慶応四年(1868)正月、鳥羽・伏見で敗れた新選組は江戸へ引き上げました。それから四月二十五日に近藤勇が板橋で斬られるまで、わずか百日あまり。甲州へ出陣し、敗れ、仲間と別れ、最後は下総の流山で新政府軍に身を委ねます。この記事では、近藤勇の最後の百日を日付の順にたどります。
慶応四年、近藤勇の最後の百日(年表)
| 日付 | できごと |
|---|---|
| 一月三日 | 鳥羽・伏見の戦い。近藤は前年十二月に伏見街道で撃たれた肩の傷が癒えず、土方歳三が隊を指揮する |
| 一月中旬 | 幕府の軍艦「富士山丸」などで江戸へ引き上げる |
| 二月二十八日 | 幕府から甲府の鎮撫を命じられ、新選組は「甲陽鎮撫隊」となる。近藤は「大久保剛」と名乗る |
| 三月一日 | 江戸・鍛冶橋の屋敷を出て甲州街道を西へ。故郷の日野宿では佐藤彦五郎らが加わる |
| 三月六日 | 甲州勝沼(柏尾)で、板垣退助の率いる土佐の迅衝隊などの新政府軍と戦い、敗れる |
| 三月八日ごろ | 八王子で江戸への引き上げを決める。まもなく永倉新八・原田左之助が近藤と意見が合わず離れる |
| 三月中旬 | 五兵衛新田(いまの東京都足立区)で隊士を集め直し、二百人あまりにふくらむ。近藤は「大久保大和」と名を改める |
| 四月一日〜二日 | 下総の流山(千葉県流山市)に移り、寺などに分かれて宿営する |
| 四月三日 | 新政府軍に囲まれ、近藤は「大久保大和」として出頭する。越谷の新政府軍の本営を経て、板橋の総督府へ送られる |
| 四月二十五日 | 板橋の刑場で斬首される。享年三十五。首は京都へ送られ、三条河原にさらされた |
甲陽鎮撫隊—故郷を通って甲州へ
江戸に戻った新選組に与えられた次の任務は、甲府城を押さえ、西から迫る新政府軍を食い止めることでした。隊は「甲陽鎮撫隊」と名を変え、近藤は「大久保剛」、土方は「内藤隼人」と名乗りました。
三月一日に江戸を発った一行は、甲州街道を進みます。途中の日野は近藤・土方の故郷で、土方の義兄・佐藤彦五郎も隊に加わりました。しかし一行が甲府に着く前に、新政府軍が先に甲府城に入ってしまいます。三月六日、勝沼の柏尾で戦いとなりましたが、甲陽鎮撫隊は二時間ほどで崩れ、敗走しました。正午ごろに始まり、午後二時には終わっていたと伝えられます。相手は板垣退助の迅衝隊およそ百人に鳥取藩兵およそ三百人で、こちらは総勢二百人足らず、うち新選組は七十人ほどでした。
この戦いには大石鍬次郎・松本捨助・近藤芳助・安富才輔らも加わっています。
永倉新八・原田左之助との別れ
江戸へ戻る途中、近藤は京都以来の仲間と道を分けることになります。会津へ行って再起しようと考えた永倉新八と原田左之助は、近藤と意見が合わず、隊を離れました。二人はのちに靖兵隊を結成します。試衛館の頃から近藤とともにいた二人との、これが最後の別れでした。
五兵衛新田から流山へ
三月中旬、近藤らは江戸の北東、五兵衛新田(いまの足立区綾瀬のあたり)に集まり、旧幕府の歩兵などを加えて隊を立て直しました。近藤は名を「大久保大和」と改めています。四月の初めには、さらに下総の流山へ移りました。
四月三日、流山での出頭
流山に集まった一団が新政府軍の背後を襲うのではないかと見た新政府軍は、流山を囲みました。不意を突かれた近藤は、戦わずに身を委ねる道を選びます。土方は強く止めたと伝わりますが、近藤は「大久保大和」として新政府軍のもとへ出向きました。流山は、近藤と土方が顔を合わせた最後の場所になりました。
近藤に付き添ったのは野村利三郎らでした。中島登もこの出頭の場に立ち会っています。
板橋で見破られた正体
近藤は越谷の本営を経て、中山道・板橋宿の総督府へ送られました。そこで近藤の顔を知る者がいました。かつて新選組にいて、油小路事件を生き延びた御陵衛士の加納鷲雄です。「大久保大和」が近藤勇であることは、こうして明らかになったとされます。
相馬主計は板橋の総督府を訪ねて近藤の助命を願いましたが、聞き入れられず、自らも捕らえられました。土方も江戸で助命のために動いたと伝わります。けれども、坂本龍馬を斬ったのは新選組だと考えていた土佐藩の者たちの怒りは強く、近藤は武士としての切腹ではなく、斬首と決まりました。
四月二十五日、板橋の刑場
慶応四年四月二十五日、近藤は板橋の刑場で斬首されました。享年三十五。処刑の際、近藤は相馬主計と野村利三郎の命を助けるよう願い、二人は救われています。首は京都へ送られて三条河原にさらされたのち、行方が分からなくなりました。そのため近藤の墓とされる場所は各地にあります(新選組の墓所めぐり)。
板橋駅前には、のちに永倉新八らが建てた近藤勇・土方歳三の供養塔が立っています。近藤勇の墓と板橋刑場跡(現地取材)で歩いています。
最後の百日を読み解く
近藤はなぜ出頭したのか
流山で新政府軍に囲まれたとき、近藤勇はなぜ戦わず、自ら出頭したのでしょうか。いくつかの見方があります。
一つは、隊士を逃がす時間を稼ぐためだったという見方です。流山の本陣には、このとき多くの隊士がいたわけではなく、周りの寺などに分かれていました。近藤が名を偽って出頭し、交渉を引き延ばすあいだに、土方歳三らは流山を離れています。もう一つは、「大久保大和」という旧幕臣として振る舞えば、切り抜けられると考えていたという見方です。江戸では勝海舟らの交渉によって、江戸城の明け渡しに向けた動きが進んでいるさなかで、戦いを避けることが旧幕府全体の方針でもありました。どちらか一つに決めることはできませんが、近藤の出頭は、隊を守ることと、旧幕府の方針に従うこととが重なったところで下された決断だったといえます。
切腹ではなく、斬首
正体が明らかになった近藤の扱いをめぐっては、新政府軍の中でも意見が分かれたと伝わります。薩摩藩の側には武士として遇するべきだという声もあったといわれますが、土佐藩の側は、坂本龍馬暗殺の疑いもあって厳しい処分を強く求めました。結局、近藤は切腹を許されず、罪人として斬首されています。
武士として死ぬことを許されなかった近藤の最期は、農民の出から幕臣にまでなった近藤の生涯を思うと、あまりにも重い結末でした。龍馬暗殺をめぐる疑いが近藤の処分にどう影を落としたかは、坂本龍馬暗殺と新選組で扱っています。
百日のあいだに失ったもの
| 慶応四年 | 失われた人・もの |
|---|---|
| 一月 | 鳥羽伏見で井上源三郎ら多くの隊士が戦死。京都の屯所を失う |
| 三月 | 甲州勝沼で敗れ、甲府城を押さえる望みを失う。永倉新八・原田左之助が隊を離れる |
| 四月 | 近藤勇が流山で出頭し、二十五日に板橋で斬首される |
| 五月 | 病の床にあった沖田総司が亡くなる。近藤の死は知らされていなかったと伝わる |
わずか五か月足らずのあいだに、試衛館以来の仲間のうち、近藤・沖田・井上が世を去り、永倉・原田が離れました。幹部として残った古参は、土方歳三と斎藤一のほかにはわずかでした。近藤の最後の百日は、試衛館の仲間たちで作った新選組が、その形を失っていく百日でもありました。
首と胴のゆくえ
近藤の首は京都へ送られ、三条河原にさらされました。その後のゆくえは分かっておらず、愛知県岡崎市の法蔵寺をはじめ、首を葬ったとされる場所がいくつも伝わります。胴体は、近藤の親族らが板橋の刑場からひそかに引き取り、生家に近い三鷹の龍源寺に葬ったと伝えられます。墓が各地にあるのは、首と胴が別々の道をたどったためです。各地の墓は新選組の墓所めぐりにまとめています。
この百日に関わった隊士
| 隊士 | この時期のこと |
|---|---|
| 土方歳三 | 「内藤隼人」と名乗り甲州へ。流山で近藤と別れ、宇都宮・会津・箱館へ |
| 永倉新八・原田左之助 | 勝沼の敗戦後に近藤と別れ、靖兵隊を結成 |
| 野村利三郎 | 流山で近藤に付き添って出頭。近藤の願いで命を救われ、のちに宮古湾で戦死 |
| 相馬主計 | 板橋で助命を嘆願し、捕らえられる。近藤の願いで命を救われ、のちに新選組最後の隊長に |
| 加納鷲雄 | 元御陵衛士。板橋で近藤の正体を見破ったとされる |
| 中島登 | 流山での出頭に立ち会う。のちに『戦友姿絵』を残す |
| 松本捨助 | 土方の縁者。勝沼で戦う |
訪ねるなら
- 流山(千葉県流山市):近藤勇陣屋跡の碑があります。毎年四月には「流山新選組まつり」も開かれます。流山陣屋跡もどうぞ。
- 勝沼・柏尾(山梨県甲州市):甲陽鎮撫隊が敗れた柏尾の古戦場。近藤勇の像も立っています。
- 板橋(東京都北区・JR板橋駅前):近藤勇・土方歳三の供養塔。
- 日野(東京都日野市):甲州街道の日野宿。佐藤彦五郎新選組資料館などがあります。
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参考にした資料:永倉新八『新撰組顛末記』、子母澤寛『新選組始末記』、新選組研究の諸資料。日付や細部には諸説があります。

