三邦丸【薩摩藩 蒸気内輪船 幕末軍艦】

三邦丸
藩名 薩摩藩
藩主 島津忠義(茂久)
船種 蒸気内輪船
機関 蒸気船
備砲 0門
材質 鉄製
馬力 110馬力
写真

■ 詳細
薩摩藩の鉄製蒸気内輪船で「坂本龍馬」と「お龍」が新婚旅行で鹿児島に行くときに乗った船として有名です。原名を「ゼラール」といい、文久2年(1862)、イギリスのリクエブールで建造されました。長さ29間半(約53.1m)幅3間4尺(約6.6m)、深さ1間1尺(約2.1m)。

110馬力の410トン。慶応元年(1865年)10月29日、長崎にて薩摩藩が8万ドルで購入しました。慶応3年(1867年)8月1日、越前の「松平春嶽」から土佐の山内容堂に託された書状を持って、三邦丸の佐々木三四郎へ届けた坂本龍馬は、船中で「後藤象二郎」と談合中に三邦丸が兵庫を出帆してしまい、やむなく土佐藩の「佐々木三四郎」に同行することになります。

翌8月2日、土佐の須崎港に投錨したあと「山内容堂」に謁見したと伝わります。

目次

所属した薩摩藩と幕末の動き

この汽船・三邦丸を保有したのは、薩摩藩(島津家)です。薩摩藩は幕末、日本でもっとも早く近代化に踏み出した雄藩の一つで、こうした洋式汽船を多数そろえて海の力を蓄えました。

その礎を築いたのが、名君・島津斉彬です。斉彬は集成館と呼ばれる工場群を興し、反射炉や造船、紡績などの洋式産業を推し進めました。斉彬の死後も、五代友厚らが長崎の商人グラバーと結んで艦船や武器を購入し、若い藩士をイギリスへ留学させます。やがて薩摩は西郷隆盛・大久保利通を中心に、長州と結んで討幕へと突き進み、明治維新の主役となりました。三邦丸は、薩摩藩の海軍力の一端を担った船です。

三邦丸をもっと深く——龍馬とお龍が乗った、鉄の船

日本で最初の新婚旅行とよく言われる、坂本龍馬とお龍の鹿児島行き。そのとき二人が乗ったのが、この三邦丸です。

建造 イギリス(1862年)
旧名 ゼラール
購入 慶応元年10月29日、長崎で薩摩藩
購入価格 80,000ドル
トン数 410トン
推進 蒸気外輪
出力 110馬力
備砲 なし
船体 鉄製

備砲ゼロの「軍艦」

要目を見ると、この船には大砲が一門も載っていません。軍艦ではなく、人と荷を運ぶための船です。薩摩藩が八万ドルを出して買ったのは、戦うためではなく動くためでした。

幕末の藩が持った船の多くはこの性格を帯びています。順動丸も備砲一〜二門の高速御用船でした。海戦をする船より、人と物を速く運ぶ船のほうが、実際には政局を動かしています。

寺田屋のあとの傷を癒やしに

慶応二年、寺田屋で襲われて手に深い傷を負った龍馬は、西郷隆盛の勧めで薩摩へ向かいました。お龍を伴っての鹿児島行きです。霧島の温泉に浸かり、高千穂峰に登りました。

その道中の船がこの三邦丸でした。鉄製で、外輪で、大砲を積んでいない船。薩摩と土佐藩脱藩浪士のあいだにどれだけの信頼ができていたかが、この一事に出ています。翌年には薩長同盟が動き出します。

もう一つ逸話があります。慶応三年八月一日、龍馬が書状を届ける用でこの船に乗ろうとしたところ、すでに兵庫を出帆したあとでした。その三か月後、龍馬は京都で暗殺されます。

最期は分からない

三邦丸がその後どうなったのかは、資料で確認できません。春日丸のように明治の海軍で長く働いた薩摩の船もあれば、この船のように記録が途切れるものもあります。

坂本龍馬とお龍を乗せた船が、いつどこで解かれたのか分からません。幕末の艦船の記録とは、だいたいこの程度のものです。

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