佐土原藩(薩摩藩支藩)/島津家2万7千石:島津忠寛 薩摩藩と共に上野戦争や会津戦争に参戦した佐土原藩

佐土原藩(薩摩藩支藩)

目次

藩の歩み

慶長八年(1603年)、島津貴久の弟・忠将の子にあたる島津以久が、日向の那珂郡・児湯郡で三万石を与えられ、佐土原城に入りました。この地はもともと島津家久・豊久の父子の領地でしたが、関ヶ原の戦いで豊久が討ち死にし、跡継ぎがいないとして家が絶えたため、あらためて幕府から以久に与えられたものです。

佐土原藩(薩摩藩支藩)/場所・アクセス・地図 島津家2万7千石:島津忠寛 薩摩藩と共に上野戦争や会津戦争に参戦した佐土原藩【幕末維新写真館】

慶応四年(1868年)の戊辰戦争では本家の薩摩藩に従って新政府側として参戦しました。閏4月には下総の船橋で旧幕府の撒兵隊と戦い、立てこもる兵を臼砲で撃って船橋大神宮を炎上させています(市川・船橋の戦い)。明治元年六月には明治天皇より錦の御旗を賜いました。佐土原藩兵は上野戦争や、さらに会津藩や米沢藩などとの戦いで多くの功績を残しました。この功績により、明治二年(1869年)に賞典禄として三万石を与えられました。同年の版籍奉還で藩主「島津忠寛」が佐土原藩知事となり、広瀬城の築城を開始し佐土原城は破却されました。

明治四年(1871年)七月の「廃藩置県」により広瀬築城は中止となりました。佐土原藩は佐土原県となり忠寛は知藩事を免ぜられ十月には東京へ移住し、十一月十四日には佐土原県は廃止され美々津県に編入されました。

本家・薩摩藩との関係

佐土原藩は、日向にあった薩摩藩(島津家)の支藩です。島津家の分家が二万七千石を領し、宗家と深いつながりを保っていました。

幕末、本家の薩摩藩が討幕の主役として動くと、佐土原藩もこれに従います。戊辰戦争では新政府軍の一員として、上野戦争や会津戦争にも藩兵を送り、宗家とともに各地を転戦しました。最後の藩主は島津忠寛です。小さいながらも雄藩・薩摩と歩みをともにした支藩でした。

初代以久の死後、家督は長男の血統ではなく三男・忠興が継いだため、佐土原島津家は実質的に垂水島津家の分家という形になりました。10代忠徹は参勤交代の途中で急死しましたが、家臣たちはその死を伏せたまま奔走し、三男・忠寛への相続を正式に認めさせています。佐土原藩は制度上は薩摩藩の支藩ではなく独立した所領でしたが、宗家からたびたび介入を受けたため、実際には支藩同然に扱われてきました。子の忠亮が、忠寛の戊辰戦争の功により明治二十四年(1891年)に伯爵へ陞爵し、佐土原島津家は華族として存続しました。昭和には、この佐土原伯爵家の出身である島津久永に昭和天皇の皇女・貴子内親王が嫁いでおり、旧藩主家の血筋は皇室とも縁を結んでいます。

支藩か、独立した大名か—そして海を渡った兄弟

佐土原藩は薩摩藩島津家の一族が日向に構えた二万七千石の藩です。一般には薩摩藩の支藩として扱われますが、実はこの位置づけそのものに議論があります。もともと独立した外様大名だったとする見方と、薩摩藩の介入によって支藩と見なされるようになったとする見方が並んでいるのです。日向には高鍋藩や延岡藩、飫肥藩が並んでいましたが、そのなかで佐土原だけが薩摩とのつながりの深さゆえに特別な立場に置かれました。

薩英戦争の講和にあたった藩主

最後の藩主は島津忠寛です。文政十一年(1828年)に生まれ、天保十年(1839年)に十二歳で家督を継ぎました。注目されるのは、生麦事件と薩英戦争のときに講和の交渉に関わったことです。支藩の当主が本藩の対外交渉に関与した例で、二万七千石の藩主としては異例の役回りでした。戊辰戦争では宗藩とともに東征軍に加わり、伊勢から会津へ転戦したと事典類は記しています。

藩の財政は苦しく、明治三年(1870年)に藩庁を広瀬へ移したときには、士族の禄の一部を借り上げて費用に充てたと伝わります。忠寛は明治二十九年(1896年)に亡くなりました。家の爵位を受けたのは嫡男の島津忠亮で、明治十七年(1884年)に子爵、明治二十四年(1891年)に伯爵へ進みました。陞爵の理由は忠寛が幕末に挙げた功績によるものとされます。

兄弟でアメリカへ

この藩のもっとも印象的な話は、忠寛の子たちの経歴です。長男の忠亮は明治二年(1869年)に渡米してボストンに住み、明治六年(1873年)に帰国しました。三男の島津啓次郎は明治三年(1870年)に藩の留学生として渡米し、海軍兵学校に籍を置いたこともあると伝わります。明治九年(1876年)に帰国した啓次郎は、佐土原に私塾と修養の道場を開きました。

ところがその翌年、西南戦争が起こります。啓次郎は佐土原隊を率いて西郷軍に加わり、明治十年(1877年)九月、鹿児島の城山で戦死しました。二十一歳でした。アメリカで学んだ最新の知識を持ち帰った青年が、帰国の翌年に旧士族の戦いのなかで命を落としたことになります。宮崎県下では延岡隊・高鍋隊・飫肥隊なども編成されており、日向の士族が薩摩の側に立った土地であったことがうかがえます。

南九州で唯一の天守があった城

佐土原城跡は平成十六年(2004年)に国の史跡に指定されました。中世に伊東氏が築いた山城を島津氏が近世の城として使い続けた城で、発掘によって天守台の跡と金箔瓦の破片が見つかっています。宮崎市は南九州で唯一の天守があった城だと説明しており、確認されているなかで最も南にある天守台にあたります。二の丸跡には鶴松館が建てられ、佐土原歴史資料館として公開されています。藩主家の御廟所である高月院も市の史跡です。

藩校は学習館で、文政八年(1825年)の創設です。明治五年(1872年)に小学校へ姿を変え、現在の宮崎市立佐土原小学校につながっています。廃藩後は佐土原県、美々津県を経て宮崎県となりましたが、明治九年(1876年)に宮崎県は鹿児島県に併合され、明治十六年(1883年)にあらためて宮崎県として置き直されました。

佐土原藩をもっと詳しく

先祖の戦国武将

藩祖・島津以久の父は島津忠将です。忠将は島津忠良の子で、兄の貴久が島津宗家を継いだため、分家の相州家を継ぎました。武勇に優れ、兄を助けて各地を転戦し、天文17年(1548年)には大隅の要衝・清水城(今の霧島市国分清水)の城主となります。しかし永禄4年(1561年)、肝付兼続に奪われた大隅の廻城をめぐる戦いで、味方を救おうとして討たれました。

以久は天文19年(1550年)に薩摩国永吉で生まれ、父の死後は伯父の貴久、従兄の義久に育てられました。天正元年(1573年)には島津義弘に従って父の仇である肝付氏を攻め、天正6年(1578年)の日向高城での大友勢との戦いでは、自ら敵陣に駆け入って勝利のきっかけをつくり、第一の軍功と認められたと伝わります。

藩の成り立ちと石高の変化

佐土原藩は外様で、はじめは3万石でした。4代藩主・忠高の従兄弟にあたる久寿は、忠高の子で6代藩主となる惟久があまりに幼かったため、成長までの「番代」として家督を継いだ人物です。この時期、久寿の父や重臣の松木左門が権勢をふるってお家騒動となり、貞享3年(1686年)には薩摩藩の介入を招きました(松木騒動)。元禄3年(1690年)に久寿が16歳になった惟久へ家督を譲る際、幕府の意向で3000石を分け与えられて旗本寄合となり、佐土原藩は2万7千石になりました。このため、久寿を藩主として数えない史料もあります。元禄12年(1699年)には、もともと城があった土地として城主の格式を与えられています。

藩を揺るがした「弓場組」

2代藩主の島津忠興は、武道を奨励するために若い藩士を集めた「弓場組」をつくりました。城下の4つの守り口(追手・鴫之口・野久尾・十文字)ごとに組織され、やがて政治を話し合う場となって、その決定は藩庁の命令も及ばないほどの力を持ちます。8代久柄の時代の天明騒動、10代忠徹の時代の御牧騒動などは、この弓場組が絡んだ騒動とされます。守り口ごとに城下士の序列もでき、こうした空気を一新することが、明治になって藩庁を広瀬へ移す計画の理由の一つになりました。

明治になって城を移す、異例の計画

版籍奉還の後の明治2年(1869年)10月1日、佐土原藩は政府の許可を得て、佐土原城から新しく築く広瀬城へ移る転城令を出しました。広瀬は福島・石崎などの港を控えて便がよく、一方で塩害を受けやすい砂地だったため、肥沃な佐土原に農民を、広瀬に士族を住まわせて財政を立て直す狙いもあったといわれます。明治3年(1870年)には新政庁や知事邸などが完成し、9月に佐土原城を廃城とする旨を報告しましたが、翌年の廃藩置県で計画は中止となりました。版籍奉還の後に城を新たに築いて移ろうとしたのは、極めて異例のことでした。

領地のようす・江戸屋敷

幕末の領地は、日向国那珂郡のうち11村、児湯郡のうち15村でした。江戸の上屋敷は芝三田綱町にあり、島津本家の広大な芝屋敷の西隣に位置していました。明治11年(1878年)に三井組(のちの三井銀行)へ売られ、現在は綱町三井倶楽部となっています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、2万7千石(元禄3年以降の石高)のこの藩はおよそ六百三十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「佐土原藩」「島津忠将」「島津以久」

場所・アクセス・地図

〒880-0301 宮崎県宮崎市佐土原町上田島追手

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