薩英戦争とは?イギリス艦隊7隻と薩摩の砲台が鹿児島湾で撃ち合い、敵どうしが手を結ぶまでを図解でわかりやすく

鹿児島城(鶴丸城)の御楼門と石垣

文久3年(1863)7月2日、鹿児島湾に入ったイギリスの艦隊7隻と、薩摩藩の砲台が、台風の暴風雨のなかで撃ち合いました。薩英戦争です。最新式のアームストロング砲を積んだ世界最強の海軍を相手に、薩摩は旗艦の艦長と副長を討ち取ります。一方で、鹿児島の城下町の1割と、藩の近代化の拠点だった集成館を焼かれました。

この記事では、薩英戦争を、きっかけとなった生麦事件、イギリス艦隊と薩摩の砲台の比べ合い、3日間の戦いの流れ、捕虜になった五代才助(五代友厚)と松木弘安(寺島宗則)、そして横浜での和平交渉の順に、戦況図を使ってわかりやすく解説します。戦ったはずの両者が、このあと急速に手を結んでいくところも見ていきます。

暴風雨のなか、鹿児島の台場からイギリス艦隊を砲撃する薩摩の砲兵たち(イラスト)
暴風雨のなか、台場からイギリス艦隊を撃つ薩摩の砲兵たち(イラスト)
目次

薩英戦争とは?ひとことで言うと

前の年の生麦事件の賠償を、艦隊の力で薩摩藩に直接求めにきたイギリスと、それを拒んだ薩摩藩が、鹿児島湾で撃ち合った戦いです。勝ち負けははっきりしないまま、イギリス艦隊は3日目に引き上げました。薩摩は攘夷ができないことを身にしみて知り、イギリスは薩摩の力を認めます。この戦いをきっかけに、両者は手を結んでいきました。

期間文久3年7月2日〜4日(1863年8月15日〜17日)。砲撃戦の中心は7月2日
場所鹿児島湾(錦江湾)の北部。鹿児島城下の前の海と桜島のあいだ
戦った両者薩摩藩 対 イギリス東洋艦隊
指揮薩摩:藩主の島津茂久(忠義)と、父で後見役の島津久光。イギリス:艦隊司令長官キューパー少将(代理公使ニールが同行)
兵力イギリス:軍艦7隻、乗員およそ1,400人、大砲およそ100門。薩摩:祇園之洲・新波止・弁天波止・天保山など砲台10か所、大砲80〜90門
損害イギリス:戦死13人、負傷50人(うち7人がのちに死亡)。軍艦1隻大破、2隻中破。薩摩:戦死5人、負傷十数人。城下の1割と集成館、汽船3隻を焼失
結果勝敗つかず。11月、横浜で和平が成立し、薩摩は2万5千ポンドを支払う

なぜイギリス艦隊は鹿児島に来たのか

生麦事件

文久2年(1862)8月21日、江戸から京都へ帰る島津久光の行列が、横浜に近い生麦村(いまの横浜市鶴見区)を通りかかりました。そこへ馬に乗ったイギリス人4人が行き合い、行列を乱したとして、藩士の奈良原喜左衛門・海江田信義らが斬りつけます。商人のリチャードソンが亡くなり、2人がけがをしました。生麦事件です。

生麦村で島津久光の行列に馬で入りこんだイギリス人と、駆け寄る薩摩藩士(イラスト)
文久2年8月21日、生麦村。島津久光の行列に馬で入りこんだイギリス人4人に、薩摩藩士が駆け寄る(イラスト)

幕府は払い、薩摩は払わなかった

イギリスは幕府に謝罪と賠償金10万ポンドを、薩摩藩には犯人の処刑と、被害者への養育料として2万5千ポンドを求めました。幕府は文久3年5月、老中格の小笠原長行の判断で10万ポンドを払います。しかし薩摩藩は「行列を乱した者を斬るのは国の作法であり、責任はない」として応じません。

そこでイギリスの代理公使ニールは、薩摩と直接話をつけることにしました。6月22日(8月6日)、キューパー少将の艦隊7隻に公使館の人々も乗り込み、横浜を出ます。このときイギリス側は、交渉で片がつくと考えており、本気で戦うつもりはあまりなかったといわれます。

両軍の兵力と軍備

イギリス艦隊は軍艦7隻、乗員はおよそ1,400人、大砲はおよそ100門です(107門とする記録もあります)。そのうち21門が、当時いちばん新しい後装式のアームストロング砲でした。迎える薩摩は、鹿児島城下の海岸に祇園之洲砲台、新波止砲台、弁天波止砲台、大門口砲台、南波止砲台、天保山砲台を、桜島とその周りに横山(袴腰)砲台、赤水砲台、鳥島砲台、湾の中ほどに沖小島砲台を築き、あわせて80〜90門の大砲を並べていました。船どうしの海戦ではなく、軍艦と陸の砲台の撃ち合いになったのが、この戦いの特徴です。

薩摩藩 イギリス東洋艦隊
祇園之洲砲台、新波止砲台、弁天波止砲台、大門口砲台、南波止砲台、天保山砲台、桜島の横山(袴腰)砲台・赤水砲台、鳥島砲台、沖小島砲台の10か所に大砲80〜90門(11か所とする記録も)軍艦7隻、乗員およそ1,400人、大砲およそ100門
大砲の多くは集成館などで造った国産の前装式の砲。丸い弾と破裂弾を撃つうち21門が最新式の後装式アームストロング砲(110ポンド砲・40ポンド砲)
よく狙えるのは1kmほどまで。いちばん大きい150ポンド砲でも最大3kmほどアームストロング砲は薩摩の砲のおよそ4倍の距離まで届くといわれた
戦える軍艦はなし。持っていた汽船3隻は大砲のない輸送船蒸気で動く軍艦。風に逆らって動ける
城下の武士が組ごとに砲台を守り、町人は前もって避難させる陸に上がって戦う兵は少なく、上陸はしなかった

イギリス艦隊7隻

艦隊の中心は、旗艦のユーライアラスです。排水量3,125トン、乗員540人、大砲35門に小型の砲が16門ほど。そのうち17門がアームストロング砲でした。これに中型のコルベットやスループ、小さな砲艦が加わります。数字は記録によって少しずつ違うので、目安として見てください。

艦名種類排水量乗員大砲この戦いでの損害
ユーライアラス(旗艦)蒸気フリゲート3,125トン540人35門+小型砲16門ほど(うちアームストロング砲17門)艦長・副長ら10人戦死、21人負傷
パール蒸気コルベット2,187トン400人21門7人負傷(うち1人死亡)
パーシュース蒸気スループ1,365トン175人17門(40ポンドアームストロング砲5門ほか)1人戦死、9人負傷(うち4人死亡)
アーガス外輪式の蒸気スループ1,630トン175人6門(110ポンドアームストロング砲1門ほか)6人負傷
レースホース砲艦877トン90人5門(110ポンドアームストロング砲1門ほか)座礁して大破、3人負傷
コケット砲艦677トン※90人5門(110ポンドアームストロング砲1門ほか)2人戦死、4人負傷
ハボック小型の砲艦232トン※37人少数なし(砲台との撃ち合いには加わらず)

※コケットとハボックは積載量(船の容積をもとにした大きさ)です。

英国艦隊の鹿児島砲撃(イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 1863年)
鹿児島を砲撃するイギリス艦隊。イギリスの新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1863年11月7日号の挿絵(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

薩摩の砲台—10か所に80門あまり

薩摩藩は、天保年間から鹿児島湾の守りに砲台(台場)を築いてきました。藩主の島津斉彬は、嘉永6年(1853)に大門口と祇園之洲、翌年に新波止と弁天波止の砲台を築き、集成館で造った大砲を並べます。生麦事件のあとは、イギリスが来ることを見こして砲台を急いで増やし、守りを固めました。戦いのときのおもな砲台と大砲の数は、次のとおりです。

砲台場所攻城砲野砲臼砲守った部隊
祇園之洲城下の北の海岸5門–1門六番組
新波止鶴丸城の正面7門3門1門五番組
弁天波止城下の港11門1門2門一番組・二番組
大門口城下の港3門4門1門三番組
南波止城下の港–2門3門–
天保山(砂揚場)城下の南、甲突川の河口7門2門2門四番組
桜島横山(袴腰)桜島の西岸4門––桜島の郷士
鳥島桜島の沖–3門–桜島の郷士
桜島赤水桜島の西岸3門3門あり桜島の郷士
沖小島湾の中ほどの小島5門10門–青山愚痴とその門人

表の大砲を足すと80門あまりになります。数え方によって「11か所に89門」とする記録もあります。攻城砲は重い大型の砲、野砲は運びやすい小型の砲、臼砲は弾を山なりに撃ち上げる砲です。

大砲は国産、射程はおよそ4分の1

砲台の大砲の多くは、薩摩が自分で造ったものでした。はじめは日本の昔からの技術でも鋳造できる青銅で造っていましたが、斉彬は反射炉や溶鉱炉を集成館に建て、鉄の大砲にも挑みます。いちばん大きいのは150ポンド砲で、重さ70kgほどの弾を撃てました。薩英戦争ではこの150ポンド砲が2門使われています。新波止の砲台には、150ポンド砲と80ポンド砲が1門ずつ置かれていました。

ただし、どれも筒の内側に溝のない前装式の砲で、丸い弾か、中に火薬をつめた破裂弾を撃ちます。よく当たるのは1kmほどまでで、遠くなるほど狙いは外れました。イギリスのアームストロング砲は、筒の中に溝を刻んだ後装式で、とがった弾を回転させて飛ばすため、遠くまでまっすぐ届きます。射程は薩摩の砲のおよそ4倍といわれました。まともに撃ち合えば、薩摩の砲台は弾の届かない遠くから一方的にやられてしまう計算です。

それでも薩摩が戦えたのは、艦隊が城下からおよそ1kmの近い沖に錨を下ろしたこと、そして戦いの日が台風で、艦が思うように動けなかったことが大きかったといわれます。

薩摩の船—戦える軍艦はなかった

このころ薩摩藩は、イギリスから買った汽船を何隻も持っていました。天佑丸(もとの名はイングランド)、白凰丸(コンテスト)、青鷹丸(サー・ジョージ・グレイ)の3隻が湾の奥に停めてありましたが、どれも大砲を積まない輸送船です。艦隊と海の上で戦える軍艦は、まだありませんでした。小さな舟の舳先に大砲を1門ずつ積んだ「水軍隊」もつくりましたが、嵐で浸水して引き返しています。

戦いの流れ

薩英戦争の戦況図。鹿児島湾の砲台の位置とイギリス艦隊の動き
薩英戦争の戦況図。イギリス艦隊は谷山沖から城下の沖へ進み(①)、湾の奥で薩摩の汽船3隻を奪う(②)。砲撃が始まると、一列に並んで砲台の前を北から南へ撃ちながら進み(③)、湾の南へ退いた(④)(イラスト)

6月27日、艦隊が鹿児島湾に入る

6月27日(8月11日)の午後、イギリス艦隊は鹿児島湾に入り、城下の南の谷山沖に錨を下ろしました。艦隊は水深を測りながら進み、翌28日には城下の前の海、岸からおよそ1kmのところに一列に並びます。

迎えた薩摩藩の使者に、イギリス側は国書を渡し、生麦事件の犯人の処刑と、2万5千ポンドの支払いを求めました。薩摩は「事件に責任はない」と答え、要求をはねつけます。7月1日、ニールは「受け入れないなら力を使う」と告げました。藩主の島津茂久と久光は、鶴丸城が艦砲の届く距離にあるため、城の西の西田村にある千眼寺に本営を移し、町人たちにも避難を命じます。

西瓜売りの決死隊

この間、薩摩では奇襲の計画も動いていました。奈良原喜左衛門・海江田信義ら、生麦事件にかかわった藩士たちに、黒田清隆や大山弥介(のちの大山巌)ら若い藩士も加わり、果物や西瓜を売る商人に化けて小舟で艦に近づきます。艦に乗り込んで切り込むつもりでした。しかし、使者のふりをした数人が乗れただけで、ほとんどは乗船を断られ、計画はとりやめになりました。

7月2日の夜明け、汽船3隻を奪われる

7月2日(8月15日)の夜明け前、艦隊のうち5隻が湾の奥の重富の沖(いまの姶良市脇元のあたり)へ向かいました。停めてあった天佑丸・白凰丸・青鷹丸に横付けすると、50〜60人の兵がなだれこみ、乗組員を陸へ追い出して3隻を奪います。賠償の交渉を有利にするための「人質」ならぬ「船質」でした。逆らった乗組員のなかには、銃剣で突かれた者もいました。

このとき天佑丸に乗っていた船奉行添役の五代才助と、青鷹丸の船長だった松木弘安は、そのまま捕虜になります。奪われた3隻は、午前10時ごろ桜島の小池村の沖まで引いていかれました。

重富沖で薩摩藩の蒸気船に乗り込むイギリス兵と、向き合う五代才助・松木弘安(イラスト)
7月2日の夜明け、重富の沖で薩摩の汽船に乗り込むイギリス兵。甲板には五代才助と松木弘安がいた(イラスト)

正午、砲台がいっせいに火をふく

船を奪われたことを知った薩摩は、これを盗賊のふるまいとみて、砲台に「追い討て」と命じます。正午、本営にいちばん近い天保山の砲台に、使いとして大久保一蔵(のちの大久保利通)が駆けつけました。その到着を待たずに、天保山の砲台が旗艦ユーライアラスへ撃ち始め、ほかの砲台も続きます。

桜島の側でも、袴腰(横山)の砲台が、すぐ下にいたパーシュースを撃ちました。この砲台があることを知らなかったパーシュースの艦長はあわて、錨の鎖を切って逃げ出しています。

不意をつかれたイギリス艦隊は、戦う構えを整えるのに2時間ほどかかりました。旗艦の弾薬庫の前に、幕府から受け取った賠償金の箱が積まれていて、すぐには弾を出せなかったからだともいわれます。キューパーは奪った3隻を焼くよう合図を送り、3隻は積み荷を取られたうえで火をかけられ、沈みました。

嵐のなかの砲撃戦

この日は台風が近づき、朝から雨と風が強まっていました。イギリス艦隊は旗艦ユーライアラスを先頭に一列に並び、北の祇園之洲から新波止、弁天波止へと、砲台の前を撃ちながら進みます。アームストロング砲の正確な砲撃で、祇園之洲などの大砲8門がこわされました。

ところが、近くを通る艦は、薩摩の砲台にとっても狙いやすい的でした。午後3時ごろ、弁天波止の砲台が撃った臼砲の破裂弾が、ユーライアラスの甲板に落ちて炸裂します。艦橋にいた艦長のジョスリング大佐と副長のウィルモット中佐が戦死し、そばにいたキューパーも倒されましたが、左腕のけがだけで助かりました。べつの破裂弾は甲板の3番砲のそばで炸裂し、砲員がまとめて死傷しています。ユーライアラス1隻の死傷者は31人にのぼり、艦隊全体の4割をこえました。

午後3時10分ごろには、祇園之洲の砲台に迫っていたレースホースが、波と機関の故障で流され、砲台の手前およそ200ヤード(180mほど)で座礁します。艦が大きく傾いて大砲が撃てなくなり、小銃で応戦しました。薩摩側は、敵が上陸してくると思い、砲台の陰で待ち構えます。コケット、アーガス、ハボックの3隻が助けに入り、新波止の砲台から撃たれながらも、5時半ごろにようやく引き出しました。

鹿児島湾の沖に並ぶ英国軍艦と、岸から見つめる武士たち(イメージイラスト)
鹿児島の沖に並ぶイギリスの軍艦と、岸から見つめる薩摩の武士たち(イラスト)

アームストロング砲は、この戦いで暴発や不発が多かったともいわれます。イギリス海軍はこのあと大型のアームストロング砲の注文をとりやめ、それが日本などへ輸出されるきっかけになったという説もあります。ただ、当時の新聞の記事には暴発のことは書かれておらず、どこまで本当だったのかは、はっきりしません。

集成館と城下が燃える

夕方、撃ち合いに加わっていなかったハボックは、砲台のない磯のほうへ向かい、停泊していた琉球の船3隻と日向の赤江の船2隻を焼きました。琉球の船には、使節として来ていた琉球の王子が乗っていて、小舟でかろうじて逃げています。さらにパーシュースも加わり、大砲とロケット弾で集成館を撃ち、斉彬が育てた工場群はほとんど焼けてしまいました。

午後8時ごろには、城下の上町のあたりにも火が回ります。強い風にあおられて、民家350戸あまり、武家屋敷160戸あまり、寺や神社が焼けました。焼けたのは城下のおよそ1割です。

艦砲射撃で燃える鹿児島の城下と集成館を、浜から見つめる人々(イラスト)
7月2日の夜、艦砲射撃で燃える城下と集成館を、浜から見つめる人々(イラスト)
桜島を望む磯の集成館で反射炉を見渡す島津斉彬(イメージ)
斉彬が磯に築いた集成館(イメージ)。反射炉や工場が並んでいたが、薩英戦争で艦砲に焼かれた(イラスト)

7月3日・4日、艦隊が去る

7月3日(8月16日)の朝、イギリス艦隊は前の日に戦死した艦長や副長ら11人を、鹿児島湾で水葬にしました。軍楽隊の演奏が、城下まで響いたと伝わります。そのあと艦隊は湾を南へ下りながら、もう一度、町と両岸の砲台を撃ちました。天保山や赤水の砲台では火薬庫が爆発しています。沖小島の砲台からも撃たれながら、艦隊は谷山の沖に錨を下ろし、艦を直しました。

じつは薩摩は、沖小島と桜島のあいだの海に、斉彬の時代に集成館で造った水中の爆弾を3つ沈めて、岸から電気で爆発させる用意をしていました。いまでいう機雷です。しかし艦隊は沖小島の砲台を避けて進路を変えたため、その上を通りませんでした。

7月4日(8月17日)、石炭と弾が残り少なくなり、多くの死傷者を抱えた艦隊は、鹿児島湾を出ていきました。座礁で傷んだレースホースは、しばらく大隅半島の小根占の沖で修理をしてから引かれていきます。

鹿児島砲撃を描いたフランスの挿絵(ル・モンド・イリュストレ 1863年)
フランスの雑誌『ル・モンド・イリュストレ』1863年12月5日号に載った鹿児島砲撃の挿絵(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

捕虜になった五代才助と松木弘安

五代才助(五代友厚)と松木弘安(寺島宗則)は、どちらも薩摩きっての「洋学派」でした。五代は長崎の海軍伝習所で学び、上海にも渡って、藩の船を買う仕事をしていました。松木は斉彬の侍医として集成館の仕事にかかわり、文久2年には幕府の使節団に加わってヨーロッパを回っています。二人とも、攘夷が無理なことをだれよりもよく知っていました。

松木弘安(のちの寺島宗則)の写真(1862年)
松木弘安(のちの寺島宗則)。文久2年(1862)、幕府の使節団に加わってヨーロッパを回ったときの写真(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

二人が抵抗せずに捕まったのは、この機会にイギリス側と話をつけたい、相手の軍艦を間近で見ておきたい、という考えがあったからだともいわれます。イギリス側も、二人を手荒には扱いませんでした。艦隊が横浜に戻ると、イギリス艦で通訳をしていた清水卯三郎の手引きで、二人はひそかに陸へ上がります。

ところが、薩摩からは「わざと捕まり、イギリスに通じたのではないか」と疑われ、幕府からも追われる身になりました。二人はしばらく武蔵国(いまの埼玉県のあたり)に身を隠します。その後、五代は長崎に移り、藩に対して、上海との貿易でお金をかせぎ、若者をイギリスに留学させるべきだと書き送りました。これが2年後の留学生派遣につながります。

和平交渉—薩摩はなぜ払ったのか

戦いが終わると、薩摩は幕府の仲立ちで、横浜のイギリス公使館で和平の話し合いに入りました。薩摩側の中心は重野厚之丞(重野安繹)と岩下左次右衛門(岩下方平)です。9月28日と10月4日の話し合いでは、薩摩は船を奪ったことを責め、イギリスは生麦事件を持ち出して、どちらも引きません。

10月5日(11月15日)の3回目で、ようやくまとまります。決め手は、薩摩がイギリスから軍艦を買えるよう、イギリス側が世話をするという約束でした。薩摩は2万5千ポンド(6万300両)を払いますが、そのお金は幕府から借りたもので、薩摩はそれを幕府に返しませんでした。生麦事件の犯人は「逃げていて見つからない」として、処罰されないまま終わっています。

戦った相手から軍艦を買う—ふつうなら考えにくいことですが、薩摩はイギリスの力を認め、その力を自分のものにしようとしたのです。

戦いの流れ(文久3年)

月日出来事
前年8月21日生麦事件。島津久光の行列を乱したイギリス人を藩士が斬る
5月9日幕府がイギリスに賠償金10万ポンドを払う
6月22日キューパーの艦隊7隻が横浜を出る
6月27日艦隊が鹿児島湾に入り、谷山沖に錨を下ろす
6月28日城下の前の海に進み、犯人の処刑と2万5千ポンドを求める
6月29日ごろ薩摩が要求を拒む。西瓜売りの決死隊が艦に近づくが失敗
7月1日ニールが武力を使うと告げる。藩主らは千眼寺に本営を移す
7月2日 夜明け重富の沖で汽船3隻を奪われる。五代才助と松木弘安が捕虜に
7月2日 正午天保山の砲台が撃ち始め、薩英戦争が始まる。奪われた3隻は焼かれる
7月2日 午後3時ごろユーライアラスに破裂弾が命中し、艦長と副長が戦死。レースホースが座礁
7月2日 夜集成館と城下が焼ける
7月3日戦死者を水葬。艦隊は町と砲台を撃ちながら南へ下る
7月4日艦隊が鹿児島湾を去る
9月28日〜10月5日横浜のイギリス公使館で和平の話し合い。3回目でまとまる

その後—戦った相手と手を結ぶ

朝廷は、攘夷をやってのけたとして薩摩をほめました。しかし当の薩摩は、この戦いで、外国を武力で追い払うのは無理だと思い知ります。翌元治元年(1864)には洋学の学校である開成所をつくり、慶応元年(1865)には、五代と松木(寺島)らを使節にして、留学生とあわせて19人をひそかにイギリスへ送りました。のちに初代の文部大臣になる森有礼もその一人です。この留学には小松帯刀も深くかかわっていました。

イギリスもまた、薩摩を見直しました。慶応2年(1866)には公使パークスが鹿児島を訪れ、通訳のアーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と親しくなります。薩摩は、イギリスとのつながりを生かして武器と船をそろえ、のちの鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争を戦い抜きました。

一方、イギリス本国の議会では、キューパーが非難されました。幕府からすでに多額の賠償金を受け取っていたうえ、戦う力のない町まで焼いたのはやりすぎだ、というのです。翌年、長州藩も下関で四国の連合艦隊に敗れ、薩摩と同じように攘夷から開国へ向きを変えていきます。その長州が幕府軍を退けたのが、四境戦争でした。

ちなみに、和平のときに薩摩からイギリス側へみかんが贈られたことから、イギリスでは温州みかんを「サツマ」と呼ぶようになったという話も残っています。

この戦いが示したもの

ひとつめは、技術の差です。射程が4倍ちかい大砲を前にして、薩摩の砲台は、艦が近くまで来てくれなければ当てることすらできませんでした。台風と、艦隊の油断に助けられた面も大きかったのです。

ふたつめは、それでも薩摩がよく戦ったことです。旗艦の艦長と副長を討ち、死傷者の数ではイギリスのほうがずっと多く、艦隊は上陸もせずに引き上げました。この手ごたえが、薩摩に自信を与え、イギリスに敬意を抱かせました。

みっつめは、戦いのあとの切りかえの早さです。薩摩は負けを認めないまま賠償金を払い、その相手から軍艦を買い、若者を学ばせに送りました。攘夷を実際にやってみた藩が、いち早く攘夷の旗を下ろしたのです。

現地を歩く—鹿児島湾の砲台跡と尚古集成館

鹿児島城(鶴丸城)の御楼門と石垣
鹿児島城(鶴丸城)の御楼門。2020年に復元された(Photo: Sakoppi/CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons)

本営を移すまで藩主がいた鶴丸城(鹿児島城)は、艦砲の届く距離にありました。いまは石垣と堀、復元された御楼門が見られます。城下には、薩英戦争のころの砲台の跡もいくつも残っています。

  • 祇園之洲砲台跡(鹿児島市清水町):いちばんの激戦地。いまは祇園之洲公園になっていて、発掘で石垣や砲座が見つかっています
  • 新波止砲台跡(鹿児島市本港新町):鶴丸城の正面を守った主力の砲台。かごしま水族館の北の岸壁に石垣が残ります
  • 天保山砲台跡(鹿児島市天保山町):最初に火をふいた砲台。甲突川の河口の天保山公園に碑があります
  • 袴腰砲台跡(桜島):パーシュースを追い払った砲台。桜島フェリーの港のそばです
  • 仙巌園と尚古集成館(鹿児島市吉野町):斉彬の集成館の跡。150ポンド砲の復元品や、薩英戦争の砲弾などが見られます
尚古集成館(旧集成館機械工場)
尚古集成館。集成館の機械工場として慶応元年(1865)に建てられた石造りの建物(Photo: Yanajin/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
仙巌園に残る集成館の反射炉跡
仙巌園に残る反射炉の跡。斉彬はここで鉄の大砲づくりに挑んだ(Photo: 小池隆/CC BY 4.0/Wikimedia Commons)

筆者の感想

寺島宗則と五代友厚が捕虜になったことは、何かの本で読んで知っていました。さすがイギリス、というかヨーロッパですね。捕まえた相手をいきなり斬ったりはしないんですね。国際法を守っているのか、日本とのこれからを考えてのことなのか、そこはわかりませんが。

あわせて読みたい

参考資料

  • 公爵島津家編纂所『薩藩海軍史』中巻(原書房)
  • 日本史籍協会『島津久光公実記』二(東京大学出版会)
  • 大山元帥伝刊行会『元帥公爵大山巌』
  • 萩原延壽『薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄』(朝日文庫)
  • アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)
  • 宮本又次『五代友厚伝』(有斐閣)

文:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです

  • URLをコピーしました!
目次