滋賀県近江八幡市の安土城跡。織田信長の城です。
幕末歴史ガイドとして、ここは正直あきらめていました。天正十年に焼けて、その三年後には廃城。江戸時代が始まる前に、この城は役目を終えています。幕末どころの話ではありません。
ところが山を登っている途中、「摠見寺本堂跡」という石碑の前で足が止まりました。あとで調べて、背筋が伸びました。この本堂が焼けたのは、嘉永七年——ペリーが来た翌年、掛川城の天守が地震で倒れたのと同じ年だったのです。

天正四年、天下統一の拠点として
説明板の書き出しが、この城の性格をよく言い当てています。
安土城の築城は、信長が武田勝頼を長篠で破った翌年、天正四年に始まりました。畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持つ職人が動員された。天下統一の拠点となるべく、当時の文化の粋を集めたものだった、と。
着工から三年後の天正七年に天主が完成し、信長が移り住みます。——しかし、そこからが速い。
天正十年、本能寺の変で信長が殺される。城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に、天主と本丸は焼失しました。
それでも安土城はしばらく生きます。織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護のもとで信長の息子信雄や孫の三法師が入城し、「信長の跡を継ぐのは自分だ」とアピールする舞台になった。
終わりは天正十二年です。小牧・長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると、織田氏の天下は終わる。翌年、安土城は役目を終えて廃城となりました。
——城として機能したのは、わずか九年ほどです。
大手道を登る

この城の異様さは、登り始めてすぐにわかります。
大手道がまっすぐで、そして広い。ふつう、城の登城路は折れ曲げて敵の勢いを削ぐものです。ところが安土の大手道は、幅の広い石段が山上へ向かって一直線に延びている。
——これは戦うための道ではありません。見せるための道です。ここを大名や公家に登らせて、天主を仰がせる。そういう設計だったのでしょう。彦根城の登り石垣や小山城の三重の三日月堀を歩いたあとだと、その思想の違いが体でわかります。


そして、道の両側に家臣の屋敷跡が並んでいます。石碑がぽつぽつ立っていて、それを読みながら登るのが、この城のいちばんの楽しみでした。


伝羽柴秀吉邸址。大手道を登ってすぐの、いちばん下です。石垣の規模はなかなかのもので、二段構えの屋敷だったと考えられています。
この石碑の前で、少し考え込みました。ここに屋敷を与えられた男が、のちに天主を焼いた光秀を討ち、この城を過去にしてしまう。そして北ノ庄で柴田勝家を滅ぼす。——石碑が立っている場所は、まだ何者でもなかったころの秀吉の場所です。


伝武井夕庵邸址。夕庵は信長の右筆——文書をつかさどった文官です。武将ではない人間の屋敷跡が大手道沿いに残っているところに、この城が単なる軍事拠点ではなかったことがうかがえます。
そして伝織田信忠邸址。嫡男の屋敷です。杉の木立のなかに石碑が立っていました。——信忠は本能寺の変のとき京の二条御所で戦い、父と同じ日に死にます。この屋敷の主も、天主とほぼ同時に消えたわけです。
★摠見寺 ― 城跡を二百七十年守り続けた寺

説明板の終わりのほうに、さらりと書かれた一文があります。
「その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた摠見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります」
——ここが、この記事の柱です。
摠見寺は、信長が安土城の城内に建てた寺です。近隣の社寺から建物を移築して造られました。信長が死に、天主が焼け、城が廃されたあとも、この寺だけが山に残った。
檀家を持たない寺でした。信長の菩提を弔うためだけに存在する寺です。江戸幕府からは二百二十七石五斗の朱印地を与えられ、廃城になった山を、二百数十年にわたって守り続けます。
いま歩ける大手道も、石垣も、屋敷跡の石碑も、この寺が山を抱えていたから残ったと言っていい。
★嘉永七年、本堂が焼けた
そして嘉永七年。
火災によって、摠見寺の方丈・書院・庫裡といった主要な建物が焼失しました。信長が死んだ天正十年の火事から、二百七十年あまり。この山は、二度焼けているのです。
嘉永七年がどういう年か、この記事を読んでくださっている方はもうご存じでしょう。
- 前年の嘉永六年、ペリーが久里浜に上陸
- 嘉永七年、ペリーが再来航して日米和親条約
- 同年夏、伊賀上野地震——伊賀上野城が被災
- 同年冬、安政東海地震——掛川城の天守が倒壊し、伊勢亀山城の石垣と多門櫓が大破
——日本中が揺れ、開き、慌てていたその年に、安土山の上では信長の菩提寺が燃えていた。
私が「摠見寺本堂跡」の石碑の前に立ったとき、そこにあったのは地面に並んだ礎石だけでした。建物の輪郭が、石の並びだけで残っている。
その輪郭は、戦国の火事の跡ではなく、幕末の火事の跡です。——安土城跡で唯一、はっきりと幕末に触れられる場所が、ここでした。
なお、火事をまぬがれた二王門と三重塔は、いまも山中に建っています。どちらも重要文化財。信長が近隣の社寺から移築させたもので、安土城でただ二つの現存建築です。本堂のほうは、伝徳川家康邸跡に仮本堂が建てられ、いまもそこにあります。
★もうひとつの幕末 ― 信長の子孫は、出羽で二万石だった
説明板に出てきた織田信雄——信長の次男で、廃城直前の安土城に入った男です。
小牧・長久手で秀吉に屈し、天下を失った。しかし織田家そのものは滅びませんでした。
信雄の子孫は江戸時代を大名として生き延び、各地を転々としたのち、出羽国天童二万石に落ち着きます。
——そう、天童です。将棋の駒の町。
私は以前、天童の舞鶴山を歩いて記事を書きました。幕末の天童藩主は織田信学・信敏。信長の直系の子孫が、幕末に藩主をやっている。
天童藩の戊辰は、読んでいて苦しくなります。
明治元年正月、藩主 織田信学は病床にあり、嫡男の信敏が代理で参内しました。そこで新政府から奥羽鎮撫使の先導を命じられ、重臣の吉田大八が奥州道の案内役をつとめることになります。
同年四月、吉田は副総督を先導して庄内藩と戦い、大敗。報復で天童の城下は庄内藩に焼き払われました。
翌五月に奥羽越列藩同盟が結成されると、天童藩も同盟側として参戦せざるを得なくなり、先導役をつとめた吉田大八は切腹させられます。
——安土でこの城を築いた男の血が、二百八十年後、山形で城下を焼かれている。そして焼かれる原因を作った家臣が、藩の都合で腹を切らされている。
そして明治二年、明治天皇の命により、信長を祀る建勲神社が創建されます。信長は「皇室を尊崇し、天下の秩序を回復した勤王の功臣」として顕彰されました。
——戦国の覇者が、幕末維新の尊皇思想の枠組みのなかで読み直され、明治政府によって神として祀り直された。信長という人物の評価は、幕末という時代を通過して一度作り変えられているのです。
歩いてみて

訪ねたのは冬のよく晴れた朝でした。足元に銀杏の黄色い葉が積もっていて、山の紅葉がまだ残っていました。
正直に書くと、ここには建物がほとんどありません。天主台に立っても、あるのは礎石だけ。「幻の天主」がどんな姿だったかは、いまも決着がついていません。
それでも、この城跡は歩く価値があります。理由は二つあります。
ひとつは、石垣が本物だからです。四百四十年前に積まれた石が、そのまま山の斜面を支えている。これだけ古い時代の総石垣が、これだけの規模で残っている場所は多くありません。
もうひとつは、石碑を読みながら登れるからです。秀吉、武井夕庵、織田信忠——名前を読むたびに、その人物のその後が頭のなかで動き出す。歩くことが、そのまま歴史を辿ることになる城跡でした。
——そして、この山を守り続けたのは武将ではなく、檀家のいない一つの寺だったのです。城が滅びたあとに残るのは、たいてい石と、祈りだけなのだと思いました。
アクセスと地図
特別史跡 安土城跡/滋賀県近江八幡市安土町下豊浦。JR安土駅から徒歩二十五分ほど、車なら無料の駐車場があります。入山は有料(摠見寺の拝観料として。時間・料金は要確認)。
大手道は石段の登りです。天主跡まで往復で一時間から一時間半、ゆっくり石碑を読みながらなら二時間みてください。滑りにくい靴で。雨の日はかなり滑ります。
山中には二王門と三重塔(どちらも重要文化財)があり、下山ルートを摠見寺跡経由にすると見られます。本堂の特別拝観は日曜・祝日のみなど条件があるので、見たい方は事前に確認を。
ふもとの安土城考古博物館と安土城天主 信長の館には、復元された天主の最上層が展示されています。城跡には何もないぶん、こことセットで回ると像が結びます。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「特別史跡安土城跡」
- 安土城考古博物館
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