慶応4年1月5日。鳥羽・伏見の戦いが始まって3日目、京都の御所から、18歳の公家・西園寺公望を総督とする一行が西へ出発しました。山陰道鎮撫総督です。丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲と、日本海側の諸藩を新政府に従わせるのが役目でした。
83日間の旅で、鎮撫使は一度も戦いませんでした。どの藩も、最後は頭を下げたからです。それでも、すんなり従った藩ばかりではありません。京都に近い丹波亀山藩は様子をうかがい、宮津藩は朝敵とされ、出雲の松江藩は「国の半分を差し出すか、重役の首を差し出せ」と迫られました。この記事では、山陰道鎮撫の道のりと、各藩がどう振る舞ったのかを、進路図とイラストで解説します。
山陰道鎮撫総督とは?ひとことで言うと
新政府が戊辰戦争の最初に送り出した鎮撫使の一つで、山陰道の諸藩から「勤王の誓い」を取りつけて回った一行です。東海道・東山道・北陸道の鎮撫総督より先に任命されました。
| 期間 | 慶応4年1月5日に京都を出発し、3月27日に帰京(83日間) |
|---|---|
| 道のり | 京都→丹波→丹後→但馬→因幡(鳥取)→伯耆(米子)→出雲(松江)。帰りは美作・播磨を通って大坂から京都へ |
| 総督 | 西園寺公望(満18歳) |
| 兵力 | 出発時は薩摩・長州の藩士約300人と供回り約40人。丹後では700人をこえ、先に着いていた者も含めて約1,000人 |
| 結果 | 戦闘はなし。丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲の諸藩がすべて勤王の誓書を出した。松江藩は「四ヶ条」を突きつけられたが、許された |
なぜ山陰道に鎮撫使が送られたのか
鳥羽・伏見の戦いが始まると、新政府にとって気がかりだったのは、京都のまわりと西国の藩がどちらにつくかでした。京都の西には、丹波亀山・篠山・福知山・宮津など、徳川の譜代や親藩が並んでいます。山陰には、徳川家と縁の深い松江藩(松平家18万6千石)もありました。
そこで新政府は1月4日、西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じます。錦の御旗を掲げた新政府の使いが自ら出向き、諸藩に「どちらにつくのか」を問う。それが鎮撫使の役目でした。

一行の顔ぶれと兵力
| 役目 | 人物・部隊 | どんな人・部隊か |
|---|---|---|
| 総督 | 西園寺公望 | 右大臣・徳大寺公純の次男で、西園寺家を継いだ公家。のちに首相を2度務め、立命館の前身となる私塾を開く |
| 参謀 | 黒田嘉右衛門(薩摩)、小笠原美濃介(長州) | 実際の指揮をとった |
| 兵 | 薩摩藩・長州藩の兵 | 出発時は約300人 |
| 加わった者 | 丹波の弓箭組の郷士、山国隊 | 山国隊は丹波山国郷の農民たちが志願してつくった部隊。1月11日に立ち上がって一行に加わった |
兵の数だけを見れば、6万石の篠山藩や18万石の松江藩が本気で戦えば、とても勝てる人数ではありません。鎮撫使の力は、兵の数ではなく、掲げている錦の御旗にありました。福知山に滞在しているとき、御所から錦旗と牙旗が届き、一行はこれを先頭に立てて進んでいきます。
一行の人数はどう変わったか
| 場所・日付 | 人数(記録による) | 中身 |
|---|---|---|
| 京都出発(1月5日) | 約340人 | 薩摩・長州の藩士約300人と、総督の供回り約40人 |
| 丹波・柏原(1月13日) | 約600人 | 丹波の弓箭組の郷士や山国隊が加わる(『柏原町志』) |
| 丹後・田辺(1月18〜20日) | 624人 | ― |
| 丹後・宮津(1月21〜25日) | 728人。先に着いていた者を含めて約1,000人 | 薩長の藩士と郷士。いちばん人数がふくらんだ時期 |
| 丹後・峰山(1月26日) | 700人をこえる | 城下が大混雑した |
| 但馬・村岡(2月1〜3日) | 467人 | 丹波・丹後・但馬・鳥取の藩士や郷士を含む通行の人数(宿村の記録) |
| 伯耆・由良(2月22日) | 約300人 | 薩摩・長州それぞれ約120人など(『羽合町史』) |
いちばん多いときでも、宮津での約1,000人です。その後は、加わっていた丹波・丹後の郷士や各藩の付き添いが離れたとみられ、伯耆まで来たころには出発時と同じ300人ほどに戻っていました。
鎮撫の道のり

丹波:様子をうかがう亀山藩

1月5日、一行は御所の蛤御門を出て、嵯峨から山道を越えて丹波に入りました。わざわざ明智越えという険しい道を選んだのは、すぐ先にある丹波亀山藩がどう出るか、わからなかったからです。
亀山藩(形原松平家5万石)は幕府から山城の警備を命じられていたため、幕府側と見られていました。藩の家臣が挨拶に来ても誠意が見えず、一行が城に迫ったところで、1月6日、ようやく指揮に従いました(丹波亀山藩)。
その先の園部藩(小出家2万4千石)は、藩主が京都にいたため家臣が勤王を誓います。篠山藩(青山家6万石)は、藩主の青山忠敏と老臣らが連名で勤王を誓い、徳川の譜代という関係を断つという書付まで出しました(篠山藩)。
福知山・田辺・宮津:はじめは幕府側だった藩
福知山藩(朽木家3万2千石)ははじめ幕府側でしたが、1月15日、藩の重臣が降伏しました(福知山藩)。出石藩(仙石家3万石)・綾部藩(九鬼家1万9千5百石)・山家藩(谷家1万石)も勤王の誓書を出し、田辺藩(牧野家3万5千石、いまの舞鶴)も藩主と老臣が恭順を誓います。
いちばん立場が悪かったのは宮津藩(本庄松平家7万石)でした。宮津藩は鳥羽・伏見で旧幕府側として戦い、そのうえ八幡の警備に出た部隊が新政府軍に発砲したため、朝敵とされていました。藩主の松平宗武は京都に入ることを禁じられ、京都にいた藩兵は武器を取り上げられます。国元の重臣は、鎮撫使が丹後に入ってくると、1月23日に誓詞を出して降伏しました(宮津藩)。
但馬・因幡:鳥取で半月
一行は峰山(峰山藩・京極家1万3千石)・久美浜・豊岡(豊岡藩・京極家1万5千石)と進み、雪と洪水に悩まされながら但馬の山を越えて、2月5日に鳥取に入りました。鳥取藩(池田家32万5千石)の藩主・池田慶徳は、徳川慶喜の兄にあたります。それでも鳥取藩は鳥羽・伏見で新政府側に立っており、2月9日に勤王の誓書を出しました(鳥取藩)。一行は鳥取に半月とどまります。
鳥取に着いた日、途中の細川村では、庄屋が一行の接待にしくじったことを苦にして命を絶っています。戦いはなくても、鎮撫使を迎える側には大きな重圧がかかっていました。
出雲:松江藩に突きつけられた「四ヶ条」
山陰道鎮撫でただ一つ、大きな危機になったのが松江藩(越前松平家18万6千石)です(松江藩)。
松江藩は1月16日の時点で「勤王のほかなし」と決めていました。ところが、鎮撫使を避けたのではないかと疑われます。前の年には、松江藩の蒸気船・八雲丸が敦賀や宮津に入って、不審を招いたこともありました。親藩の松江藩は、新政府から敵対の疑いをかけられたのです。
2月13日、鎮撫使の側から、松江藩の家老・大橋に次の四ヶ条が申し渡されました。
| 四ヶ条(いずれかを選べ) |
|---|
| 一、雲州(出雲)の半国を朝廷に返上すること |
| 二、重役の死をもって謝罪すること |
| 三、幼い子を人質に出すこと |
| 四、勅使を国境で迎え、一戦して決着をつけたうえで謝罪すること |
18万6千石の半分を差し出すか、重役が腹を切るか、戦うか。家老の大橋は、自分の死をもって謝罪する覚悟を決めました。
このとき間に入ったのが、鳥取藩主の池田慶徳でした。慶徳のとりなしで松江藩は許され、大橋も死を免れます。一行が米子に滞在していた間に、松江藩は総督に謝罪し、問題は決着しました。2月28日の夜、一行は雪の中を松江城の三之丸に入り、3月1日、松江藩の世子らが勤王の誓書を差し出しました。


(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
伝説の芸者・玄丹お加代
松江には、このとき藩を救ったとされる女性の話が伝わっています。藩医・錦織玄丹の娘で芸者のお加代です。鎮撫使一行の酒宴に入りこみ、機転と度胸で家老たちの助命をかちとった。乱暴な藩士に刀の先に刺した蒲鉾を突きつけられても、平然とそれを食べてみせた、といいます。
ただ、この話は昭和の芝居「鎮撫使さんとお加代」で広まったもので、史実と違う点も多いとされます。お加代は晩年、敵方に身を売ったと誤解され、さびしい生涯を送ったといいます。いまは松江市の白潟公園に胸像と顕彰碑が建っています。
3月:美作・播磨を回って帰京
一行は3月2日に松江を発ち、出雲大社に参ったあと、山を越えて美作の勝山・津山へ。姫路では、すでに降伏して備前藩が預かっていた姫路城の三之丸に泊まり、兵庫から佐賀藩の軍艦で大坂へ渡りました。そして3月27日、京都に戻ります。83日間の旅でした。
山陰の藩はどちらについたのか
| 藩 | 大名家・石高 | はじめの立場 | 鎮撫使への対応 |
|---|---|---|---|
| 丹波亀山藩 | 形原松平家 5万石 | 幕府側と見られた | 一行が城に迫ってから、1月6日に従う |
| 園部藩 | 小出家 2万4千石 | ― | 藩主の留守に家臣が勤王を誓う |
| 篠山藩 | 青山家 6万石 | 徳川譜代 | 藩主と老臣が連名で勤王を誓い、譜代の関係を断つ書付を出す |
| 福知山藩 | 朽木家 3万2千石 | 幕府側 | 1月15日に重臣が降伏 |
| 丹後田辺藩 | 牧野家 3万5千石 | ― | 藩主と老臣が恭順を誓う |
| 宮津藩 | 本庄松平家 7万石 | 朝敵(八幡で新政府軍に発砲) | 1月23日、国元の重臣が誓詞を出して降伏 |
| 豊岡藩 | 京極家 1万5千石 | 新政府に協力を申し出ていた | 1月23日に誓詞 |
| 鳥取藩 | 池田家 32万5千石 | 新政府 | 2月9日に勤王の誓書。松江藩のとりなし役になった |
| 松江藩 | 越前松平家 18万6千石 | 勤王と決めていたが疑われた | 四ヶ条を突きつけられ、謝罪して許される。3月1日に誓書 |
鎮撫使に兵を向けた藩は一つもありません。ただ、亀山・福知山・宮津のように、はじめは幕府側に立っていて、鎮撫使が目の前に来てから従った藩がいくつもありました。
この鎮撫が示したもの
山陰道鎮撫では一度も戦いが起きませんでした。四国の土佐藩の鎮撫と同じです(土佐藩の四国鎮撫とは)。
出発したときは300人ほど。丹後でいちばんふくらんだときでも約1,000人、山陰の奥へ進むころにはまた300人ほどに戻っていました。この一行に、なぜどの藩も頭を下げたのか。私は、鳥羽・伏見で旧幕府軍が4日で敗れ、徳川慶喜が大坂から江戸へ逃げ帰ったことが、すべてを決めたのだと思います。錦の御旗に逆らえば朝敵になる。そして、その朝敵を守ってくれるはずの将軍は、もういない。京都の西に並ぶ譜代の藩にとって、戦う理由はほとんど残っていませんでした。
それでも、戦わなかったから何も起きなかったわけではありません。松江藩は国の半分と家老の命を天秤にかけられ、細川村の庄屋は接待のしくじりで命を絶ちました。鎮撫使が通った道筋には、戦場にはならなくても、張りつめた日々を過ごした人々がいたのです。
そしてもう一つ。松江藩を救ったのは、慶喜の兄でありながら新政府についた鳥取藩主・池田慶徳でした。徳川の血を引く者が、徳川の親藩を新政府からかばう。戊辰戦争の初めの数か月、多くの藩がこうした細い綱の上を渡っていたことがわかります。
現地を歩く ― 山陰道鎮撫の史跡
- 松江城(島根県松江市):鎮撫使の一行が2月28日の夜、雪の中で三之丸に入った城です
- 白潟公園(松江市):玄丹お加代の胸像と顕彰碑があります
- 光徳寺(松江市):お加代の墓と「お加代地蔵」があります
- 鳥取城跡(久松公園)(鳥取県鳥取市):一行が半月滞在した鳥取藩の城です
- 篠山城跡(兵庫県丹波篠山市):藩主と老臣が勤王を誓った篠山藩の城です
あわせて読みたい
参考にした資料
- 立命館大学史資料センター「<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る」第1部〜第3部
- コトバンク「玄丹かよ」(日本人名大辞典)
文:佐藤秀信
※進路図・イラストはイメージです


