この記事で紹介する小栗忠高は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
小栗忠高は、主人公・小栗忠順の父です。もとは旗本・中川家の四男で、隣の屋敷の小栗家に婿として入り、家を継ぎました。持筒頭などを務めたのち、新潟奉行として越後へ赴き、その任地で数え四十七歳で亡くなります。息子の忠順が幕府の表舞台に立つ前のことでした。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、北村有起哉さんが演じます。
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小栗忠高とはどんな人か
- 生まれ:文化六年(1809年)。父は勘定奉行などを務めた旗本・中川忠英。その四男
- 小栗家へ:駿河台の隣家・小栗家の十代当主・忠清の娘、くに(邦子)の婿となり、小栗家を継ぐ
- 役職:持筒頭などをへて、嘉永七年(1854年)閏七月に新潟奉行
- 最期:安政二年(1855年)、任地の新潟で病没。数え四十七歳。墓は新潟市の法音寺
- 子:長男が忠順。父の死後、小栗家十二代の当主となる
中川家から、隣の小栗家へ
忠高の実家の中川家も、父の中川忠英も、幕府でよく知られた家と人でした。忠英は長崎奉行や勘定奉行、大目付を歴任した能吏で、長崎奉行のころに清の風俗をまとめた『清俗紀聞』を編んだことで名を残しています。
その四男に生まれた忠高は、家を継ぐ立場ではありません。忠高が迎えられたのは、江戸・駿河台の隣の屋敷に住む小栗家でした。当主の小栗忠清には男子がなく、娘のくにに婿を取って家を継がせることになったのです。三河以来の旗本で、のちの忠順の代には二千七百石を知行する家です。小栗家の歩みについては小栗家とは—三河以来の旗本は何石で、城はあったのかにまとめています。
婿養子の当主と、家付き娘の妻。大河の発表では、忠高は「温厚な『昼行燈』だが心に秘密を抱える」、くには「歯に衣着せぬ物言いの『小栗家の太陽』」と紹介されています。家の中での二人の力関係も、物語の見どころになりそうです。
息子・剛太郎の教育
文政十年(1827年)、忠高とくにのあいだに長男・剛太郎が生まれます。のちの小栗忠順です。
小栗家の屋敷の中には、儒学者・安積艮斎の私塾「見山楼」がありました。屋敷の一部を塾として貸していたのです。忠順は幼いころからこの塾で学び、剣術も直心影流を修めました。息子を、家にいながら一流の学問に触れられる環境で育てたことになります。忠順の若いころの歩みは小栗忠順はどう出世したのかをご覧ください。
▶ 「小栗家と家族」の記事
- 小栗家とは—三河以来の旗本は何石で、城はあったのか。先祖の「又一」から権田村三百七十五石まで
- 小栗くに(忠順の母)とは何をした人物か—小栗家の家付き娘、六十三歳で山を越えた「小栗家の太陽」
- 小栗忠順の家族—妻は林田藩主の娘、養子は駒井家の次男でした
- 小栗忠道とは何をした人物か—駒井家から小栗家の跡取りへ、仏語伝習所に学び高崎で斬られた養子
- 建部政醇とは何をした人物か—小栗忠順の義父、国学を学んだ林田藩主
- 小栗道子(みち)とは何をした人物か—林田藩主の娘、身重で会津へ逃れ、ただ一人の遺児・国子を産んだ妻
- 小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのか—慶応四年閏四月、身重の道子を守った権田村の二十二日
- 小栗忠順の遺児はどう生きたか—会津へ逃げた身重の妻と、三野村・大隈が支えた家
- 三野村利左衛門とは何をした人物か—小栗忠順に恩を返し、三井を救った大番頭
新潟奉行として越後へ
忠高は持筒頭などの役をへて、嘉永七年(1854年)閏七月、新潟奉行に任じられます。新潟は日本海側の大きな港で、この十年ほど前の天保十四年(1843年)、天保の改革の一つとして長岡藩の領地から幕府の直轄地に移され、奉行所が置かれたばかりの土地でした。抜け荷(密貿易)の取り締まりや、海の守りを固めるための役目です。
ちょうどペリーが二度目に来て日米和親条約が結ばれた年で、日本じゅうの港の守りが改めて問われていた時期にあたります。
任地での死
しかし忠高は、新潟に赴いてわずか一年ほどの安政二年(1855年)、病のために任地で亡くなりました。数え四十七歳。墓は新潟市の法音寺にあります。
忠高は生前、親しくしていた紙問屋の藤井忠太郎に五十両を預け、小栗家の先祖の祭りのための費用にあてるよう頼んでいたと伝えられます。家を継いだ婿養子として、家の祭りを絶やさないよう心を配っていたことがうかがえます。
父の死後の忠順
父が亡くなったとき、忠順は数え二十九歳でした。家督を継いだ忠順は、その四年後の安政六年(1859年)に目付となり、翌万延元年(1860年)には遣米使節の一員としてアメリカへ渡ります。父が越後の港の守りについた五年後、息子は太平洋を渡って、外国の港と造船所をその目で見ることになりました。
忠順の家族—母のくに、妻の道子、養子の忠道—については、小栗忠順の家族—妻は林田藩主の娘、養子は駒井家の次男でしたに詳しく書いています。
大河『逆賊の幕臣』の小栗忠高
演じるのは北村有起哉さんです。妻のくに(鈴木京香さん)、忠順の妻・みち(上白石萌音さん)らとともに、第三弾の「小栗家と、その周辺」として発表されました。「心に秘密を抱える」という紹介が何を指すのかは、まだ明かされていません。
▶ 大河『逆賊の幕臣』の登場人物を知る
- 徳川家慶とは何をした人物か—「そうせい様」と呼ばれた十二代、天保の改革と阿部正弘の抜擢、黒船十九日後の死
- 徳川家定とは何をした人物か—黒船の直後に将軍となった「お飾り」の十三代、ほんとうに暗愚だったのか
- 徳川家茂とは何をした人物か—十三歳で将軍、和宮と結ばれ、二十一歳で大坂城に没した十四代
- 阿部正弘とは何をした人物か—二十七歳で老中首座、黒船に「みんなの意見」を聞いた宰相
- 鳥居耀蔵とは何をした人物か—天保の改革の「妖怪」、蘭学者を陥れ、二十三年の幽閉を生き延びた南町奉行
- 徳川斉昭とは何をした人物か—攘夷の旗頭「烈公」、慶喜を将軍にしようと井伊直弼と争った水戸藩主
- 井伊直弼とは何をした人物か—埋木舎の部屋住みから大老へ、小栗忠順を世に出し桜田門外に散った人
- 安積艮斎とは何をした人物か—小栗家の屋敷で塾を開き、二千人を育てた儒学者
- 滝川具挙とは何をした人物か—小栗家の隣人、鳥羽街道で「通せ」と押し問答した大目付
- 駒井朝温とは何をした人物か—小栗の三歳上の幼なじみ、次男を小栗家の養子に出した大目付
- 朝比奈昌広とは何をした人物か—小栗と同い年、将軍家定のそばに仕え、長崎奉行・勘定奉行を務めた旗本
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参考資料:Wikipedia日本語版「小栗忠高」「中川忠英」、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

