| 安行丸 | |||
| 藩名 | 薩摩藩 | ||
| 藩主 | 島津忠義(茂久) | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 45馬力 | ||
| 写真 | スケッチ | ||

1863年9月に薩摩藩がグラバーより購入した船で原名は「サーラ」。
1862年、イギリスのグリーノックで建造された全長54m、45馬力、160トンの鉄製式スクリュー蒸気船です。
文久三年九月三日、薩摩藩が長崎でグラバーより購入し「安行丸」と命名したが、慶応元年にボードインに売却しました。その後、慶応三年、坂本龍馬の薦めで大洲藩が7万ドルで購入し、海援隊に貸し出しました。
同年、長崎から大坂への航行中に紀州藩船「明光丸」と衝突して沈没しました。
いろは丸のページと、同じ船です
当サイトには伊呂波丸(いろは丸)のページがあり、そちらが大洲藩の船としてこの船のその後を書いています。原名がサーラであること、薩摩藩がグラバーから買ってボードインへ売ったこと、大洲藩が坂本龍馬の仲立ちで手に入れたことが、両方のページで一致します。同じ一隻を持ち主ごとに二つのページで扱っている形ですので、相互に注記しておきます。
建造地が食い違います
このページはイギリスのグリーノックで造られたとし、いろは丸のページはバーミンガムとしています。バーミンガムはイングランドの内陸にある町で海に面しておらず、大きな船を造って送り出す場所ではありません。いっぽうグリーノックはスコットランドのクライド川の河口にある町で、十九世紀には造船で知られました。どちらが正しいとまでは確認できませんが、グリーノックのほうが、船の生まれた土地としては筋が通ります。
沈んだ日について
いろは丸が明光丸とぶつかって沈んだのは慶応三年四月二十三日の夜で、これを新暦に直すと1867年5月26日にあたります。いろは丸のページが「五月二十六日に衝突」としているのは新暦での書き方で、和暦の四月二十三日と同じ日を指しています。和暦と新暦が混ざると別の日のように見えますので、ここに書き添えておきます。
安行丸(伊呂波丸と同一船)を船の型と持ち主から読む
安行丸(伊呂波丸と同一船)の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。
当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この安行丸(伊呂波丸と同一船)を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、平運丸(ブリッグ級輸送船)、白凰丸(輸送船)、天佑丸(輸送船)、竜田丸(バーク級輸送船)、青鷹丸(輸送船)、翔凰丸(仮装軍艦)、胡蝶丸(輸送船)、乾行丸(バーク級砲艦)などがあります。
持ち主の薩摩藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。安行丸(伊呂波丸と同一船)も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
持ち主の薩摩藩—八月十八日の政変
薩摩と会津
安行丸が薩摩藩の船となる直前、文久三年(1863)の八月十八日、京都では薩摩藩と会津藩が手を組み、朝廷から長州藩と攘夷派の公家を追い出しました。この政変で、三条実美ら七人の公家が長州へ落ちていきます。
その後の薩摩
七月の薩英戦争で攘夷の無理を悟った薩摩藩は、この政変で公武合体の立場をはっきりさせました。しかし数年後には、その会津と敵対し、長州と手を結ぶことになります。文久三年は、薩摩藩が大きな進路の転換を繰り返した年の始まりでもありました。
愛媛県史が書いている数字
この船が大洲藩の船だった時期については、愛媛県が公開している『愛媛県史 近世 下』に、かなり具体的な記述があります。
買ったのは大洲藩の国島六左衛門で、薩摩藩士の五代才助が斡旋し、オランダ人のボードインから手に入れました。価格は三万両とも四万二千五百両とも伝えられるとしており、県史の段階でも一本に絞れていません。全長三十間、幅三間。そして国島は同じ年の十二月、長崎で謎の自殺を遂げています。
土佐藩への貸し出しの条件も残っています。「大坂への一航海十五日間、貸与料五百両の約束で土佐藩に貸し出された」。つまり借り手は土佐藩で、運用したのが海援隊でした。「海援隊が借りた」という言い方は、一段省略した書き方になります。
賠償額は、八万三千両から七万両へ
衝突のあとの交渉について、県史は賠償金八万三千両を約し、再交渉で七万両で妥協したと記します。相手の和歌山藩明光丸は八百八十七トン、百五十馬力の鉄船でした。百六十トンの船と八百八十七トンの船がぶつかれば、どちらが沈むかは明らかです。
衝突の時刻と場所も資料で分かれます。県史は四月二十三日の午後十時、讃岐箱の岬沖とし、別の記述は午後十一時ごろに備中六島付近で衝突して備後宇治島沖で沈んだとします。夜の海で、どこで当たってどこまで曳いて沈んだかという話ですから、記録が一致しないのも無理のないところです。



