開聞丸【薩摩藩 輸送船 幕末軍艦】

開聞丸
藩名 薩摩藩
藩主 島津忠義(茂久)
船種 輸送船
機関 蒸気内車
備砲 0門
材質 鉄製
馬力 不明
写真 無
開聞丸のイメージイラスト
開聞丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(輸送船・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

原名「フィオラ」。1865年7月13日、イギリスより9万5千ドルで購入しました。

開聞丸は長崎でグラバーから薩摩藩名義にて大量の武器弾薬を購入し、これらを長州藩の下関・三田尻まで運びました。

目次

薩摩藩が持っていた艦船

一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている薩摩藩の艦船は十六隻で、内訳は輸送船が十一隻、砲艦・軍艦が四隻、その他が一隻です。

数のうえで中心になっているのは、戦うための砲艦ではなく人と物を運ぶ船です。幕末の海軍は、兵を運び、米を運び、使者を運ぶ仕事から始まっていました。

幕末には「人斬り半次郎」の異名で恐れられた剣客で、西郷隆盛に従って戊辰戦争を戦いました。維新後は陸軍の要職に就きますが、やがて西郷とともに下野し、明治十年(1877)の西南戦争で運命をともにします。開聞丸は、そんな薩摩隼人の気風を宿した藩の一隻です。

薩摩の名義で買った武器を、長州へ運びました

この船の役目は、はっきりしています。原名はフィオラ。慶応元年七月十三日、イギリスから九万五千ドルで買われました。そして長崎でグラバーから薩摩藩の名義で大量の武器と弾薬を買い入れ、それを長州藩の下関と三田尻まで運んでいます。このとき長州は幕府から追討を受けている身で、自分の名では武器を買えません。薩摩の名前を借りて買い、船で運ぶ。両藩が手を結ぶ前後の、その実務を担った船でした。

船そのものの記録は、乏しいままです

いっぽうで、船の素性についての記録は多くありません。鉄製の蒸気内輪船、六百八十四トンという数字を挙げる資料はありますが、その一覧は参考にした文献を示していません。鹿児島県が公開している資料にも、黎明館の研究報告にも、この名は出てきませんでした。造船所も建造年も分からないままです。

六百八十四トンという数字

もしこの数字が正しければ、かなり大きな船です。同じ薩摩藩の豊瑞丸が三百トン、幕府が慶応元年に長崎で買った鶴港丸が三百五トンですから、その倍以上になります。九万五千元という値も、幕府が文久二年に買った順動丸の十五万ドルには及ばないものの、安い買い物ではありません。薩摩藩が慶応元年の時点でそれだけの船を持っていた、ということ自体は書けます。

同じ名前の別の船に、注意が要ります

開聞丸という名で調べると、まったく別の船が出てきます。枕崎の水産学校の木造の実習船で、六十トン、昭和二十年二月十八日に与論島の北西の海で沈み、二十四人が亡くなりました。幕末の開聞丸とは関係がありません。同じ名の船が時代を隔てて二つある、ということだけ書き添えておきます。

開聞丸を船の型と持ち主から読む

開聞丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。

当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この開聞丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、三邦丸(蒸気内輪船)、万年丸(仮装軍艦)、豊瑞丸(輸送船)、平運丸(ブリッグ級輸送船)、白凰丸(輸送船)、天佑丸(輸送船)、竜田丸(バーク級輸送船)、青鷹丸(輸送船)などがあります。

持ち主の薩摩藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。開聞丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の薩摩藩—亀山社中への支援

薩摩と龍馬

開聞丸が薩摩藩の船となった慶応元年(1865)、龍馬たちは長崎に亀山社中を置きました。その活動を資金の面で支えたのが薩摩藩です。小松帯刀や西郷隆盛は、龍馬たちに薩摩の船の運用を任せ、薩摩名義で長州のために武器や船を買う仕事にも龍馬たちを使いました。

同じころの日本

この年、幕府は長州を再び討つことを決め、将軍家茂が大坂城に入りました。薩摩はその再征に反対し、ひそかに長州と手を結ぶ道を探っていました。薩摩藩の船と社中の働きが、翌年の薩長同盟を実際に支えることになります。

軍艦全140隻の一覧を見る ›

  • URLをコピーしました!
目次