戊辰戦争で少年たちが犠牲になった悲劇として、会津藩の白虎隊はよく知られています。しかし、若い命が戦場に散った物語は、それだけではありませんでした。同じ東北の二本松藩(にほんまつはん)でも、十代の少年たちが銃を取って戦い、多くが命を落としています。「二本松少年隊(にほんまつしょうねんたい)」です。白虎隊にくらべて語られる機会は多くありませんが、その悲劇は決して劣らない痛ましさをたたえています。
二本松藩と戊辰戦争
二本松藩は、丹羽氏が治める10万石の藩で、奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦いました。1868年(慶応4年)夏、新政府軍が同盟の防衛線を突破して北上を続けるなか、二本松にもその矛先が向けられます。
このとき二本松藩は、深刻な兵力不足に陥っていました。藩の主力部隊の多くは、南の白河方面など各地の戦線に出払っており、肝心の城下がひどく手薄になっていたのです。迫りくる大軍を前に、藩は動員できるあらゆる人手をかき集めなければなりませんでした。そのなかに、まだ幼い少年たちの姿がありました。
年齢を偽ってでも——出陣した少年たち
二本松藩には、出陣にあたって年齢に一歳を加えて数える「入れ年(いれどし)」という慣行があったと伝えられます。これによって、本来なら戦場に立つ年齢に満たない少年までもが、出陣資格を得て戦列に加わりました。その年齢は12歳から17歳ほど、人数はおよそ25名前後といわれます(人数・年齢には諸説があります)。砲術師範の木村銃太郎(きむらじゅうたろう)らが、彼ら少年たちを率いました。
幼い隊士たちは、大人と同じように銃や刀を手に、城下へ攻め寄せる新政府軍に立ち向かいました。
大壇口の戦いと落城
少年隊が奮戦した戦いのひとつが、城下の入り口にあたる大壇口(おおだんぐち)での戦闘でした。少年たちは大砲を据えて必死に応戦しますが、装備でも人数でも勝る新政府軍の前に、しだいに追い詰められていきます。隊を率いた木村銃太郎も重傷を負い、もはや動けぬと悟ると、部下に介錯を頼んで最期を遂げたと伝えられます。この戦いを含む一連の戦闘で、多くの少年たちが討ち死にしました。
そして二本松城(霞ヶ城)もついに落城します。藩主は米沢方面へ逃れ、城に残った家老らは自刃して果てました。わずか一日ほどで城が陥落するという、あまりに短く激しい戦いでした。
白虎隊との違い、そして共通するもの
白虎隊が飯盛山で「自刃」という形で最期を迎えたのに対し、二本松少年隊の多くは、戦場で敵と戦いながら命を落とした「戦死」でした。悲劇の形は異なりますが、どちらも十代の少年たちが、藩の危機に際して大人と同じ戦場に立たされ、命を散らしたという点で共通しています。
二本松少年隊が白虎隊ほど広く知られていないのは、生き残って証言を残した者が少なく、物語として伝わりにくかったことも一因かもしれません。しかし、彼らの奮戦と犠牲は、戊辰戦争が東北の地にもたらした過酷さを、白虎隊と並んで今に伝えています。
まとめ
二本松少年隊は、戊辰戦争で兵力不足に陥った二本松藩が、年齢を偽ってでも動員せざるを得なかった十代の少年たちの部隊でした。大壇口の戦いなどで奮戦し、隊長の木村銃太郎をはじめ多くが戦死、二本松城も落城します。飯盛山の白虎隊とともに、少年たちが背負わされた戦争の悲劇として、記憶にとどめておきたい物語です。会津藩の白虎隊の記事とあわせて読むと、東北が戊辰戦争で払った犠牲の大きさが、いっそう胸に迫るはずです。

