平運丸【薩摩藩 ブリッグ級輸送船 幕末軍艦】

平運丸
藩名 薩摩藩
藩主 島津忠義(茂久)
船種 ブリッグ級輸送船
機関 蒸気内車
備砲 0門
材質 鉄製
馬力 150馬力
写真 有
平運丸のイメージイラスト
平運丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(ブリッグ級輸送船・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

元治元(1864)年二月一日にイギリスより長崎にて13万ドルで薩摩藩が購入しました。原名は「スコットランド」。その快速を利用して飛脚船として平時より薩摩と大坂間を往復していました。

特に鳥羽伏見の戦い前夜におては大量の薩摩兵を京都へと輸送しました。なお、平運丸は旧幕府海軍の開陽丸との間で勃発した阿波沖海戦にも参戦しており、この時は速度の速い「春日丸」とともに開陽丸の追跡を振り切り無事に薩摩へと帰還しています。

明治四年(1871年)、淡路島で破船しました。

この船が、明治になって八十六人の命を奪いました

薩英戦争の翌年に薩摩藩が買い直した四隻のうちの一隻が、この平運丸です。原名はスコットランド、元治元年二月一日に長崎で十三万ドル。飛脚船として薩摩と大坂のあいだを走り、鳥羽伏見の前夜には藩兵を京へ運び、阿波沖海戦では春日丸とともに開陽丸を振り切って帰りました。

ところがこの船には、もう一つの結末があります。明治三年五月十三日の早朝、阿波徳島藩の武士たちが淡路の洲本で家老の稲田家を襲い、十七人が死ぬ騒ぎが起きました。庚午事変、稲田騒動と呼ばれます。裁きのすえ稲田家の家臣団は北海道の静内へ移されることになり、明治四年に百三十七戸五百四十六人が海を渡りました。そのときの移住船が平運丸です。八月二十三日の夕方に座礁し、百三十四人は助かったものの、乗客八十三人と船員三人が溺れて亡くなりました。幕末に薩摩兵を運んだ船が、維新の後始末で移り住む人々を運び、その途中で沈んだことになります。

沈んだ場所について

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薩摩藩が持っていた艦船

一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている薩摩藩の艦船は十六隻で、内訳は輸送船が十一隻、砲艦・軍艦が四隻、その他が一隻です。

数のうえで中心になっているのは、戦うための砲艦ではなく人と物を運ぶ船です。幕末の海軍は、兵を運び、米を運び、使者を運ぶ仕事から始まっていました。

平運丸は明治四年に淡路島で破船したとされます。稲田家の家臣団を運んでいたのが明治四年の夏ですので、時期は重なります。ただし座礁の場所は、資料によってはっきりしません。同じ出来事を指しているとみられますが、断定はできませんでした。

平運丸を船の型と持ち主から読む

平運丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「ブリッグ級輸送船」。2本のマストとも横帆の「ブリッグ型」の帆装を持つ人や荷を運ぶ輸送船です(帆の張り方・軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。

当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この平運丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、永平丸(輸送船)、雲行丸(輸送船)、安行丸(伊呂波丸と同一船)(輸送船)、三邦丸(蒸気内輪船)、万年丸(仮装軍艦)、豊瑞丸(輸送船)、白凰丸(輸送船)、天佑丸(輸送船)などがあります。

持ち主の薩摩藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。平運丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の薩摩藩—島津斉彬と集成館

島津斉彬

薩摩藩の洋式化の礎を築いたのは、嘉永四年(1851)に藩主となった島津斉彬です。斉彬は鹿児島の磯に「集成館」と呼ばれる工場群をつくり、反射炉や溶鉱炉、ガラス工場などを次々に建てました。日本で最初の洋式の帆船や、国産の蒸気船の建造にも取り組んでいます。

その遺産

斉彬は安政五年(1858)に急死しますが、その事業は藩に受け継がれました。集成館の跡には、いまも機械工場の建物(尚古集成館)などが残り、「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されています。平運丸のような薩摩藩の船も、斉彬が始めた近代化の流れの中にありました。

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