| 乾行丸 | |||
| 藩名 | 薩摩藩 | ||
| 藩主 | 島津忠義(茂久) | ||
| 船種 | バーク級砲艦 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 6門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 130馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

元イギリス海軍のアロー級砲艦ビーグルが民間に売却されストークとなったものを薩摩藩が元治元年五月(1864年)に購入し、長崎で受領し「乾行丸」と命名されました。戊辰戦争では寺泊沖海戦に参加し、旧幕府輸送艦「順動丸」を自沈に追い込みました。
明治三年(1870年)には新政府へ献納され、兵部省所管とし「乾行」と改名します。その後故障が多い為機関が撤去され、係泊練習艦として使用されました。
ダーウィンのビーグル号とは、別の船です
この船のもとの名がビーグルだったと聞くと、進化論のダーウィンが乗った船を思い浮かべたくなりますが、別の船です。ダーウィンのビーグル号は1820年に進水したチェロキー級の帆船で、こちらは1854年7月20日にロンドンのリームアウスで進水したアロー級のスクリュー砲艦でした。三十年以上あとに造られた同名の別艦です。全長は百六十フィート、幅二十五フィート、排水量五百八十六トン。イギリス海軍は1863年7月16日にこの船を香港で売り払っており、その先が日本の乾行丸でした。
寺泊の沖で、順動丸を沈めました
慶応四年五月二十四日の朝七時ごろ、越後の寺泊の沖で、乾行丸は長州藩の第一丁卯丸、福岡藩の大鵬丸とともに旧幕府の輸送船・順動丸を捕らえにかかりました。乾行丸が前を塞ぎ、第一丁卯丸が後ろへ回り込んで撃ちます。順動丸も撃ち返しましたが当たらず、傷ついて浜に乗り上げました。乗っていた会津藩士の一柳幾馬や雑賀孫六郎ら百五十人ほどは船を捨てて陸へ上がり、翌二十五日の午後二時ごろ、船に積まれていた弾薬が爆発して順動丸は沈みます。火元は分からず、敵に捕られるのを避けるための自爆とみられています。乾行丸に乗っていたのは船将の北郷久信でした。
外輪の軸が、いまも寺泊に残ります
沈んだ順動丸の外輪を回していた軸が、長さ四メートル三十センチのまま寺泊に残っていて、長岡市の文化財に指定されています。近年、大学と組んで糖類を使った脱塩と錆止めの処理が施されました。順動丸は文久二年に十五万ドルで買われた四百五トンの外輪蒸気船で、将軍徳川家茂の視察にも使われ、長岡藩主の牧野忠訓や河井継之助、坂本龍馬、勝海舟も乗ったと長岡市は伝えています。撃った側の船の話と、撃たれた側の軸が残っているという話が、こうして一つにつながります。
献納の日取りについて
明治三年四月に新政府へ献納されたとする説明がありますが、事典の類は明治三年六月十三日に品川湊で兵部省が受け取ったとしています。機関を外して練習艦になったのは明治五年から翌年にかけてで、明治十四年九月十二日に除籍、明治二十二年三月に三千二百七十六円で売られました。イギリスで生まれてから三十五年目のことです。
乾行丸を船の型と持ち主から読む
乾行丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「バーク級砲艦」。後ろのマストだけに縦帆を張る3本マストの「バーク型」の帆装を持つ沿岸を守る小型の砲艦です(帆の張り方・軍艦の格)。
当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この乾行丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、雲行丸(輸送船)、安行丸(伊呂波丸と同一船)(輸送船)、三邦丸(蒸気内輪船)、万年丸(仮装軍艦)、豊瑞丸(輸送船)、平運丸(ブリッグ級輸送船)、白凰丸(輸送船)、天佑丸(輸送船)などがあります。
持ち主の薩摩藩—琉球との交易
琉球と薩摩
薩摩藩は江戸時代のはじめから琉球王国を支配下に置き、琉球を通じた中国との交易で大きな利益を得てきました。幕末には、琉球に来航するフランスやイギリスの船とのやりとりも薩摩藩の大きな仕事となり、斉彬は琉球を通じて西洋の情報や品物を集めようとしました。
海の藩
南の海に開かれた薩摩藩にとって、船は藩の生命線でした。乾行丸のような洋式の船は、鹿児島と琉球、長崎、大坂を結ぶ海の道で、藩の交易と軍事を支えていたのです。
乾行が第一丁卯とともに順動丸を攻めた寺泊沖海戦は、こちらで解説しています。
寺泊沖海戦とは?順動丸が沈み、新政府軍が越後の海を押さえた北越戦争の海戦を図解でわかりやすく



