久保田藩(秋田藩)/佐竹家20万石:佐竹義堯 戊辰戦争では新政府軍として奥羽越列藩同盟軍と徹底交戦した久保田藩

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久保田藩(秋田藩)の歩み

戊辰戦争が始まると、久保田藩もはじめは奥羽越列藩同盟に加わりました。しかし藩内には、平田篤胤の国学の流れをくむ尊攘派が育っており、藩は同盟を説きに来た仙台藩の使者を斬って、新政府の側へと転じます。尊攘派を率いたのは、吉川忠行・忠安の父子でした。忠安は雷風義塾に学んだ人物です。

忠安は著書『開花策論』で尊王の考えを説き、十二代藩主の佐竹義堯がこれを受け入れたことで、久保田藩は藩をあげて新政府軍に加わることになりました。そのため周りの同盟の藩から攻め込まれますが、新政府が送った佐賀藩の兵の助けも得て、もちこたえています(秋田戦争)。

久保田藩(秋田藩)/佐竹家20万石:佐竹義堯【幕末維新写真館】

同盟の藩を敵に回したことで、久保田藩の領地の大半は戦場となりました。そのうえ、新政府側について攻められた周辺の藩の藩主や藩士、さらに西国から来た援軍の費用まで、すべて久保田藩が負担しています。藩の財政は限界まで追い詰められました。戦後に政府から与えられた賞典は、戦費や被害に見合わないわずかなものでした。借金に耐えかねた藩は、加護山の製錬所で貨幣を鋳造してしのごうとしますが、明治二年五月(1869年6月)、新政府は各藩が独自に藩札を出したり貨幣を造ったりすることを禁じました。

禁じられたあとも久保田藩が貨幣を密かに造り続けていたことが、政府で問題となりました。明治四年の末には、元勘定奉行の佐藤時之助・大山茂治右衛門ら十一人が重い処罰を受けています。新政府のために戦った藩が、最後は新政府に罰せられる形になったのです。明治二年(1869年)の版籍奉還で佐竹義堯は久保田藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県で久保田藩は秋田県となりました。

★同盟を裏切った藩、と呼ばれて

久保田藩二十万石の戊辰は、東北のどの藩とも違う経過をたどりました。奥羽越列藩同盟に一度加わりながら、途中で抜けて新政府側についたのです。

慶応四年七月、久保田城下に仙台藩の使者が乗り込んできます。同盟の結束を固めるためです。ところが藩内の勤王派藩士がこれを襲い、使者を斬殺してしまいました。

もう後戻りはできません。久保田藩は同盟を離脱し、新政府軍に加わります。

三方から攻められた領内

報復は苛烈でした。

南から庄内藩、東から仙台藩、北から盛岡藩。三方向から同時に攻め込まれたのです。

とくに庄内藩は強く、久保田藩兵は各地で敗走しました。領内の町や村が次々に焼かれ、戦線は久保田城下の目前まで迫ります。

持ちこたえられたのは、新政府軍の増援と、秋の到来で他方面の戦況が変わったからでした。—東北で最も長く、最も広く自国が戦場になった藩の一つが久保田です。

戦後、久保田藩は新政府への功により永世賞典禄二万石を与えられました。ただし領内の荒廃と戦費で藩財政は破綻寸前で、加増が実質的な救いになったとは言いがたいのが実情です。

そもそも佐竹家は、常陸五十四万石だった

この藩を語るとき、もう一つ触れておきたいことがあります。

佐竹氏はもともと常陸五十四万石の大大名でした。いまの茨城県です。関ヶ原で去就を明らかにせず、戦後に出羽二十万石へ減転封されました。

—常陸を出た佐竹家が、二百六十年後、同じ常陸から生まれた水戸学の流れが東北を巻き込んだ戦争で、同盟を割る側に回りました。関ヶ原で旗色を鮮明にしなかった家が、戊辰では鮮明にしすぎて攻められた—そんな見方もできる藩です。

天守を建てなかった城と、二十万五千八百石

久保田城には天守がありません。焼けたのでも壊されたのでもなく、最初から建てませんでした。秋田市の説明は「天守閣をはじめから造らなかった」と書き、その理由を「国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが原因」と考えられているとしています。

石垣もほとんどありません。堀と土塁をめぐらした城です。着工は慶長八年(1603年)五月、翌年八月に初代佐竹義宣が入城し、完成したのは寛永八年(1631年)頃でした。

常陸で五十四万石余を領していた家が、天守も石垣もない城に入った。久保田藩の性格は、この一点でだいたい説明がついてしまいます。

「二十万石」の正確な中身

当ページは表題に二十万石を掲げていますが、確定した知行高はもう少し細かい数字です。

日本大百科全書は「1664年(寛文4)出羽6郡二十万石、下野のうち五千八百石余」で知行高が確定したとしています。百科事典マイペディアは「出羽国秋田・仙北など六郡と下野国河内・都賀二郡内で約二十万五千石」。秋田市も久保田城表門について「二十万五千八百石の正門にふさわしい壮大なもの」と書いています。

つまり出羽二十万石+下野五千八百石余=二十万五千八百石余。しかもこれが確定したのは慶長七年の移封から六十二年後、寛文四年(1664年)のことでした。千秋文庫の解説は「正式に二十万五千石の石高が決まったのは、次代義隆のときであった」としています。移されてから六十年以上、石高が確定していない状態が続いたわけです。

なお藩名についても整理しておきます。世界大百科事典は「維新当時の正式名は久保田藩であるが、1871年(明治4)一月秋田藩と改称し」としています。江戸期の公称は久保田藩で、「秋田藩」になったのは廃藩置県の半年前です。

藩主は相馬家から来ました

十二代佐竹義堯は、陸奥相馬中村藩主 相馬益胤の三男として文政八年七月二十七日(1825年)に生まれました。

まず久保田藩の支藩である岩崎藩主 佐竹義純の養子となって岩崎藩主を務め、安政四年(1857年)、宗家の佐竹義睦の死去により久保田藩主を襲封しています。戊辰のときは数え四十四歳。秋田市は義堯を「近代秋田を築いた最後の藩主」と紹介しています。明治十七年(1884年)十月二十三日没、侯爵。

代数には揺れがあります。秋田市は十二代、ブリタニカ国際大百科事典は十三代としています。

領内の三分の二が戦場になりました

戊辰の被害について、数字の出典を挙げておきます。

世界大百科事典は「東北諸藩の中で孤立し、周囲から攻撃を受け、三分の二が戦場となり四千七百戸が焼失」と記しています。百科事典マイペディアは「勤王藩のため東北諸藩から攻撃され大被害を被った」。日本大百科全書は「孤軍よく奥羽越列藩同盟軍と対抗した」、ブリタニカは「孤軍奮闘した」。

離脱のきっかけとなった仙台藩使節の斬殺は慶応四年七月四日です。庄内藩側の記録である酒田市立資料館の解説は「七月四日には秋田を訪れていた仙台藩・盛岡藩の使者七名を殺害」としています。盛岡藩の使者も含まれていた点、人数を七名としている点は、押さえておきたいところです(十一名とする記述もあります)。

そして内側の要因について、世界大百科事典は「平田派国学の信奉者たちがクーデタを起こし、一藩勤王に転換した」と説明しています。

南から庄内、北から盛岡 ― 落ちた城を書き分けます

ここは誤りやすいところなので、城ごとに整理します。

酒田市立資料館の記録(旧暦)によると、七月十六日早朝に秋田軍千五百名が鳥海山観音森を抜けて三崎峠東から庄内三番大隊へ攻め込み、八月五日には庄内軍が湯沢を占拠、八月十一日早朝に秋田藩支城の横手城へ進撃しています。八月十三日には横手を突破した一番・二番大隊が大曲へ向かいました。

つまり横手城を落としたのは庄内藩で、慶応四年八月十一日です。横手市も「1868年の戊辰戦争の際に横手城は落城し」と記しています。

いっぽう大館城を落としたのは庄内藩ではなく盛岡(南部)藩で、八月二十二日とされます(この日付の出典は弱いものです)。盛岡藩は八月九日に戦書を提出し、十二所から開戦しました。庄内藩が南から、盛岡藩が北から入ってきたという構図です。両方を「庄内藩に落とされた」と書くと、戦いの形が見えなくなります。

そして久保田藩は降伏していません。降伏したのは相手側で、庄内藩は九月十六日に酒井忠発が「謝罪降伏」で藩論を一致させ、九月二十三日に降伏嘆願書を征討軍参謀黒田清隆へ提出しています。

藩校は明道館から明徳館へ

久保田藩の藩校は明徳館ですが、最初の名前は違いました。

寛政元年(1789年)、九代藩主佐竹義和が家老疋田柳塘の意見を容れ、藩政改革の一環として人材養成のために設立します。寛政五年(1793年)に江戸から儒学者山本北山を招いて「明道館」と命名し、文化八年(1811年)に「明徳館」へ改称しました。

施設には聖廟・演武場・養寿局(医学館)・和学方・算法方・礼法方が置かれました。この和学方という国学の部門があったことは、戊辰の一藩勤王を考えるうえで見逃せません。

その国学の側には平田篤胤がいます。安永五年(1776年)に久保田城下で秋田藩士 大和田祚胤の子として生まれ、二十歳で脱藩して江戸へ出た人です。晩年は天保十二年(1841年)に江戸退去と著述禁止を申し渡され、郷里の秋田に帰って天保十四年(1843年)に六十八歳で失意のうちに没しました。その篤胤の学統を継ぐ人々が、没後二十五年に藩を動かしたことになります。

二十万石が戦える経済を持っていました

天守も石垣もない城の藩が、周囲を敵に囲まれて二か月余り戦えた背景には、鉱山と山があります。

院内銀山は慶長十一年(1606年)発見、現在の湯沢市にありました。近世には秋田藩の直山となって多額の運上銀を幕府に納め、天保年間(1830〜44年)には日本一の産銀高をあげています。明治十八年に古河市兵衛へ払い下げられ、昭和二十九年に閉山しました。

いっぽう阿仁鉱山を「銀山」と書くのは正確ではありません。天正三年(1575年)に湯口内で銀山が発見され、慶長十九年に七十枚山で金鉱が見つかり、寛永中頃からは銀山、さらに小沢山などで銅の鉱脈が発見されて銅山になりました。宝永五年(1708年)の産銅高三百六十万斤は近世の銅山では最大です。元禄十五年(1702年)から藩の直営。明治八年に官営、十八年に古河市兵衛へ払い下げ、昭和五十三年に閉山しました。幕末に銀で日本一だったのが院内、近世を通じて銅で最大級だったのが阿仁、と分けて覚えるのが正確です。

秋田杉は米代川流域を主産地とし、木曽のひのき・青森のひばと並ぶ日本三大美林の一つ。世界大百科事典は「近世以降は建築材などとして広く国内で利用されてきたが、これは秋田藩の林政にあずかるところが大きい」としています。天然秋田杉の樹齢は二百年から二百五十年で、林野庁による供給は平成二十四年度で終了しました。

大館曲げわっぱにも藩の事情が刻まれています。東北経済産業局の解説は、「1602年、秋田藩主・佐竹(西家)が常陸から減禄移封された際、領内は経済的に困窮」したため、下級武士に曲げわっぱ製作を副業として奨励し、農民には年貢米の供出に代えて原木を運搬させたと伝えています。製品は酒田・新潟・関東へ流れました。昭和五十五年(1980年)十月十六日に国の伝統的工芸品に指定されています。五十四万石から二十万石へ落とされた結果が、いまも工芸品の由来として語られているわけです。

文化のほうでは秋田蘭画があります。秋田県立近代美術館の説明では「西洋の絵に影響を受け、遠近法や陰影法を取り入れて生み出した、それまでの日本になかった新しい描き方の絵」で、小田野直武が『解体新書』の挿絵を担当し、「不忍池図」「富嶽図」を残しました。北の外様大藩が、蘭学の絵を生んでいます。

千秋公園と、いま見られるもの

久保田城跡は千秋公園として明治二十九年(1896年)に開園しました。名づけたのは秋田県出身の漢学者狩野良知で、「秋田の『秋』に長久の意の『千』を冠し、長い繁栄を祈ったもの」だと秋田市は説明しています。

文化財としては秋田市指定の記念物(名勝)で、平成二十年(2008年)三月二十五日指定。国史跡ではありません。

建物では御隅櫓が平成元年(1989年)に市制百周年記念事業の一環として建設されたもので、見張り場と武器庫の役割を担っていた建物です。表門は本丸の正門で「一ノ門」とも呼ばれ、絵図などの文献資料と発掘調査の成果をもとに木造二階建て瓦葺きの櫓門として再建されました。

そして御物頭御番所。宝暦八年(1758年)から安永七年(1778年)の間に建てられたと推定される建物で、久保田城内に唯一現存する藩政時代の役所建物です。秋田市指定文化財。復元でも再建でもない、当時のままの建物がここだけ残っています。

佐竹史料館は千秋公園内の久保田城二の丸にあり、平成二年(1990年)開館。令和四年(2022年)七月着工の工事を経て、令和七年(2025年)十月にリニューアル開館しています。

秋田県ができるまで

版籍奉還で義堯は久保田藩知事となり、明治四年七月の廃藩置県で藩は廃されます。秋田県公文書館の説明では、明治四年十一月に秋田・岩崎・亀田・本荘・矢島の五県に鹿角郡・旧仁賀保領を合わせた県域が定まり、ここに現在につながる秋田県が成立しました。初代知事は島義勇で、開庁式は翌明治五年三月です。

五つの県の名がそのまま、久保田藩と周囲の小藩の顔ぶれです。岩崎、亀田、本荘、矢島。戊辰でともに庄内・盛岡と戦った藩が、廃藩から四か月で一つの県になりました。

この藩が持っていた艦船

久保田藩(秋田藩)の艦船として当サイトで扱っているのは二隻です。軍艦の記事では「秋田藩」の名で立てています。

幕末の艦船は二十八の勢力に分かれ、最も多いのが幕府の三十八隻、次が薩摩藩の十六隻でした。そのうち十四の勢力は一隻しか名前が残っていません。二十万石の大藩でありながら二隻という数は、この藩が海よりも陸の戦いに向き合っていたことを示しています。奥羽越列藩同盟から離れて新政府側につき、領内を戦場にしたのが久保田藩でした。

【久保田藩(秋田藩)・場所・アクセス】
〒010-0876 秋田県秋田市千秋公園1-1

【久保田藩(秋田藩)地図】

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