小栗忠順の作戦とは—箱根で迎え撃ち、幕府艦隊で駿河湾から東海道を断つ。慶応四年正月の建策と、大村益次郎が恐れたという言葉の出典

駿河湾から海沿いの東海道を見すえる幕府艦隊と幕臣(イメージ)

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

小栗忠順の肖像写真
小栗忠順(小栗上野介)。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

慶応四年(1868年)正月、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が江戸に戻ると、江戸城では「戦うか、従うか」をめぐる評定が開かれました。このとき勘定奉行の小栗忠順(小栗上野介)が主戦論を唱え、示したと伝えられるのが、「新政府軍を箱根で迎え撃ち、幕府艦隊で駿河湾から東海道を叩く」という作戦です。

慶喜はこの策を退け、小栗を罷免しました。のちに新政府軍の作戦を立てた大村益次郎が「あの策が用いられていたら、我々の命はなかった」と語ったという話とともに、この作戦は「幻の作戦」として語り継がれています。この記事では、作戦の中身、建策の場、当時の戦力、採用されなかった理由、そして大村の言葉の出典までを、確かめられる範囲で整理します。

目次

小栗忠順の作戦とは?—先に答え

いつ・どこで慶応四年(1868年)正月、鳥羽伏見の敗戦後に江戸城で開かれた評定で、徳川慶喜に建策したと伝わります
作戦の中身東海道を下ってくる新政府軍を箱根の関東側まで入らせ、幕府陸軍で迎え撃つ。同時に幕府艦隊を駿河湾に入れ、海沿いの東海道を進む後続部隊を艦砲で叩いて補給と退路を断ち、孤立した敵を討つ——という陸海の挟み撃ちです
なぜ有望とされたか幕府海軍は旗艦・開陽丸をはじめ国内最強の艦隊を持ち、海の上で対抗できる艦は新政府側にほとんどありませんでした
結果慶喜は朝廷への恭順を選んで作戦を退け、一月十五日に小栗を罷免しました。作戦は実行されていません
大村益次郎の言葉「小栗の献策を用いて実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかったであろう」という趣旨の言葉が伝わりますが、記録されたのは戦いから数十年後です
注意したい点作戦の細部は伝える文献ごとに違い、小栗自身の同時代の文書で全体を確かめることはできません

作戦の中身—箱根で止め、駿河湾から挟む

小栗が示したとされる作戦は、もっともよく知られた形でまとめると、次のような流れです。

  1. あえて関東側へ入らせる:京都から東海道を下ってくる新政府軍(東征軍)を、箱根の山を越えて関東側に降りてくるまで進ませる
  2. 陸軍で迎え撃つ:箱根の山を降りたところを、フランス式に訓練された幕府陸軍で迎え撃つ
  3. 艦隊で後ろを断つ:同時に、榎本武揚が率いる幕府艦隊を駿河湾に入れ、海沿いを通る東海道の後続部隊や補給の列を艦砲で撃つ
  4. 孤立させて討つ:前は陸軍、後ろは艦隊にふさがれ、箱根の山中で孤立した敵を討ち取る
小栗の作戦のイメージ図。箱根を越える新政府軍を関東側で迎え撃ち、駿河湾の艦隊が海沿いの街道の後ろをふさぐ
作戦のイメージ図。赤が箱根を越えて進む新政府軍、青が関東側で待ち受ける幕府陸軍と、駿河湾から街道の後ろをふさぐ幕府艦隊

なぜ箱根と駿河湾なのか

東海道は、京都から江戸へ向かう途中、箱根の険しい山を越えなければなりません。大軍が狭い山道を越える間は隊列が長く伸び、前と後ろが離れてしまいます。そして箱根の西側、駿河から伊豆にかけての東海道は、海岸のすぐそばを通る区間が少なくありません。海から艦砲で狙えば、後続の部隊や兵糧を運ぶ列を足止めできる、という計算です。

陸の険しさと、海に面した街道。この二つを組み合わせ、海の優位を陸の戦いに生かそうとしたところに、この作戦の特徴があります。

別の伝え方もある

ただし、作戦の細部は伝える本や記事によって違いがあります。

  • 箱根だけでなく中山道の碓氷峠も含め、敵をすべて関東に入れたうえで両方の関門を閉ざし、袋のねずみにする、という形
  • 関東で勝ったあと、艦隊を兵庫・大坂方面に回して近畿を取り戻す、という続きのある形
  • 艦隊で長州の馬関(下関)や薩摩の鹿児島を直接突く、という形

どれが小栗の言葉そのものに近いのかは、小栗自身が書き残した同時代の文書がないため、確かめることができません。現在知られている作戦の姿は、のちの伝記や回想を通じて形づくられたものと考えておくのが安全です。

建策の場—慶応四年正月の江戸城

慶応四年一月六日の夜、鳥羽伏見で敗れた慶喜は大坂城をひそかに抜け出し、軍艦・開陽丸で江戸へ向かいました。江戸に着いたのは一月十二日です。戦いの経過は鳥羽伏見の戦いとはで詳しく扱っています。

江戸城ではすぐに、今後の方針をめぐる評定が開かれます。抗戦を強く主張したのは小栗のほか、海軍を率いる榎本武揚、歩兵を率いる大鳥圭介、外国奉行を務めた水野忠徳らでした。フランス公使ロッシュも江戸城に登城し、慶喜に再起を促しています。

もっとも、主戦派の意見が一つにまとまっていたわけではありません。軍艦で大坂城を攻める案、富士川で食い止める案、碓氷峠を守りの線にする案など、さまざまな策が出され、議論は百出したといわれます。小栗の作戦は、そのなかで最も具体的で、陸と海を組み合わせた策として伝えられてきました。

慶喜は戦わない道を選びました。一月十五日、小栗は勘定奉行を罷免されます。このとき小栗が慶喜の袴の裾をつかんで考え直すよう迫り、慶喜が振り払って奥へ去った、という話も伝わっていますが、確かな出典は見つかっていません。罷免の経緯は小栗忠順の罷免とはをご覧ください。

江戸城で立ち去る慶喜の袴の裾をつかんで引き留める小栗(イメージ)
立ち去る慶喜の袴の裾をつかんで引き留める小栗(伝わる逸話のイメージ)

当時の戦力—海では旧幕府が圧倒していた

この作戦が有望と見られた最大の理由は、海の戦力の差です。慶応四年の時点で、旧幕府の海軍は国内のどの藩も及ばない艦隊を持っていました。

旧幕府海軍の旗艦・開陽丸
旧幕府海軍の旗艦・開陽丸。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
艦側排水量(おおよそ)備考
開陽丸旧幕府約2,590トンオランダで建造された旗艦。大砲26門(のち35門)
回天旧幕府約1,680トン大砲11門
富士山旧幕府約1,000トンアメリカで建造された軍艦
蟠竜旧幕府約370トンイギリス女王から贈られた船
春日丸薩摩藩(新政府)約1,000トン級速力に優れるが、砲は6門ほど
甲鉄(新政府が後に入手)—アメリカが局外中立を理由に引き渡しを止めており、慶応四年正月の時点では使えなかった
薩摩藩の軍艦・春日丸
新政府側の主力だった薩摩藩の春日丸。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

鳥羽伏見の直後には、開陽丸と春日丸が撃ち合った阿波沖海戦も起きています(阿波沖海戦とは?開陽丸と春日丸が撃ち合った日本初の蒸気軍艦の海戦を図解でわかりやすく)。両軍の艦隊の比較は戊辰戦争の海軍を比べるにまとめています。

陸でも、幕府はフランス式の訓練を受けた歩兵や伝習隊を抱えていました。慶応三年の時点で、幕府陸軍は数十個大隊、二万人余りの規模を目指して編成が進められていたとされます。ただし、鳥羽伏見で主力が大きな打撃を受けたうえ、江戸に戻った将兵の士気はまちまちでした。

なぜ採用されなかったのか

将軍時代の徳川慶喜の肖像写真
徳川慶喜。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

慶喜が恭順を決めていた

最大の理由は、慶喜自身が戦う気をなくしていたことです。鳥羽伏見で「朝敵」とされた慶喜は、これ以上朝廷に弓を引くことを避け、一月下旬には恭順を正式な方針としました。二月十二日には江戸城を出て上野寛永寺に移り、謹慎に入っています。慶喜については徳川慶喜とは何をした人物かをご覧ください。

箱根を守る小田原藩が、先に新政府へ

小田原城の天守
箱根の東の入口を押さえる小田原城(撮影:佐藤秀信)

作戦のかなめとなる箱根の関所は、譜代の小田原藩(大久保家)が守っていました。ところが小田原藩は、慶応四年二月の末には東海道を下ってくる新政府軍に「勤王に二心なし」と答える書面を出し、新政府に従う姿勢を示しています。

のちの五月、旧幕府方の遊撃隊が箱根に攻め上ったとき、小田原藩はいったん遊撃隊の側に傾きながら、すぐに新政府側に戻って遊撃隊と戦いました(遊撃隊と林忠崇の房総転戦とは?藩主が脱藩し、房総の諸藩をまわって箱根へ渡った戊辰戦争を図解でわかりやすく)。箱根で敵を止める作戦は、地元の藩が味方につくことを前提にしていましたが、その前提が揺らいでいたのです。小田原藩の揺れ動きは【現地取材】小田原城を歩くで現地の写真とともに紹介しています。

勝海舟による交渉の道

慶喜は、主戦派の小栗を退け、勝海舟に江戸の処理を任せました。勝は山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛のもとへ送り、三月の会談を経て、四月に江戸城は戦わずに明け渡されます(江戸城無血開城とは)。小栗と勝の対照的な道については小栗忠順と勝海舟で扱っています。

大村益次郎は本当に恐れたのか—言葉の出典

この作戦が有名になった理由の一つが、新政府軍の作戦を担った大村益次郎の言葉です。ただし、伝わっている文言は一つではありません。

  • 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野介の死』(昭和三年=1928年):「幕府でもし小栗豊後守の献策を用いて、実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかったであろう」という趣旨で紹介されています。小栗の呼び名が「上野介」ではなく、以前の官名「豊後守」になっています
  • 土方久元の伝記『土方伯』:同じく大村の言葉として、この作戦に触れた話が載っているとされます
  • 城泉太郎の回想(昭和四年に新聞連載):「小栗の計画通り事がはこんだら官軍は全滅した」と、薩長出身の人から聞いた話として記しています。ただしこちらでは、フランスから軍艦や資金を借りる計画として語られており、箱根や駿河湾の話は出てきません

よく見かける「その策が実行されていたら、今ごろ我々の首はなかったであろう」という言い回しは、こうした伝えを分かりやすくまとめた形と考えられます。どの記録も戦いから数十年後のもので、大村本人の書いたものではありません。大村が本当にそう語ったのかを確かめることはできませんが、「敵から見ても恐ろしい作戦だった」という受けとめ方が早くから広まっていたことは確かです。

作戦は有効だったのか—二つの見方

この作戦を高く評価する人は、海の圧倒的な優位と、箱根の地形を組み合わせた点を挙げます。新政府軍には、艦砲から街道を守る手段がほとんどありませんでした。

一方で、慎重な見方もあります。作戦の細部が後世の伝記や回想に頼っていること。箱根を守る小田原藩をはじめ、東海道沿いの諸藩の多くがすでに新政府に従っていたこと。そして何より、総大将の慶喜に戦う意思がなかったこと。どれほど優れた作戦でも、それを実行する体制がなければ机上の策にとどまります。

作戦が採用されていたら歴史はどう変わったのか——その「もしも」については、筆者の考えを【幕末のもしも】小栗忠順の作戦が採用されていたらに書いています。あわせてお読みください。

大河『逆賊の幕臣』と小栗の作戦

鳥羽伏見の敗戦から江戸城での評定、そして罷免へ。この場面は、大河ドラマ『逆賊の幕臣』の後半の大きな山場になると考えられます。慶喜の配役は2026年10月27日の時点でまだ発表されていませんが、小栗(松坂桃李さん)が作戦を説き、退けられる場面がどう描かれるかは、大きな見どころになるでしょう。ただし、これは推測です。罷免のあと、小栗は上州権田村に移り、閏四月に取り調べもないまま斬られます。その経緯は小栗上野介はなぜ殺されたのかで詳しく扱っています。

小栗忠順のゆかりの地をめぐる

小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。

倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。

泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。

小栗忠順をもっと知る本

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▶ あわせて読みたい—小栗の作戦と慶応四年の江戸

参考資料

蜷川新『維新前後の政争と小栗上野介の死』(日本書院、1928年)、木村知治『土方伯』、城泉太郎「紅秋随筆録」(『福沢手帖』93号に転載)、高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新』(岩波書店)、安藤優一郎『「幕末維新」の不都合な真実』、『群馬県史料集 第7巻(小栗日記)』、宮澤歩美「戊辰戦争をめぐる小田原藩江戸藩邸と国元の動向」(國學院大學)、東善寺「小栗上野介とは」、Wikipedia「小栗忠順」「江戸開城」「開陽丸」「幕府海軍」(数値の確認に使用)。

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