賀川肇暗殺とは—千種家の家来はなぜ殺されたのか。首は一橋慶喜の宿所・東本願寺へ、腕は岩倉具視邸へ。姫路藩士・伊舟城源一郎と「四奸二嬪」

東本願寺の御影堂門

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文久3年(1863)1月28日の夜、京都で公家・千種家(ちぐさけ)の家来、賀川肇(かがわ はじめ)が自宅に押し入った男たちに殺されました。数日後、賀川の首は白木の三方(さんぼう)に載せられて、将軍後見職・一橋(徳川)慶喜の宿所だった東本願寺の門前に置かれます。切り取られた両腕は、主人の千種有文(ありふみ)と、岩倉具視(いわくら ともみ)の屋敷に投げ込まれました。

首にも腕にも、脅しの文書が添えられていたといいます。ひとりの公家の家来の死が、将軍の名代や朝廷の実力者を脅す「道具」に使われたのです。賀川肇暗殺の真相を、誰が・いつ・どこで・なぜ・その後どうなったか、の順に見ていきます。

目次

先に答え—賀川肇暗殺とは

いつ 文久3年(1863)1月28日の夜(西暦では1863年3月17日)。29日の夜(3月18日)とする史料もあります
どこで 京都の賀川肇の自宅
誰が 姫路藩士・伊舟城源一郎(いばらき げんいちろう)らとされます。現場にいた全員の名前や役割は確定していません
誰を 公家・千種有文の家来(雑掌)、賀川肇
なぜ 主人の千種有文と幕府側との間を取り持ち、和宮降嫁を進めた「四奸」の手先と見られたため
その後 首は一橋慶喜の宿所・東本願寺の門前へ、両腕は千種家と岩倉具視の屋敷へ届けられ、脅しに使われました。伊舟城源一郎は翌年、姫路藩の「甲子の獄」で切腹を命じられています

賀川肇はどんな人だったのか

賀川肇は、公家の千種有文に仕えた家来です。生まれた年はわかっていません。「一馬」という別名も伝わっています。千種家では「雑掌(ざっしょう)」をつとめていました。雑掌とは、公家の家で外とのやりとりや家の事務を受けもつ役目のことです。

賀川は、京都所司代をつとめた小浜藩主・酒井忠義(ただあき)の用人、三浦七兵衛と親しくしていました。所司代は、幕府が京都に置いた朝廷や公家の見張り役です。賀川はこのつながりを通じて、主人の千種有文と幕府側との間の連絡や交渉を取り持ったとされます。なお、酒井忠義は文久2年(1862)6月に所司代を罷免されており、事件のときにはもう現職ではありませんでした。

時代背景—和宮降嫁と「四奸二嬪」

孝明天皇の妹・和宮を将軍・徳川家茂に嫁がせる「和宮降嫁」の構想は、大老・井伊直弼が生きていたころから進められていました。安政7年(1860)の桜田門外の変で井伊が倒れると、幕府はこの縁組を、朝廷と手を結ぶ「公武合体」の柱として押し進めます。和宮は文久元年(1861)に江戸へ下り、翌文久2年2月に婚礼が行われました。

岩倉具視の肖像
岩倉具視(明治期の写真)。和宮降嫁を進めた「四奸」のひとりとされ、賀川の腕を屋敷に投げ込まれました(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

朝廷の中で和宮降嫁を進めたのが、岩倉具視・千種有文・久我建通・富小路敬直の4人の公家と、天皇のそばに仕えた今城重子・堀河紀子の2人の女官でした。尊王攘夷派は、この6人を「四奸二嬪(しかんにひん)」—4人の悪い公家と2人の女官—と呼んで激しく非難します。もちろん、これは非難する側がつけた呼び名です。

文久2年(1862)8月、尊王攘夷派による排斥の動きが激しくなると、岩倉・千種・富小路は蟄居(家に閉じこもって謹慎すること)を命じられ、久我も処分を受けました。今城重子・堀河紀子の2人の女官も、宮中から退けられています。賀川肇は、その「四奸」のひとり千種有文の家来として、幕府側との連絡を担っていた人物でした。

この年の7月には九条家の島田左近が斬られ、閏8月には同じ九条家の宇郷玄蕃も殺されて首をさらされました。和宮降嫁や安政の大獄に関わった公家の家来たちが、次々に「天誅」の標的になっていたのです。

なぜ賀川肇は狙われたのか

尊王攘夷派から見れば、賀川は「四奸」の手先でした。主人の千種有文は蟄居中でしたが、賀川を殺すことで、千種や岩倉ら和宮降嫁を進めた公家たちに、二度と表に出てくるなという警告を送ることができます。

当時、宮中を退いた2人の女官が朝廷に戻るのではないか、という噂も流れていました。賀川の腕に添えられた文書は、その復帰の動きをやめるよう千種と岩倉に迫るものだったとする説があります。

さらに賀川の死は、幕府への脅しにも使われました。文久3年の正月、将軍・家茂の上洛に先立って、将軍後見職の一橋慶喜が京都に入り、東本願寺を宿所にしていました。朝廷は幕府に「攘夷(外国を打ち払うこと)」の実行を迫っており、いつ攘夷を行うのか、その期日が大きな争点になっていたのです。

事件当日の模様—自宅への押し込み

文久3年1月28日の夜(一説に29日の夜)、数人の男たちが賀川の自宅に押し入り、賀川を斬り殺しました。襲撃のくわしい様子は、史料で確かめられる範囲がかぎられています。後世の読み物には、賀川がいったん2階へ逃げたものの、幼い子どもが問い詰められているのを見て自分から下りてきた、という話もありますが、確かな裏付けはありません。

確かなのは、賀川の首と両腕が切り取られ、持ち去られたことです。

東本願寺の御影堂門
東本願寺の御影堂門。賀川肇の首は、一橋慶喜の宿所だった東本願寺の門前に置かれました。いまの門は、元治元年(1864)の禁門の変の大火のあと、明治44年(1911)に再建されたものです(写真:Hahifuheho/Wikimedia Commons, CC0)

数日後の2月1日の未明、賀川の首は白木の三方に載せられ、一橋慶喜が宿所にしていた東本願寺の門前に置かれました。添えられた文書は、孝明天皇の攘夷の意思を軽んじる幕府を責め、攘夷を行う気があるなら早く期日を決めよ、と迫るものだったといわれます。土佐の佐佐木高行の回想には、慶喜への首は攘夷の「前祝い」だった、という話も残っています。

両腕は、右腕が千種有文の屋敷に、左腕が岩倉具視の屋敷に投げ込まれたと伝えられます。こちらは、朝廷の政治にふたたび関わろうとする動きをけん制するものだったと考えられます。ひとりの家来の体が切り分けられ、それぞれ別の相手への「脅し」として使われたのです。

わずか6日前の1月22日には、大坂で儒学者の池内大学が殺され、その両耳が京都の公家の屋敷に送りつけられたばかりでした。前の年から続いた京都の「天誅」は、体の一部を使って朝廷や幕府の有力者を直接おどす段階にまで進んでいたのです。

犯人は誰か—姫路藩士・伊舟城源一郎ら

犯人として名前が残っているのが、姫路藩士の伊舟城源一郎です。伊舟城は天保元年(1830)の生まれで、国学を好み、武芸にもすぐれていました。文久2年の夏、藩主の酒井忠績(ただしげ)に従って京都に上り、水戸藩の原市之進や長州藩士たちと交わって、藩の若い尊王攘夷派を率いて活動していました。

人名事典は、伊舟城源一郎らが賀川を殺したとしています。のちに姫路藩が尊王攘夷派を処罰したときには、市川豊次らも賀川殺害への関わりを疑われました。ただし、現場にいた全員の名前や、誰が首をはねたのかといった細かい点は確定していません。なお、土佐の岡田以蔵が加わったとする本もありますが、確かな根拠は見あたりません。

姫路藩の酒井家は、譜代大名として幕府を支える立場の家です。その藩士が、幕府と手を組んだ公家の家来を斬り、首を将軍後見職に送りつけた—。それほどまでに、尊王攘夷の熱は藩の枠をこえて若い武士たちに広がっていました。

事件のその後—京都守護職と、姫路藩の「甲子の獄」

賀川の首が届いた東本願寺には、一橋慶喜が滞在していました。将軍の名代が、宿所に首を送りつけられたのです。京都の治安の悪化は、もはや見過ごせないところまで来ていました。

前年の暮れには、会津藩主・松平容保が新設の京都守護職として京都に入っていました。明治になって会津藩の側からまとめられた『京都守護職始末』(山川浩の名で刊行)も、この賀川肇の事件にふれています。この年の春には、浪士組から分かれた壬生浪士組(のちの新選組)が会津藩の預かりとなり、京都の取り締まりにあたるようになります。

犯人の伊舟城源一郎は、この年の8月18日の政変のあとも尊王攘夷の活動を続けましたが、元治元年(1864)、賀川肇らを殺害したことが明らかになって姫路藩の獄につながれます。そして同年12月26日、姫路藩が尊王攘夷派をいっせいに処罰した「甲子の獄(かっしのごく)」で、切腹を命じられました。数え35歳でした。この獄では、伊舟城を含む6人が切腹、2人が斬首となっています。

のちに伊舟城は「勤王の志士」として正五位を贈られ、姫路には「姫路藩勤王志士終焉之地」の碑が建てられています。一方、殺された賀川肇の名前は、ほとんど語られることがありません。

賀川肇ゆかりの地

  • 東本願寺(京都市下京区):一橋慶喜の宿所。賀川の首が届けられた場所。
  • 姫路藩勤王志士終焉之地(兵庫県姫路市十二所前町付近):伊舟城源一郎ら甲子の獄で命を落とした姫路藩士をしのぶ碑。

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✎ 筆者のひとこと

賀川肇は、生まれた年さえわからない人です。歴史の表舞台に立ったことはなく、主人と幕府側との連絡役をつとめていただけでした。

それでも、その首と腕は将軍後見職や朝廷の実力者を脅す「手紙」として使われました。斬った側はのちに位を贈られ、斬られた側の名前はほとんど残っていない—。調べていて、その対比がずっと心に引っかかっています。

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