白凰丸【薩摩藩 輸送船 幕末軍艦】

白凰丸
藩名 薩摩藩
藩主 島津忠義(茂久)
船種 輸送船
機関 蒸気内車
備砲 0門
材質 鉄製
馬力 120馬力
写真 絵図
白凰丸のイメージイラスト
白凰丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(輸送船・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

1863年3月購入しました。原名「コンテスト」。

薩英戦争でイギリス艦隊に依って拿捕・焼却されます。

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薩摩藩が持っていた艦船

一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている薩摩藩の艦船は十六隻で、内訳は輸送船が十一隻、砲艦・軍艦が四隻、その他が一隻です。

数のうえで中心になっているのは、戦うための砲艦ではなく人と物を運ぶ船です。幕末の海軍は、兵を運び、米を運び、使者を運ぶ仕事から始まっていました。

大久保は、藩主の父・島津久光に取り入って藩政の実権を握り、当初は公武合体を進めましたが、やがて武力討幕へと転換します。緻密な政治力で王政復古のクーデターを成功に導き、維新後は内務卿として新国家の骨格を築きました。白凰丸は、その大久保を生んだ薩摩の一隻です。

この拿捕が、薩英戦争の口火でした

文久三年七月二日(1863年8月15日)の夜明け前、鹿児島湾に入っていたイギリス艦隊は、重富の脇元浦に停泊していた薩摩藩の汽船三隻を捕らえ、桜島の小池沖へ曳いていきました。白凰丸を曳いたのはコケットという砲艦です。薩摩側の砲台が撃ち始めたのはその日の正午でしたから、この拿捕こそが戦端を開く出来事でした。艦隊司令のキューパーは砲撃が始まると三隻を焼き払うよう命じ、分捕り品の賞金が消えるとしてイギリスの水兵が不満を漏らした、という記録も残っています。

焼かれた三隻

失われたのは、天佑丸(原名イングランド)、白凰丸(原名コンテスト)、青鷹丸(原名サー・ジョージ・グレイ)の三隻です。イギリス側はこの損害を二十万ポンド、あるいは積荷を除いて三十万ドルと見積もっていました。薩摩藩が文久三年に買った船は白凰丸・青鷹丸・安行丸の三隻で合わせて二十五万五千ドルでしたので、買ったばかりの船を同じ年のうちに二隻とも失った勘定になります。のちに船体からは蒸気機関が引き上げられたという記述もあります。

白鳳丸とも書かれます

この船の名は資料によって「白凰丸」とも「白鳳丸」とも書かれます。鹿児島県立図書館の回答や桐野作人氏の著書は白凰、いっぽう広く流通しているのは白鳳で、どちらか一方が誤りとは言えません。原名がコンテストであることは日本とイギリスの資料が揃って認めていますが、建造国はアメリカとする記述とイギリスとする記述に分かれ、建造年も造船所もトン数もわかっていません。

翌年には四隻を買い直しました

三隻を焼かれた薩摩藩は、翌元治元年に平運丸、胡蝶丸、翔凰丸、乾行丸の四隻を合わせて二十八万五千ドルで買い入れています。失った分を上回る立て直しの速さでした。なお講和で薩摩が支払った二万五千ポンドは、幕府から六万三百両を借りて用立てたものです。

白凰丸を船の型と持ち主から読む

白凰丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。

当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この白凰丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、春日丸(仮装軍艦)、開聞丸(輸送船)、永平丸(輸送船)、雲行丸(輸送船)、安行丸(伊呂波丸と同一船)(輸送船)、三邦丸(蒸気内輪船)、万年丸(仮装軍艦)、豊瑞丸(輸送船)などがあります。

持ち主の薩摩藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。白凰丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の薩摩藩—生麦事件

生麦事件

白凰丸が薩摩藩の船となった文久三年(1863)の前年、文久二年(1862)八月二十一日、江戸から帰る島津久光の行列を、横浜近くの生麦村で横切ったイギリス人の一行を、薩摩藩士が斬りつけました。一人が亡くなり、二人が傷を負います。生麦事件です。

薩英戦争へ

イギリスは幕府と薩摩藩に賠償と犯人の処罰を求めましたが、薩摩藩はこれに応じませんでした。翌文久三年七月、イギリス艦隊は鹿児島湾に入り、薩英戦争が起きます。このとき薩摩藩の蒸気船はイギリス艦隊に奪われ、焼かれました。

沈んだあと—機関だけが引き揚げられました

焼かれた三隻は桜島の沖に沈み、しばらくのあいだマストが水面から突き出していたと伝えられます。三隻とは天佑丸・白凰丸・青鷹丸です。

その後を鹿児島県立図書館が調べた記録が、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに残っています。船体を引き揚げたという記録は見つかりませんでした。見つかったのは、英国側の錨を引き揚げたのと同じころに三隻からも蒸気機関が引き揚げられた、という記述だけです。時期は「この頃」とあるのみで特定できません。この事例は未解決のまま残されています。

令和七年二月には民間の有志が桜島沖でソナーと水中ドローンによる捜索を行いましたが、船体は見つかっていません。大正三年の噴火の火山灰に埋もれている可能性が指摘されています。公的機関の調査ではないので、結果は慎重に見る必要があります。

焼いた主体についても資料が割れています。多くは「英国艦隊が焼いた」としますが、薩摩側が自ら火を放ったとする記述もあります。

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