三重県伊賀上野城。忍者の里として知られる伊賀の、丘の上に建つ城です。
この城には、津城とは別の角度から幕末を照らす面白さがあります。ひとことで言えば、こうです。家康が大坂に備えて築かせた城が、二百五十年後、その徳川を撃つ側の藩の城になっていた。

大坂に向けて築かれた城
伊賀上野城のいまの姿を作ったのは藤堂高虎です。慶長十三年(1608)、高虎は伊勢中部と伊賀に二十二万石で封じられ、この地に城を築きました。
目的ははっきりしています。大坂に対する前衛基地です。まだ大坂城には豊臣秀頼がいた時期で、徳川と豊臣の決着はついていない。京都と大坂の東側、伊賀の山あいに堅城を置いて睨みを利かせる——それが家康の意図でした。津城が藩庁の城なら、こちらは軍事のための城です。

その象徴が本丸西面の高石垣です。約三十メートル(水面上二十八メートル)と、日本でも屈指の高さを誇ります。
ただし、正直な話も書いておきます。この高さは丘陵の先端部という地形を活かしたもので、南面は並みの高さしかなく、東面から北面にかけては空堀と切岸だけで石垣すら積まれていません。当初は本丸全面を石垣で固める計画だった痕跡(積み上げられた礫の山)があるのに、工事は途中で中止されているのです。
なぜ止めたのか。理由はおそらく大坂の陣です。豊臣が滅び、この城が備えるべき相手が消えた。用がなくなった瞬間に、工事は止まった。そう考えると、未完成の石垣そのものが徳川の天下統一を語る遺構ということになります。
天守も、同じ理由で建たなかった


高虎は五重の天守も建てました。ところが慶長十七年(1612)、暴風で倒壊します。そして以後、再建されませんでした。
倒れたのが大坂の陣の数年前。石垣工事の中止と同じ時期です。豊臣が滅びれば、この城に五重天守は要らない。徳川の戦略のなかで、伊賀上野城は「造りかけのまま用済みになった城」として二百五十年を過ごすことになります。
江戸期を通じて、ここに城主はいません。伊賀は津藩・藤堂家の領分であり、城代が置かれる城でした。松坂城が紀州徳川家の城代の城だったのと同じ構図です。伊勢・伊賀には「城主のいない城」が並んでいたことになります。
ではいま建っている天守は何か
ここも正直に書きます。あの天守は、江戸期の建物ではありません。
昭和十年(1935)、地元選出の衆議院議員・川崎克が私財を投じて建てたもので、「伊賀文化産業城」と名づけられました。史料に基づく厳密な復元ではなく、いわゆる模擬天守です。
ただし——これがいい話なのですが——鉄筋コンクリートではなく、木造で建てられています。だから近くで見ると、質感が違う。柱があり、板があり、木の匂いがする。昭和のはじめに、一人の人間が「城下に城を建て直したい」と思って私財を投じ、しかも木で建てた。建物としては偽物でも、その志のほうは本物です。
掛川城の木造復元天守が平成六年ですから、伊賀上野城はその六十年近く前に木造で建てていることになります。日本の城の復元史から見ても、なかなか特異な存在です。
そして幕末 ― 向きが逆になった城
さて、幕末です。
慶応四年正月、鳥羽・伏見。津藩は当初、旧幕府軍に与していました。ところが橋本を守備していた津藩兵が新政府軍に転じ、味方だったはずの幕軍を攻撃します。その寝返りが新政府軍勝利の一因となった——という話は、津城の記事に書いたとおりです。
ここで伊賀上野城に戻ると、なんとも言えない気持ちになります。
この城は、家康が大坂を睨むために築かせた城でした。徳川の天下を守るための前衛基地。ところが二百六十年後、この城を預かる藤堂家は、大坂・京都の方角へ向けて、徳川の軍に砲を撃った。
城の向きは変わっていないのに、敵と味方が入れ替わった。石垣も天守台もそのままで、そこに立つ人間の立場だけが百八十度回転した。幕末という時代を、これほど分かりやすく表している城跡もそうないと思います。
そのあと津藩は新政府軍として戊辰戦争にも箱館戦争にも兵を出しました。伊賀の武士たちも、その列に加わったはずです。

歩いてみて
伊賀といえば忍者、そして松尾芭蕉。市の看板にもその二つが並んでいます。城のイメージは、正直あまり強くありません。
けれども実際に登ってみると、ここは軍事の城だという感触がはっきりあります。高石垣の縁に立つと、足がすくむ。柵はありますが、下を覗くと三十メートル。これを人力で積み上げたのかと思うと、ため息が出ます。
そして、その凄い石垣が片面だけだという事実。戦がなくなった瞬間に工事を止めた合理性。この城は、完成しなかったことによって歴史を語っているのだと思いました。
幕末の記事としては、津城と対で読んでいただくのがいちばんです。藩庁の城(津)と、軍事の城(伊賀上野)。同じ藤堂家の二つの城が、鳥羽・伏見で同じ選択に加わった。
アクセスと地図
伊賀上野城/三重県伊賀市上野丸之内。伊賀鉄道の上野市駅(忍者市駅)から徒歩約八分。天守は有料で、内部は木造の階段を上がります。本丸西面の高石垣は必見ですが、縁は本当に高いので身を乗り出さないように。同じ上野公園内に俳聖殿や伊賀流忍者博物館があり、あわせて回れます。続日本100名城のスタンプは天守入口に。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「史跡 上野城跡」
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