永平丸【薩摩藩 輸送船 幕末軍艦】

永平丸
藩名 薩摩藩
藩主 島津忠義(茂久)
船種 輸送船
機関 蒸気内車
備砲 0門
材質 鉄製
馬力 300馬力
写真 無
永平丸のイメージイラスト
永平丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(輸送船・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

島津久光が江戸での滞在中「小松帯刀」に指示して、イギリスのマセソン商会から蒸気船ヒェリイークロス号(440トン)を購入し「永平丸」と命名しました。久光はこの最新の蒸気船で国へ帰ろうと考えていたようです。

その後、永平丸は播磨国の垂水沖で暗礁に乗り上げて沈没しました。

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薩摩藩が持っていた艦船

一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている薩摩藩の艦船は十六隻で、内訳は輸送船が十一隻、砲艦・軍艦が四隻、その他が一隻です。

数のうえで中心になっているのは、戦うための砲艦ではなく人と物を運ぶ船です。幕末の海軍は、兵を運び、米を運び、使者を運ぶ仕事から始まっていました。

元治元年(1864)の禁門の変では、薩摩藩は会津藩と組んで、御所へ攻め上る長州藩を撃退しました。この時点では両藩は対立関係にありましたが、わずか二年後、坂本龍馬らの周旋で薩長同盟が結ばれ、討幕へと手を結びます。敵から盟友への劇的な転換の起点が、この戦いでした。永平丸は、その薩摩の一隻です。

この船で帰るはずが、陸路を選んで生麦事件が起きました

島津久光が江戸にいたのは文久二年の六月七日から八月二十一日までです。勅使の大原重徳に付き従って江戸へ下り、一橋慶喜の将軍後見職と松平春嶽の政事総裁職を実現させて引き上げました。この記事は、久光がこの最新の蒸気船で国へ帰ろうと考えていたと伝えています。ところが実際には東海道を陸路で戻り、江戸を発ったその日、武蔵国橘樹郡の生麦村でイギリス人が斬られました。生麦事件です。そしてその一年後に薩英戦争が起こり、薩摩藩は白凰丸ら汽船三隻を焼かれることになります。

小松帯刀は、蒸気船掛でした

この記事が購入を指示された人として挙げる小松帯刀は、天保六年十月十四日の生まれで、文久元年五月に久光の側役へ抜擢され、文久二年には家老となって、御軍役掛とともに蒸気船掛を兼ねていました。船を買う役目にあったことは確かです。ただし小松と永平丸を直接結びつける資料は見つかりませんでした。

要目と最期について

研究者のまとめた表は、薩摩藩が文久二年に永平丸を十三万ドルで得たとし、四百四十七トンの鉄製で機関は内車としています。四百四十トンとする記述とは七トンの違いです。いっぽう原名の「ヒェリイークロス」については、綴りは見つかっていません。同じころ有名だったファイアリー・クロスという船は六百九十五トンの帆走のクリッパーで、要目が合いません。垂水沖で沈んだという最期についても、その日取りも、垂水が播磨なのか大隅なのかも、分かりませんでした。

永平丸を船の型と持ち主から読む

永平丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。

当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この永平丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、三邦丸(蒸気内輪船)、万年丸(仮装軍艦)、豊瑞丸(輸送船)、平運丸(ブリッグ級輸送船)、白凰丸(輸送船)、天佑丸(輸送船)、竜田丸(バーク級輸送船)、青鷹丸(輸送船)などがあります。

持ち主の薩摩藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。永平丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の薩摩藩—西郷と大久保を生んだ町

下加治屋町

薩摩藩の幕末を動かした西郷隆盛と大久保利通は、ともに鹿児島の城下の下加治屋町という下級武士の町で生まれ育ちました。薩摩には「郷中(ごじゅう)」と呼ばれる若者の教育の仕組みがあり、二人は同じ郷中の先輩と後輩として学び合いました。この町からは、ほかにも東郷平八郎や大山巌らが出ています。

藩を動かした下級武士

西郷も大久保も、もとは身分の高い家の出ではありません。斉彬に見いだされた西郷、久光のもとで頭角を現した大久保。下級武士たちが藩を動かし、さらに国を動かしていくところに、薩摩藩の幕末の特徴がありました。

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