| 万年丸 | |||
| 藩名 | 薩摩藩 | ||
| 藩主 | 島津忠義(茂久) | ||
| 船種 | 仮装軍艦 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 4門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 80馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||

1864年にイギリスのラナルクシルで建造されました。原名「キンリン」。1865年9月17日、7万5千ドルで薩摩藩が購入しました。本来の用途は輸送船であったが新造艦で性能が良好だったので武装して仮装軍艦として使用されました。翌年五月には安芸広島藩に売却となりました。
鳥羽伏見の戦い前の長州藩兵の輸送には芸州藩が協力しており、この万年丸が使われました。慶応四年に柏崎で暴風に遭って沈んだとも伝わりますが、明治元年十二月にジャーディン・マセソン商会が引き取ったとする記録もあり、行方ははっきりしません。
本邦初の観艦式に、安芸藩の艦として並びました
広島藩へ売られたあと、この船は明治元年三月二十六日、大阪の天保山沖で明治天皇がご覧になった観艦式に、安芸藩の万年丸として並んでいます。防衛省防衛研究所の論考がわが国で最初の観艦式とするもので、ほかに佐賀藩の電流丸、肥後藩の万里丸、久留米藩の千歳丸、薩摩藩の三邦丸、長州藩の小芙蓉丸(華陽丸)が加わった六隻でした。薩摩藩が買って二年半ののち、売った先の藩の艦として天保山沖に並んだことになります。
柏崎で沈みました
柏崎での最期は、戊辰戦争のさなかの慶応四年のことです。奇しくも、同じ観艦式に並んだ久留米藩の千歳丸も、のちに青龍丸と名を改めたうえで、大正二年に同じ柏崎の浜で座礁して沈んでいます。
最期の記録が、二つに分かれています
万年丸の最期を「慶応四年、戊辰戦争中の柏崎で暴風に遭い沈没」とする説明がありますが、この点は裏が取れませんでした。万年丸の行方については、明治元年十二月(1869年1月)にジャーディン・マセソン商会が引き取ったとする記録があり、慶応四年のうちに沈んだという話とは両立しません。
気になるのは、柏崎で沈んだ船がもう一隻あることです。同じ天保山沖の叡覧に並んだ久留米藩の千歳丸は、のちに青龍丸と改名され、大正二年三月十六日の未明、柏崎港の天屋下浜の浅瀬で座礁して二十三日に沈みました。柏崎という土地と沈没という出来事が、どこかで結びついてしまった可能性は否定できません。断ずる材料もないので、ここでは両方を書き残しておきます。
買った値も、売った値も分かります
購入価格は十万ドルとする記述と七万五千ドルとする記述があり、一定しません。一方、広島藩へ売った値のほうは金五万両と伝わり、売却は慶応二年六月十一日(1866年7月22日)とされます。買ってから一年足らずで手放したことになります。
要目は二百七十トン、八十馬力、大砲四門の鉄製スクリュー蒸気船。建造は1864年のイギリスとされますが、造船所の名は見つかっていません。購入も「慶応元年十月」までは分かるものの、日付までは特定できていません。
叡覧のときは「観艦式」と呼ばれていません
この船が並んだ明治元年三月二十六日の行事は、のちに日本最初の観艦式とされるものですが、当時そう呼ばれていたわけではありません。防衛省防衛研究所の論考は、当時の言い方が「叡覧」「天覧」であったことをはっきり書いています。一次史料の名も「天保山海軍叡覧」です。
明治天皇は艦上ではなく、天保山の陸から親閲されました。並んだのは電流丸(肥前藩)、万里丸(肥後藩)、千歳丸(久留米藩)、三邦丸(薩摩藩)、華陽丸(長州藩)、そして万年丸(芸州藩)の六隻で、総トン数は二千四百五十二噸と記録されています。六隻合わせても、のちの戦艦一隻に及ばない数字です。
万年丸を船の型と持ち主から読む
万年丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「仮装軍艦」。商船に大砲を積んだ仮装軍艦です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。
当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この万年丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、豊瑞丸(輸送船)、平運丸(ブリッグ級輸送船)、白凰丸(輸送船)、天佑丸(輸送船)、竜田丸(バーク級輸送船)、青鷹丸(輸送船)、翔凰丸(仮装軍艦)、胡蝶丸(輸送船)などがあります。
持ち主の薩摩藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。万年丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
持ち主の薩摩藩—禁門の変
元治元年の薩摩
万年丸が薩摩藩の船となる前の年、元治元年(1864)七月、京都では禁門の変が起きました。御所に攻め込んだ長州軍を、会津藩とともに撃退したのが薩摩藩です。西郷隆盛はこのとき薩摩藩の兵を率いて戦い、その名を広く知られるようになりました。
その後の変化
この戦いで薩摩と長州は敵どうしとなり、長州の人々は薩摩を「薩賊」と呼んで憎みました。しかしわずか一年半後、両藩は龍馬らの仲立ちで同盟を結ぶことになります。元治元年は、薩摩と長州の関係がもっとも冷え込んだ年でした。



