| 雲行丸 | |||
| 藩名 | 薩摩藩 | ||
| 藩主 | 島津斉淋 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気外輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 不明 | ||
| 写真 | 絵図 | ||
■ 詳細
雲行丸は、幕末に薩摩藩が建造した蒸気船です。越通船と呼ばれる和洋折衷船に試作の蒸気機関を搭載したもので、日本で建造された最初の蒸気船です。
ジョン万次郎(捕鯨中に遭難しアメリカへ渡航)の情報を参考に、設計・建造したのが越通船と呼ばれる小型木造帆船です。長さ8間余(約14.5m)・幅1間3尺(約2.7m)・主マスト6間4尺余(約12.1m)であったと伝わります。
構造は和洋折衷で、西洋風に肋材で強化された船体を持つ一方、甲板の張り方や舵は和船式でした。2本マストで、和船風の四角い横帆を中心からずらして張った変則的なラグセイル帆装を有しました。越通船は湾内での輸送用に使われ、嘉永7年(1854年)10月頃に江戸へと回航されました。
所属した薩摩藩と、国産蒸気船への挑戦
この蒸気船・雲行丸は、薩摩藩(島津家)が自力で造ろうとした国産蒸気船の一つと伝えられます。
名君・島津斉彬が興した集成館事業のもと、薩摩は反射炉や造船とともに、蒸気機関の国産化にも挑みました。雲行丸は、その試みから生まれた実験的な蒸気船だとされます。思うように走らせるのは難しかったものの、西洋の最新技術を独力でものにしようとした薩摩の気概を示す一隻です。
雲行丸をもっと深く——本を読んだだけで、蒸気機関を造った
実物を見た者が、一人もいなかった
薩摩藩主・島津斉彬の集成館事業のなかで、嘉永二年(1849年)に着手されたのが蒸気機関の製作です。頼りにしたのは、オランダ語の書物を訳した『水蒸船略説』ただ一冊でした。
蒸気機関の実物を見たことのある者は、藩内に一人もいません。図面と説明文だけを頼りに、動く機械を作ろうとしたのです。鹿児島での製作は失敗し、江戸で作り直されました。船体のほうは「越通船」という和船を改造したもので、和洋折衷という言葉がそのまま当てはまります。
安政二年七月、江戸で試運転にこぎつけています。
| 建造 | 日本(機関は江戸で製作、船体は和船を改造) |
|---|---|
| 全長 | 約14.5メートル |
| 幅 | 約2.7メートル |
| 推進 | 外輪式蒸気機関 |
| 出力 | 設計12馬力/実測2〜3馬力 |
| 速力 | 4〜5ノット程度 |
「六丁櫓の小舟並み」
結果は芳しくありませんでした。設計では十二馬力のはずが、実測では二、三馬力しか出ありません。蒸気漏れがひどく、当時「六丁櫓の小舟並み」と評されました。人が六人がかりで櫓を漕ぐのと同じ速さです。
そのため、雲行丸は「日本で最初に建造された蒸気船」ではあるものの、「日本で最初の実用的な蒸気船」は佐賀藩の凌風丸とするのが通説になっています。この区別は、千代田形を「国産初の軍艦」と呼ぶときの注意点とも通じています。
それでも、驚かれた
オランダ海軍のカッテンディーケは、簡単な図面だけを頼りに蒸気機関を作り上げた日本人の力量に驚嘆したと伝えられます。
動かない機関にも意味はあります。次に作るとき、何が足りないかが分かるからです。薩摩の集成館事業は、この失敗の上に積み上がっていきました。反射炉も、ガラスも、紡績も、最初は同じように動かないところから始まっています。
教材になった機関
維新後、雲行丸は使われないまま置かれ、明治二十年代にスクラップとして売却されました。ただし蒸気機関だけは海軍兵学校の教材として残り、明治中期に廃棄されています。
現存する資料は、後年に記憶をもとに描かれた不正確な絵図と、機関の図面だけです。日本で最初に造られた蒸気船が実際どんな姿だったのか、正確なところは分かっていません。
幕末軍艦一覧リスト

