冬枯れの原に、低い土塁が長く延びています。青空の下、その向こうに山並みが見えました。城跡というより、広い野原です。

ですがこの原は、四百二十年前に一つの家中が二つに分かれた場所です。片方は主家について秋田へ去り、片方はこの土地に残りました。そして残った家は、明治になって焼物を興し、この町の初代町長を出しています。
この城跡から、幕末はどう見えるか
先に断っておくと、真壁城は幕末には城ではありません。元和八年(1622年)に廃されて、それきりです。
それでもこの原に立つ意味があるのは、慶長七年(1602年)にここで家中が二つに分かれ、その両方が幕末まで続いたからです。
- 主家について秋田へ渡った側。佐竹の久保田藩士として戊辰戦争を戦うことになります。奥羽越列藩同盟の使者を斬って離脱し、庄内・仙台・盛岡の三方面から攻められた、あの藩です
- 真壁に残った側。二百五十年後に武士をやめて焼物を興し、大正天皇に献上するまでになり、町の初代町長を出しました
そして城のないこの町のすぐ南、筑波山で、元治元年(1864年)に天狗党が挙兵します。城が廃されて二百四十年後のことでした。
誰が築いたのか、まだ決着していない

案内板によれば、真壁城跡は平成六年十月二十八日に国の史跡に指定されました。指定地全体は約十二万五千平方メートル、うち本丸が一万五千六百二十二平方メートル。城の構造は平城形式で、土塁、堀、曲輪、城道、そして地下遺構が残ります。曲輪は本丸、二の丸、中城、外曲輪、館ほか。城域は東西およそ九百メートル、南北およそ七百メートルに及びます。
面白いのは築城者の書き方です。案内板は、桜川市教育委員会の発掘調査の成果から、真壁久幹が十六世紀後半に築いたものと推定しています。
ところが伝承のほうは違います。承安二年(1172年)、大掾直幹の子・長幹が真壁郡に入って真壁氏を名乗り、この地に城を構えたというのです。四百年の開きがあります。
同じことが、私が歩いたほかの城跡でも起きていました。相模の丸山城址では、江戸時代末の地誌が伝える糟屋氏の居跡という伝承に対して、発掘の成果から十五〜十六世紀の城郭と考えられるようになってきた、と案内板が書いています。下野の児山城跡も同様でした。
伝承を否定するのでもなく、鵜呑みにするのでもなく、掘って出てきたものだけを根拠に書き直していく。ここ二、三十年の発掘調査が、各地の城跡の履歴書を静かに書き換えているのだと分かります。
慶長七年、家中が二つに分かれた
真壁氏は佐竹氏の家臣団に組み込まれていました。ですから慶長七年(1602年)、関ヶ原の処分で佐竹義宣が常陸から出羽へ移されると、真壁氏も主家について出羽角館へ移住します。真壁城は空城になりました。
五十四万石から二十万石への減転封です。ついていけば知らない北国で一からやり直すことになり、残れば主家との縁が切れる。家中の一人ひとりが、この選択を迫られたはずです。
佐竹家はその後、久保田藩として幕末まで続きました。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の使者を斬って離脱し、庄内・仙台・盛岡の三方面から攻められています。真壁からついていった人々の子孫は、二百六十年後、その戦を戦ったことになります。

本家の城は、常陸太田にあった

ついでに書いておくと、真壁氏が従った佐竹本家の居城は、ここから北へ離れた常陸太田にありました。舞鶴城——常陸太田城です。
いま城跡は常陸太田市立太田小学校などの敷地になっていて、構内に「舞鶴城趾」と刻まれた大きな自然石が立っています。城らしい遺構は見あたりません。植え込みと松のあいだに、石が一つあるだけです。
慶長七年、この城の主・佐竹義宣が出羽へ移ると決まったことで、真壁氏は角館へ渡り、市塚家は真壁に残りました。家中を二つに分けた決定は、この石が立っている場所で下されたことになります。
そして常陸太田は、その後水戸藩領となりました。徳川光圀が晩年を過ごした西山荘があり、水戸徳川家歴代の墓所・瑞龍山があります。光圀がそこで指揮した『大日本史』の編纂が水戸学を生み、水戸学が幕末の尊王思想となって弘道館へ流れ込んでいきます。
佐竹が去った土地は、水戸学が育つ土地になりました。常陸という国は、そういう入れ替わり方をしています。
浅野長政と、笠間・赤穂へ続く線
空城になった真壁に、慶長十一年(1606年)、浅野長政が五万石で入ります。豊臣政権の五奉行だったあの長政です。同十六年には子の長重が入城しました。
この長重に永代家老として取り立てられたのが大石良勝——赤穂浪士の大石内蔵助の曽祖父です。大石家が浅野家の家老になったのは、播磨でも常陸笠間でもなく、まずこの真壁でだったということになります。
そして元和八年(1622年)、長重は加増されて笠間へ移り、真壁城は廃城となりました。浅野家はさらに笠間から赤穂へ移り、大石家もついていきます。私は赤穂城と大石神社も歩いています。真壁・笠間・赤穂——三つの土地が、一本の線でつながっています。

幕末には、城はない

正直に書いておくと、真壁藩は元和八年に廃藩、城もそのとき廃されています。幕末の真壁に城はありません。二百五十年、この原はただの原でした。
ただし、静かだったわけではありません。元治元年(1864年)三月二十七日、水戸藩の尊攘派・藤田小四郎ら六十二人が筑波山で挙兵します。天狗党です。その筑波山は、真壁から南へすぐの場所にあります。
一党は数日で百五十人にふくれ、最盛期には千四百人に達しました。攘夷を名目に府中・筑波・柿岡といった近隣の町村から金品を徴発し、抵抗すれば火を放ったと記録されています。四月三日には日光へ向かい、東照宮を占拠して攘夷の兵を挙げようとしましたが、近隣諸藩の出動によって阻まれました。
徴発の記録に残る地名のなかに真壁の名は見あたりません。ですが府中も筑波も柿岡も、真壁と同じ常陸国の内です。城のない町の目と鼻の先で、幕末はいちばん荒々しい形をとって現れていました。
残った家は、焼物屋になった
城下の町を歩くと、古い門構えの家の前に石標が立っています。市塚家。表門が国の登録有形文化財に登録されていることを示すプレートと、もう一枚、こう書かれた紙が貼られていました。
真壁城重臣(七百石)
紫山焼き生家
大正天皇献上
初代町長 友一郎
四行に、この家の四百年が畳み込まれています。
もうひとつ、ここで書いておきたいことがあります。この市塚家は、私の母方の先祖にあたります。
秋田にはついていかなかったのだ、と聞かされて育ちました。慶長七年に家中が二つに分かれたときの選択が、四百年以上たった食卓で、まだ話題として残っているのです。そういう家の子孫が、いま城跡を歩いて記事を書いています。
正直なところ、城跡そのものはただの原っぱです。土塁と堀があるだけで、天守も櫓も門もありません。それでも私がこの原に立って何か感じたとすれば、それは血筋の話というより、ここで誰かが「残る」と決めたという一点についてでした。
真壁城の重臣で七百石。主家が秋田へ去ったあとも、この家は真壁に残りました。そして明治になって焼物を興します。紫山焼です。
調べてみると、紫山焼の創始者は市塚賢蔵。明治三十三年(1900年)ごろに始められ、翌年には陶器伝習所が組織されています。原料は筑波山中で見つかった土でした。県の支援を受けて改良が進められ、やがて大正天皇に献上されるまでになります。そして同じ家から、真壁町の初代町長が出ました。
禄を失った武家が手仕事に活路を求めた例は、全国にあります。天童藩の藩士は将棋の駒を作り、郡山藩の藩士は金魚を育て、鯖江藩の人々は眼鏡の枠を削りました。真壁では、それが焼物だったのです。
違うのは、真壁の場合、武家をやめてから焼物を始めるまでに二百五十年以上あることです。城が廃されたのは元和八年。紫山焼が始まったのは明治三十三年。そのあいだ、この家は何をしていたのか——旧家として土地に根を張り、町の世話をしていたのでしょう。初代町長という四文字が、それを示しています。
二つの町並みが、一つの家中から生まれた
真壁の町並みは、平成二十二年六月二十九日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。面積はおよそ十七・六ヘクタール、登録有形文化財がおよそ百件。見世蔵と土蔵、そして薬医門が通りに並びます。江戸期の町割りがほぼそのまま残り、建物は幕末から昭和初期まで幅広いものです。木綿と絹の商いで栄えた明治・大正の建築が特に多いといいます。
ここで思い当たることがあります。真壁氏が移り住んだ秋田の角館もまた、国の重要伝統的建造物群保存地区です。あちらは武家屋敷の町並みで知られています。
同じ城の家中が慶長七年に二つに分かれ、片方は秋田で武家屋敷の町並みを残し、片方は真壁で商家の町並みを残しました。そして四百年後、両方が国に選ばれて保存されています。ついていった側も、残った側も、それぞれの形で町を残しました。どちらが正解だったという話ではないのだと思います。
【真壁城跡・場所・アクセス・地図】
真壁城跡は茨城県桜川市真壁町古城。鉄道の駅からは離れており、車で訪ねるのが現実的です。城跡は広い原として整備されていて、本丸の土塁と堀、案内板があります。発掘調査が続いており、訪ねる時期によって見えるものが違います。
城跡から西へ歩くと、重要伝統的建造物群保存地区の町並みに入ります。見世蔵の並ぶ通りを抜けながら、市塚家をはじめとする旧家の門構えを見て回れます。城跡と町並みは続けて歩ける距離にあります。御城印もいただきました。
あわせて読みたい(現地取材)
この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「真壁城跡 本丸」
- 桜川市教育委員会(現地解説板の設置者)
掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。
