慶応4年(1868)7月29日、陸奥の二本松城は、新政府軍の攻撃を受けてわずか半日で落ちました。城を守ったのは、主力が白河方面へ出たあとに残った老兵と、12歳から17歳の少年たちをふくむわずかな兵です。家老たちは城に火を放って自刃し、城外では「二本松少年隊」の少年たちが次々に命を落としました。
この記事では、二本松の戦いを、二本松藩がなぜ戦う道を選んだのか、三春藩の降伏で戦線がどう動いたのか、7月29日に何が起きたのかの順に、進軍図を使ってわかりやすく解説します。白河口の戦いの続きであり、このあとの母成峠の戦いにつながる戦いです。
二本松の戦いとは?ひとことで言うと
奥羽越列藩同盟に加わった二本松藩(丹羽家10万700石)の城下に、白河から北上した新政府軍が攻め込んだ戦いです。藩の主力は白河方面に出ていて、城を守る兵が足りませんでした。隣の三春藩が新政府軍に降ったことで戦線が一気に北へ押し上げられ、二本松城は南と東の二方向から攻められて、1日で落城しました。
| 期間 | 慶応4年7月27日〜29日(1868年9月13日〜15日)。落城は7月29日 |
|---|---|
| 場所 | 陸奥国 二本松(現在の福島県二本松市)と、その南の本宮(本宮市) |
| 新政府側 | 土佐藩(板垣退助)・薩摩藩・長州藩・大垣藩・彦根藩・佐土原藩・備前藩(岡山藩)など |
| 同盟側 | 二本松藩(家老・丹羽一学)。老兵・少年兵・農兵まで動員。仙台藩・会津藩の兵も一部加わる |
| 結果 | 新政府軍の勝利。二本松城は炎上し、家老らが自刃。二本松藩の死者は200人をこえ、少年隊の少年たちもふくまれる。新政府軍は会津攻めへ進む |
二本松藩はなぜ戦ったのか
丹羽長秀の流れをくむ10万石の名門
二本松藩は、織田信長の重臣・丹羽長秀の流れをくむ丹羽家の藩です。石高は10万700石で、周りの三春藩(5万石)や守山藩(2万石)よりずっと大きな藩でした。領地は、奥州街道が会津の猪苗代へ分かれる要所にあたります。
幕末の藩主は丹羽長国でしたが、病がちで、藩をまとめていたのは家老の丹羽一学(富穀)でした。藩では漢学がさかんで、忠義を重んじる気風が強かった一方、軍備の洋式化は遅れていました。



隣の三春藩の居城だった三春城跡(福島県三春町)。三春城については【現地取材】三春城と三春藩で紹介しています。
主力を白河口に出していた
慶応4年閏4月、東北の諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、二本松藩もこれに加わります。二本松藩は、老中を務めた阿部家が移ったあとの白河城を預かっていた藩でもありました。5月1日に白河城が新政府軍に奪われると、二本松藩は会津藩の求めに応じて主力の部隊を白河口に送ります。
ところが、同盟軍は何度攻めても白河城を取り返せず、二本松藩の主力も白河の周りにくぎ付けになりました。そのあいだ城下を守っていたのは、老人や少年、農民からなる予備の兵だけでした。
二本松藩の軍備—洋式の軍隊はあったのか
洋式化が遅れた藩
二本松藩は、10万石の藩としては軍備の洋式化が遅れていました。藩の教育は漢学と武芸が中心で、兵の多くは昔ながらの組ごとに編成され、鎧兜に刀や槍、火縄銃という装備がまだ残っていました。薩摩藩や長州藩のように、洋式の銃をそろえて歩兵の隊を一からつくり直すところまでは進んでいなかったのです。
落城の日、城の東を守っていた老兵の多くは鎧兜に槍という出で立ちで、鉄砲は足軽が持つ火縄銃がわずかにあるだけでした。阿武隈川を渡ってきた新政府軍の砲撃を受けると、この守りはすぐに崩れています。
西洋流砲術を学んだ木村銃太郎
それでも、藩が何もしていなかったわけではありません。藩の砲術師範の家に生まれた木村銃太郎は、元治元年(1864)に藩の命で江戸へ出て、西洋流(高島流)の砲術を学びました。慶応3年(1867)の末に帰ると砲術師範となり、父の道場で藩士の子どもたちに大砲の扱いを教えます。この教え子たちが、のちの二本松少年隊です。
元隊士の回想によれば、大壇口に出た少年隊の装備は四斤山砲1門と、一人ひとりが持つミニエー銃でした。服は膝までの短い筒袖に鉢巻きで、兜はかぶっていません。洋式の砲術と銃を身につけた、藩のなかでは新しい部隊だったといえます。ただ、それは少年たちを中心にした小さな隊で、藩の軍全体が洋式に変わっていたわけではありませんでした。
両軍の軍備をくらべる
| 二本松藩 | 新政府軍(薩摩・土佐・長州など) |
|---|---|
| 兵の多くは昔ながらの組の編成。主力は白河口に出ていて、城下には老兵・少年兵・農兵の予備隊が残る | 洋式の歩兵隊・砲兵隊。白河で増援を待ち、兵がそろってから北上 |
| 鎧兜に刀・槍、火縄銃が中心。洋式銃は一部 | ライフル銃(エンフィールド銃など)を広く持つ |
| 大砲は少なく、少年隊の四斤山砲など | 山砲や臼砲を部隊とともに運び、陣地を砲撃してから攻める |
| 城と山の地形を生かして守る | 南と東の二方向から同時に攻め、守りの薄いところから城下に入る |
尼子台や大壇口では、地形を生かした二本松藩の守りが新政府軍の足を止めました。しかし、大砲を据えて撃ち込まれると、陣地は持ちこたえられませんでした。兵の数だけでなく、装備と戦い方の差も、1日での落城につながったのです。
新政府軍が北へ—三春藩の降伏
白河から棚倉、そして三春へ
白河で守りを固めていた新政府軍は、6月に土佐・薩摩・長州の援軍がそろうと動き出します。6月24日には板垣退助が棚倉城を落とし、7月13日には磐城の戦いで磐城平城も落ちました。南と東の両方から三春藩へ迫れる形ができあがります。
7月26日、三春藩は藩主みずから城外に出て新政府軍を迎え、降伏しました。直前まで同盟側にいるそぶりを見せていたため、二本松藩や仙台藩にとっては思いもよらない出来事でした。翌27日には守山藩も新政府軍につき、戦線は一気に北へ押し上げられます。
本宮を奪われる
三春に集まった新政府軍は、二本松の南、阿武隈川沿いの本宮へ向かいます。7月27日、薩摩・土佐の部隊が夜のうちに糠沢の二本松藩兵を襲い、続いて本宮も占領しました。28日には郡山にいた仙台藩兵を中心とする同盟軍が本宮を取り返そうとしますが、これも失敗します。
本宮を押さえられたことで、二本松城と郡山の同盟軍とのあいだは断ち切られました。郡山の同盟軍はその夜のうちに仙台藩領へ引き上げ、二本松を助けに来られる部隊はいなくなります。
7月29日、二本松城の落城

「死を賭して信義を守る」
新政府軍が近づくと、二本松藩では降伏するかどうかを話し合う会議が開かれました。家老・丹羽一学は「死を賭して信義を守るは武士の本懐」と述べ、藩は戦う道を選びます。28日、病の藩主・丹羽長国は、城に残ろうとするのをなかば無理に駕籠に乗せられて城を出され、のちに米沢へ逃れました。
尼子台と大壇口の戦い
29日の朝、板垣退助の率いる本隊(薩摩・土佐・彦根・佐土原など)が本宮から北へ進みました。城の南の尼子台では、軍師・小川平助の小隊が切り立った地形を生かして撃ちかけ、新政府軍の足を止めます。しかし大砲を据えて総攻撃を受けると陣地は落ち、小川も戦死しました。
その先、城の南の入口にあたる大壇口では、二本松少年隊が砲を据えて新政府軍を迎えました。少年たちはよく戦いましたが、隊長の木村銃太郎が撃たれて倒れ、大壇口の陣地も破られます。

東から別動隊が城下へ
同じ朝、東の小浜からは長州・薩摩・備前などの別動隊が出ていました。濃い霧の中で阿武隈川を渡るのに手間取りましたが、城の東を守っていたのは鎧兜に槍の老兵が中心で、鉄砲は足軽の火縄銃がわずかにあるだけでした。砲撃を受けた守りはすぐに崩れ、別動隊はほとんど抵抗を受けずに城下へ入ります。南の本隊よりも先に城下へ火の手が上がりました。
城に火を放ち、家老らが自刃
援軍の望みも絶たれ、城内にいた仙台藩・会津藩の兵も城を出ていきました。29日の正午ごろ、二本松城に残った重臣たちは抵抗をあきらめ、城にみずから火を放ちます。家老・丹羽一学らは次々に自刃し、城と運命をともにしました。

この戦いで二本松藩は家老をはじめとする重臣の多くを失い、死者は200人をこえました。新政府軍の死者は十数人にとどまりましたが、二本松藩の抵抗は激しく、薩摩藩の部隊を率いた野津道貫は、のちにこれを戊辰戦争でいちばんの激戦だったと語っています。
二本松少年隊

二本松藩では、兵が足りなくなると、出陣できる年齢を引き下げ、さらに年齢を2歳多く数える「入れ年」で少年たちを兵に加えました。こうして集められた62人ほどの少年たちは、数えで12歳から17歳。江戸で西洋砲術を学んだ22歳の木村銃太郎が隊長となり、砲術を教えました。のちに「二本松少年隊」と呼ばれる少年たちです。
7月29日、大壇口の陣地を守った少年はおよそ25人でした。隊長の木村と副隊長が相次いで戦死すると、指揮をとる大人を失った少年たちは戦場に取り残されました。城とのあいだは新政府軍にさえぎられ、退くよう伝える者もいません。散り散りになった少年たちは、それぞれの場所で戦いに巻き込まれ、十数人が命を落としました。少年兵の幼さに驚いた土佐藩兵が生け捕りにしようとして、抵抗されたため撃たざるをえなかったという話も伝わっています。
少年隊のことは、白虎隊だけではなかった—12歳が銃を取った二本松少年隊の悲劇でくわしく紹介しています。
戦いの流れ(慶応4年)
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 閏4月 | 奥羽越列藩同盟が結ばれ、二本松藩も加わる |
| 5月1日 | 白河城が新政府軍に奪われる。二本松藩は主力を白河口へ送る |
| 6月24日 | 板垣退助が棚倉城を落とす |
| 7月13日 | 磐城平城が落ちる |
| 7月26日 | 三春藩が新政府軍に降伏する |
| 7月27日 | 糠沢・本宮の二本松藩兵が敗れ、本宮が占領される。守山藩も新政府軍につく |
| 7月28日 | 同盟軍の本宮奪回が失敗。藩主・丹羽長国が城を出る |
| 7月29日 朝 | 新政府軍が本宮と小浜の二方向から進む。尼子台・大壇口の戦い |
| 7月29日 正午ごろ | 二本松城に火が放たれ、家老・丹羽一学らが自刃。落城 |
| 8月21日 | 新政府軍が母成峠を破り、会津へ攻め入る |
その後—会津へ向かう新政府軍
二本松城を手に入れた新政府軍は、北の仙台を攻めるか、西の会津を攻めるかで議論したすえ、会津へ向かうことに決めます。そして8月21日、母成峠の戦いで会津の入口が破られ、会津戦争が始まりました。
二本松藩は戦後、10万石から5万石に減らされましたが、藩主の長国が隠居して養子の長裕があとを継ぎ、家は残りました。新政府軍を率いた板垣退助は、のちに、藩をあげて最後まで戦い抜いた点で二本松にまさる藩はなかった、という意味のことばで二本松藩をたたえています。

この戦いが示したもの
二本松の戦いでは、城そのものよりも、城を守る兵がどこにいたかが勝負を分けました。主力が白河口に出ているあいだに、隣の三春藩が降伏して戦線が一気に動き、二本松は守る兵の足りないまま新政府軍を迎えることになりました。小さな藩の判断ひとつで、まわりの藩の運命まで変わってしまう。列藩同盟という結びつきのもろさが、ここにはっきり表れています。
そして、兵が足りないなかで藩が選んだのは、少年たちまで戦場に出して信義を守る道でした。降伏すれば城下も少年たちも守れたかもしれない。それでも戦う道を選んだ二本松藩の姿は、のちに敵の側からもたたえられることになりました。
現地を歩く—二本松城跡(霞ヶ城公園)
二本松城跡は、いま霞ヶ城公園として整備されています。入口には復元された箕輪門と櫓がそびえ、その前に二本松少年隊の群像が立っています。門の脇から山の上の本丸までは、高く積まれた石垣や土塁が続き、山全体が城だったことがよくわかります。




筆者の感想
まさか白虎隊よりも若い子どもたちが、こんなにも悲惨な戦争で、若くして命を失うとは、私は知りませんでした。それを知ったのは、白虎隊のドラマを見てからです。
二本松は、本当に義に殉じた藩でしたよ。主力部隊が白河やほかの戦地へ行っているときに、突然襲われたのですから。隊長の木村銃太郎ですら、まだ若いのに。
あんなにも堅固なお城が、1日で落城するとは。やはりあの規模の城郭では、23万石の会津と同じくらいの戦力がないと守りきれないのかな。それでも、たった7万石の長岡藩は、河井の統率力でよく踏ん張ったものです。
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参考資料
- 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社)
- 『二本松市史』
- 『広報にほんまつ』2018年7月号 特集「戊辰戦争 二本松の戦い」
文・写真:佐藤秀信
※進軍図はイラストです





