| 竜田丸 | |||
| 藩名 | 薩摩藩 | ||
| 藩主 | 島津忠義(茂久) | ||
| 船種 | バーク級輸送船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||

1855年アメリカ・ボストンに建造され、原名は「ハントルス」。
1865年6月に薩摩藩が1万9千ドルで購入しました。
この船については、裏づけが見つかりませんでした
当サイトは竜田丸を、1855年にアメリカのボストンで造られた原名ハントルスの帆船で、慶応元年六月に一万九千ドルで買ったと書いています。ところが、この記述を裏づける資料を見つけられませんでした。同じころのボストンで造られたハントルスという船も、薩摩藩が慶応元年六月に船を買ったという記録も、確かめられていません。誤っていると断ずるだけの材料もありませんので、書いてある内容はそのままに、裏が取れていないことだけをここに記しておきます。
薩摩藩が船を買い進めていた時期にあたります
竜田丸を買ったとされる慶応元年は、薩摩藩にとって船を増やしていた最中でした。文久三年の薩英戦争で白鳳丸ら汽船三隻を焼かれたあと、元治元年には平運丸・胡蝶丸・翔凰丸・乾行丸の四隻をまとめて買い、慶応元年には十九名をイギリスへ送り出しています。この留学の目的には艦船を買い付ける手はずを整えることも入っており、紡績の機械や武器の買い付けと並んでいました。撃ち合った相手から船を買うという道筋が、このころ定まります。
バークとは、どんな帆船でしょうか
竜田丸の船種は「バーク級輸送船」、機関は帆走です。蒸気船が並ぶ幕末の艦船一覧のなかで、こういう純粋な帆船も少なくありません。
洋式帆船は帆の張り方で呼び分けます。マストのすべてに横帆を張るものがシップ、全装帆船です。横帆というのはヤードという横棒に張る帆で、風を後ろから受けて走るのに向きます。これに対して縦帆は、棒を船の中心線に沿って置いて張る帆で、風上へ切り上がるのに強い。二本以上のマストに縦帆を張るものがスクーナーです。バークやブリックは、その中間にあたる張り方をします。
ただし、バークとブリックの厳密な定義については、博物館や大学の資料で確かめられる説明を見つけられませんでした。幕末の日本語の資料でも、この区別はかなり乱れています。勝海舟の『海軍歴史』が福井藩の富有丸を「スクネルブリク」と記していることについて、福井県文書館の研究紀要は、スクーナーは縦帆、ブリックは横帆で「一般的には両立するものではない」と指摘しています。
「二本檣」の数え方にも罠があります
同じ紀要は、もっと具体的な誤りも見つけています。福井藩の一番丸を旧県史が「二本檣コツトル船」と記しているものの、実際は一本マストの船でした。原因は起工の伺いにある「直立檣一本、遣出し檣一本」という記述で、船首から斜めに突き出す斜檣を、マストとして一本に数えてしまったのです。
幕末の船の資料で「二本檣」と書かれていたら、そこに斜檣が混じっていないかを疑ってみる余地がある、ということになります。トン数も同じで、当時の「トン」は基準が一定せず、同じ船が資料によって二百七トンとも二百四十トンとも書かれています。
竜田丸のように帆走の船が輸送に使われ続けたのは、蒸気船が高価で石炭も要ったからです。竜田丸の購入額とされる一万九千ドルは、同じ薩摩藩が万延元年に天佑丸に払った十二万八千ドルの七分の一ほどにあたります。帆船なら一万ドル台、蒸気船なら十万ドル台という当時の相場が、そのまま出ている数字です。
竜田丸を船の型と持ち主から読む
竜田丸は蒸気機関を持たない帆船で、風の力だけで海を渡りました。(帆船と蒸気船の違い)船種は「バーク級輸送船」。後ろのマストだけに縦帆を張る3本マストの「バーク型」の帆装を持つ人や荷を運ぶ輸送船です(帆の張り方・軍艦の格)。
当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この竜田丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、青鷹丸(輸送船)、翔凰丸(仮装軍艦)、胡蝶丸(輸送船)、乾行丸(バーク級砲艦)、春日丸(仮装軍艦)、開聞丸(輸送船)、永平丸(輸送船)、雲行丸(輸送船)などがあります。
持ち主の薩摩藩—篤姫の輿入れ
島津家から将軍家へ
竜田丸がボストンで造られたとされる安政二年(1855)ごろ、島津斉彬は一族の娘・篤姫を養女とし、将軍徳川家定のもとへ嫁がせる準備を進めていました。篤姫は安政三年(1856)に江戸城に入り、家定の正室となります。斉彬には、将軍の跡継ぎに一橋慶喜を立てる狙いがあったともいわれます。
その後の篤姫
家定は安政五年に亡くなり、篤姫は出家して天璋院と名のりました。戊辰戦争で新政府軍が江戸に迫ったとき、天璋院は実家の薩摩に徳川家の存続を願う手紙を送っています。薩摩藩の船が増えていった時代は、薩摩と将軍家が最も近かった時代でもありました。
この時期に薩摩藩の船の調達を担っていた人物については「五代友厚(五代才助)とは何をした人物か」で扱っています。



