事件の3日後、1月17日から武市熊吉らが次々に捕らえられ、やがて襲撃に加わった9人全員が捕まりました。現場に残されていた武市熊吉の下駄が捜査の手がかりになった、とも伝えられます。

首謀者の武市熊吉は天保11年(1840)の生まれで、名は正幹(まさもと)。土佐藩士の出で、軍人としても働き、明治5年に外務省に入って、西郷隆盛らの命で清国(中国)の調査にあたったこともありました。明治六年の政変のあと、征韓派に同調して職を辞めています。

捕まったのは、この武市熊吉をはじめ、弟の武市喜久馬、山崎則雄・島崎直方・下村義明・岩田正彦・中山泰道・中西茂樹・沢田悦弥太の9人。いずれも高知県の士族でした。

9人は司法省の臨時裁判所で裁かれ、明治7年7月9日、全員が士族の身分を取り上げられたうえで斬罪を言い渡され、処刑されました。当時の法律には、政府の高官を殺して国の方針を変えさせようとする行為にぴったり当てはまる決まりがありませんでした。司法省は、首謀者とそれに従った者を区別する余地もあるとしながら、太政官の判断を仰いだうえで、全員を死刑にすると決めたといいます。近代の裁判制度がまだ整っていない時代の、政治色の強い判決でした。

事件のその後—佐賀の乱、そして紀尾井坂へ

明治六年の政変で政府を離れた人々の進む道は、ここで分かれていきます。武市熊吉らは、刀で政府の首脳を狙うという道を選びました。一方、同じ土佐出身の板垣退助らは、事件の数日後の1月17日、民撰議院設立建白書を政府に出し、議会を開くよう求める「自由民権運動」の道に進みます。

そして岩倉が傷を癒やしていた2月には、佐賀で江藤新平らが立ち上がる「佐賀の乱」が起こりました。明治政府は、士族たちの不満と政治の対立に、立て続けに向き合わなければならなくなったのです。

士族の不満はやがて、明治10年(1877)の西南戦争へと行きつきます。そして翌明治11年(1878)5月14日、喰違見附のすぐ先の紀尾井坂で、大久保利通が石川県士族の島田一郎らに襲われ、命を落としました。紀尾井坂の変です。岩倉が助かった場所から、わずか数百メートルの距離でした。

岩倉具視は、その後も政府の中心にあって憲法の準備などに力を尽くし、明治16年(1883)7月20日、病のため59歳で亡くなりました。

喰違の変ゆかりの地

  • 喰違見附跡(東京都千代田区紀尾井町・港区元赤坂):岩倉が襲われた場所。いまも土橋とクランク状の道筋に、見附の名残があります。
  • 迎賓館赤坂離宮(東京都港区元赤坂):当時の仮皇居(旧紀州徳川家の赤坂邸)があった一帯。
  • 紀尾井坂・清水谷公園(東京都千代田区紀尾井町):4年後に大久保利通が暗殺された場所。公園には「贈右大臣大久保公哀悼碑」があります。

幕末・明治の暗殺事件を読む

▶ 暗殺事件の特集(年表と一覧)

✎ 筆者のひとこと

幕末に「四奸」として命を狙われ、岩倉村に5年近く身をひそめた岩倉具視が、明治になってまた刀で狙われる—。立場が変わっても、時代の矢面に立ち続けた人だったのだと思います。

喰違見附とすぐ先の紀尾井坂は、歩いても数分の距離です。岩倉は助かり、4年後に大久保は助からなかった。その近さに、明治のはじめの政治の危うさを感じます。

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