青鷹丸【薩摩藩 輸送船 幕末軍艦】

青鷹丸
藩名 薩摩藩
藩主 島津忠義(茂久)
船種 輸送船
機関 蒸気
備砲 0門
材質 鉄製
馬力 96馬力
写真 無
青鷹丸のイメージイラスト
青鷹丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(輸送船・蒸気)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

文久三年(1863年)四月に長崎で薩摩藩が買った蒸気船です。

薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃にあい拿捕・焼却されます。

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薩摩藩が持っていた艦船

一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている薩摩藩の艦船は十六隻で、内訳は輸送船が十一隻、砲艦・軍艦が四隻、その他が一隻です。

数のうえで中心になっているのは、戦うための砲艦ではなく人と物を運ぶ船です。幕末の海軍は、兵を運び、米を運び、使者を運ぶ仕事から始まっていました。

文久二年(1862)、江戸からの帰路にあった島津久光の行列を横切ったイギリス人が、薩摩藩士に斬られ死傷しました。この事件はイギリスの強い反発を招き、翌年の薩英戦争へとつながります。攘夷の空気のなかで起きた衝突が、皮肉にも薩摩を開国・近代化へと向かわせました。青鷹丸は、その転機の薩摩の一隻です。

船長は、のちの寺島宗則でした

この船の船長をつとめていたのは松木弘庵、のちの寺島宗則です。文久三年七月二日の未明にイギリス艦アーガスに曳かれて捕らえられ、そのまま捕虜になりました。同じとき、天佑丸に船奉行添役として乗っていた五代才助(五代友厚)も捕らえられています。二人は八月二十四日の夜、艦隊が横浜へ戻るのに合わせて神奈川の岸へ上げられました。もっともイギリス側の同時代の記録は、捕らえた二人をどちらもサー・ジョージ・グレイすなわち青鷹丸から出したとしており、五代が天佑丸にいたという日本側の記述と食い違っています。

捕虜になったことが、あとで重荷になりました

五代はこのあと、敵に捕らえられたということが国元で悪く言われ、しばらく帰藩できずに潜伏する日々を送りました。許されたのは、長崎で出会った薩摩藩士の野村盛秀が取りなしてからです。いっぽう寺島は、慶応元年にイギリスへ渡った薩摩藩の留学生一行に加わり、イギリス外務省との交渉にあたりました。撃ち合った相手の国へ、二年後には藩の使者として渡ったことになります。

ドイツ建造という記述には、裏づけが見あたりません

青鷹丸をドイツで建造されたとする説明がありますが、原名のサー・ジョージ・グレイはイギリスの政治家の名で、英語圏の資料は捕らえられた三隻をいずれもイギリスで造られた商用の蒸気船としています。ドイツ建造とする記述はほかに見あたりませんでしたので、そのまま受け取らないほうがよさそうです。大久保利謙氏の著書は、この船が文久三年四月二十三日に鹿児島へ回航されて青鷹丸と名づけられたと記しており、購入の時期についてはこれが手がかりになります。読み方を示した資料は、見つかりませんでした。

青鷹丸を船の型と持ち主から読む

青鷹丸は蒸気機関を積んだ船ですが、外輪かスクリューかを伝える記録は見つかっていません(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。

当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この青鷹丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、白凰丸(輸送船)、天佑丸(輸送船)、竜田丸(バーク級輸送船)、翔凰丸(仮装軍艦)、胡蝶丸(輸送船)、乾行丸(バーク級砲艦)、春日丸(仮装軍艦)、開聞丸(輸送船)などがあります。

持ち主の薩摩藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。青鷹丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の薩摩藩—薩英戦争の講和

戦いのあとで

文久三年(1863)七月の薩英戦争で、薩摩藩は鹿児島の城下を焼かれ、蒸気船を失いました。一方のイギリス艦隊も旗艦の艦長が戦死するなど大きな損害を受けます。この年の十一月、薩摩藩は横浜でイギリスと話し合い、賠償金を支払うことで講和しました。その金は幕府から借りたものでしたが、のちに返されることはなかったと伝えられます。

近づく両者

この戦いをきっかけに、薩摩藩は攘夷の無理を悟り、むしろイギリスと手を結んで軍備を整える道を選びました。イギリスもまた、薩摩の実力を認めるようになります。青鷹丸を失った戦いは、薩摩とイギリスが近づく出発点にもなったのです。

沈んだあと—機関だけが引き揚げられました

焼かれた三隻は桜島の沖に沈み、しばらくのあいだマストが水面から突き出していたと伝えられます。三隻とは天佑丸・白凰丸・青鷹丸です。

その後を鹿児島県立図書館が調べた記録が、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに残っています。船体を引き揚げたという記録は見つかりませんでした。見つかったのは、英国側の錨を引き揚げたのと同じころに三隻からも蒸気機関が引き揚げられた、という記述だけです。時期は「この頃」とあるのみで特定できません。この事例は未解決のまま残されています。

令和七年二月には民間の有志が桜島沖でソナーと水中ドローンによる捜索を行いましたが、船体は見つかっていません。大正三年の噴火の火山灰に埋もれている可能性が指摘されています。公的機関の調査ではないので、結果は慎重に見る必要があります。

焼いた主体についても資料が割れています。多くは「英国艦隊が焼いた」としますが、薩摩側が自ら火を放ったとする記述もあります。

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