元治元年(1864)12月15日の夜、雪の降る長府の功山寺で、高杉晋作がわずか84人で兵を挙げました。相手は幕府に従うことを選んだ長州藩の政府、いわゆる「俗論派」です。これに奇兵隊などの諸隊が続き、翌年1月、長門の山あいの大田・絵堂(いまの山口県美祢市美東町)で藩の政府軍とぶつかりました。大田・絵堂の戦いです。
この記事では、なぜ長州藩の中で藩士どうしが銃を向け合うことになったのか、功山寺挙兵から絵堂の夜襲、大田の守り、萩への入城までを、進軍図を使ってわかりやすく解説します。この戦いに勝ったことで、長州は幕府と戦う道へもどり、のちの四境戦争につながっていきます。

大田・絵堂の戦いとは?ひとことで言うと
第一次長州征討のあと、幕府に従う「俗論派」が握った長州藩の政府に対して、高杉晋作と奇兵隊などの諸隊(「正義派」)が兵を挙げ、大田・絵堂で藩の政府軍を破った内戦です。勝った正義派が藩の実権を取りもどし、長州は「表向きは従い、裏で軍備をととのえる」武備恭順の道へ進みました。
| 期間 | 元治元年12月15日(1865年1月12日)の功山寺挙兵から、元治2年2月の萩入城まで。大田・絵堂での戦いは元治2年1月6日〜16日 |
|---|---|
| 場所 | 長門国美祢郡の大田・絵堂(いまの山口県美祢市美東町)、赤村など |
| 戦った両者 | 正義派の諸隊(奇兵隊・遊撃隊・力士隊・御楯隊・八幡隊・南園隊・膺懲隊など) 対 俗論派の藩政府軍 |
| 指揮 | 諸隊:高杉晋作、山縣狂介(のちの山縣有朋)、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、井上聞多(のちの井上馨)、太田市之進ら。藩政府軍:前軍の粟屋帯刀ら。政府の中心は椋梨藤太 |
| 兵力 | 諸隊:決起したときおよそ750人(うち奇兵隊400人)。絵堂の夜襲は200人。藩政府軍:絵堂にいた前軍だけで1,000人といわれる |
| 損害 | 大田・絵堂・赤村の戦いで、戦死者は両軍あわせて40〜60人ほど |
| 結果 | 諸隊の勝ち。俗論派は萩から逃げ、正義派が藩の実権を取りもどす |
なぜ長州藩の中で戦いになったのか
禁門の変と第一次長州征討
元治元年(1864)7月、京都に攻め上った長州藩は禁門の変で敗れ、朝廷の敵とされました。8月には下関で、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国の艦隊に砲台を落とされます(下関戦争)。そこへ幕府が、およそ15万の兵で長州を攻める第一次長州征討を命じました。
俗論派が藩の実権を握る
藩の存亡がかかったこのとき、藩の中は二つに割れました。これまで藩を動かしてきた攘夷の「正義派」と、幕府にひたすら従って藩を守ろうとする椋梨藤太らの「俗論派」です。正義派の中心だった周布政之助は自ら命を絶ち、井上聞多は襲われて大けがを負いました。藩の実権は俗論派に移ります。
俗論派の政府は、幕府に謝るため、禁門の変の責任者として福原越後・益田右衛門介・国司信濃の三家老を11月11日に切腹させ、翌12日には四人の参謀を斬りました。さらに奇兵隊などの諸隊に解散を命じ、正義派の藩士を次々と獄に入れていきます。征長軍は戦わずに兵を引くことになりましたが、正義派にとっては、藩がまるごと幕府の言いなりになったも同然でした。
高杉晋作、ひとりで立つ
このとき高杉は、萩を逃れて九州に身をひそめていましたが、長州へ戻り、下関や長府にいた諸隊に決起を呼びかけます。しかし奇兵隊の総督だった赤禰武人は俗論派との仲直りを探っており、ほかの諸隊の幹部も「いまは待つべきだ」と動きませんでした。それでも高杉は「待てない」と言い張り、少ない仲間だけで兵を挙げることを決めます。

正義派と俗論派—両軍の顔ぶれ
| 正義派(諸隊) | 俗論派(藩政府軍) |
|---|---|
| 攘夷と藩の軍備強化を唱え、幕府には謝っても領地や人の差し出しは拒む | 幕府にひたすら従うことで藩を守ろうとする |
| 高杉晋作、山縣狂介、伊藤俊輔、井上聞多、太田市之進、石川小五郎ら | 椋梨藤太、中川宇右衛門、岡本吉之進ら。前軍の指揮は粟屋帯刀 |
| 奇兵隊・遊撃隊・力士隊・御楯隊・八幡隊・南園隊・膺懲隊など。武士だけでなく、農民や町人、力士、他藩の浪士もいた | 萩の藩士を中心とする正規の部隊(鎮静軍) |
| 決起したときおよそ750人。洋式のミニエー銃も持っていた | 前軍だけで1,000人ほど。旧式の火縄銃が多かったといわれる |
| 下関の豪商や、小郡・山口の大庄屋たちがお金と食料で支える | 藩の正式な軍として、藩主の名で動く |
諸隊の顔ぶれ—奇兵隊から第二奇兵隊まで
大田・絵堂の戦いで戦った主な諸隊を表にまとめました。兵数はおおよその数で、資料によって違います。わからないものは「-」としました。
| 隊名 | 結成 | 特徴 | 兵数 | 隊長など | この戦いでの働き |
|---|---|---|---|---|---|
| 奇兵隊 | 文久3年(1863)6月、下関 | 高杉晋作が創った、身分を問わない最初の諸隊。農民や町人も多い | 決起時400人ほど | 総督・赤禰武人(俗論派との和解を探り、挙兵前に隊を離れる)、軍監・山縣狂介 | 絵堂の夜襲、大田の川上口の守り、赤村のはさみ撃ち |
| 遊撃隊 | 文久3年10月、周防の宮市 | 来島又兵衛が町人・農民・浪士を集めて結成。土佐を脱藩した池内蔵太ら他藩の浪士も加わる | – | 総督・石川小五郎(来島が禁門の変で戦死したあと) | 功山寺挙兵に最初に加わる。赤村で高杉とともに戦う |
| 力士隊 | 文久3年ごろ(遊撃隊付属の相撲取りの隊がもと) | 相撲取りの部隊。力自慢で、功山寺挙兵の中心になる | 40人ほど | 伊藤俊輔 | 功山寺挙兵、馬関の会所の占拠。ただし一部は俗論派の側についた |
| 御楯隊 | 元治元年(1864)8月 | 禁門の変から戻った太田市之進・山田顕義・品川弥二郎らが結成。三田尻を屯所とする | 230人 | 総督・太田市之進(のちの御堀耕助) | 大田の鳶の巣の守り、呑水・赤村で活躍。玉木彦助が戦死 |
| 八幡隊 | 文久3年秋 | 八月十八日の政変のあと、堀真五郎や久坂玄瑞らが創設 | 200人ほど | 総督・堀真五郎 | 絵堂の夜襲、大田の本道の守り |
| 南園隊 | – | 萩に駐屯していたが、俗論派の政府の目をのがれて伊佐の諸隊に合流 | – | 総督・佐々木男也 | 絵堂の夜襲、大田の本道の守り |
| 膺懲隊 | 文久3年 | 奇兵隊と行動をともにし、第一次長州征討のときは徳地に移った | 175人ほど | 赤川敬三 | 大田の本道の守り |
| 鴻城隊 | 元治2年(1865)1月、山口 | 井上聞多のもとに、神主・僧・農民らが集まって結成 | – | 総督・井上聞多 | 山口を押さえ、萩への道を開く |
| 第二奇兵隊(南奇兵隊) | 元治2年1月、周防の室積 | 大田・絵堂の戦いのさなか、白井小助・世良修蔵らが周防で結成。周防は藩の南東にあるので「南奇兵隊」と呼ばれ、3月に第二奇兵隊と改める | 300人あまり(のち100人ほどに整理) | 総督・白井小助、軍監・世良修蔵 | 大田・絵堂では戦っていない。翌年の四境戦争、大島口で活躍 |
このほかにも長州藩には、僧侶の金剛隊、商人の市勇隊、猟師の狙撃隊など、百をこえる諸隊がありました。3月の整理で、奇兵隊・御楯隊・鴻城隊・遊撃隊・南園隊・膺懲隊・八幡隊・集義隊・荻野隊・第二奇兵隊の10隊にまとめられます。
戦いの流れ

12月15日、雪の功山寺—84人の挙兵
元治元年12月15日(1865年1月12日)の夜、長府の功山寺には、伊藤俊輔の力士隊と石川小五郎の遊撃隊、それに義侠心から加わった侠客たち、あわせて84人が集まりました。この夜の下関には、めずらしく大雪が降っていたと伝わります。
功山寺には、前年の政変で京都を追われた三条実美ら五人の公家(五卿)が身を寄せていました。紺糸威の小さな具足を着け、兜を首に下げた高杉は、三条に面会して挙兵を告げ、出陣の盃を求めます。三条が注いだ冷や酒を飲みほすと、高杉は「これよりは長州男児の腕前をお目にかけます」という意味の言葉を残して寺を出ていきました。

馬関の会所を押さえ、軍艦を味方に
翌16日、高杉たちは馬関(下関)の新地にあった藩の会所を襲いました。人を殺すのはよくないと空砲を撃ち、役人たちはすぐに降参します。ところが、お金や米はあらかじめ運び出されていました。軍資金に困った一行のために、伊藤俊輔が下関の豪商たちを走り回り、2,000両を借りてきます。下関の人々は高杉たちに好意的で、120人ほどが志願して加わったといいます。
高杉はさらに18人ほどの決死隊をつくり、三田尻(いまの防府市)の海軍局へ送りました。停泊していた長州藩の軍艦3隻(丙辰丸・庚申丸・癸亥丸)に乗り込み、俗論派を倒すために力を貸すよう説きます。12月26日ごろまでに、3隻は正義派の側につきました。陸だけでなく海の力も手に入れたのです。この軍艦は、のちに萩の沖に回り、城に向けて空砲を撃って俗論派をおどすことになります。
伊佐の諸隊、ついに動く
一方、奇兵隊など諸隊の主力は、長門の伊佐(いまの美祢市)に移っていました。奇兵隊の軍監だった山縣狂介は、すぐに戦うことには反対で、藩の政府に「武装を解く」と見せかけながら、軍備を強める建白書を受け入れるよう求めます。しかし12月28日には諸隊の解散命令が出て、正義派の藩士がさらに処刑され、諸隊の怒りは高まっていきました。元治2年1月5日、藩からの返事が来ないことを見きわめると、山縣もついに戦うことを決めます。
1月6日の夜、絵堂を襲う
諸隊は、藩政府軍の前軍が陣を張る絵堂(いまの美祢市美東町)へ「戦書」を送ることにしました。俗論派の椋梨藤太らを討つための戦いであり、前軍の兵に恨みはない、という内容です。奇兵隊の一部と南園隊・八幡隊のおよそ200人が、ひそかに絵堂へ向かいます。絵堂にいた藩政府軍は1,000人といわれました。
1月6日の夜、中村芳之助が馬を走らせて敵陣に入り、前軍の指揮官・粟屋帯刀の本営に戦書を投げ込みます。中村が戻ると、合図の大砲を撃って攻めかかりました。不意をつかれた藩政府軍は崩れ、諸隊は翌朝までに絵堂を奪います。
このとき、藩政府軍の財満新三郎が数人を連れて現れ、「藩主の命に背いて乱暴をはたらくとは何事か」と一喝しましたが、その場で撃たれました。懐からは、俗論派が藩主父子の許しを得ないまま正義派の重臣たちを処刑したことを示す書状が出てきたといいます。藩士の処刑には藩主の許しがいるのが長州藩のきまりでした。この書状が諸隊に知らされると、隊士たちの怒りと士気はいっそう高まりました。

大田に陣を構える
絵堂は守りにくい土地で、数でも負けていたため、諸隊は南へ下がり、秋吉台の東にある大田に陣を移しました。萩からの藩政府軍は、本道の大田街道と、大田川沿いの谷あいの道(川上口)の二手で攻めてくると見て、陣をV字に組みます。本道には八幡隊と膺懲隊、その左に南園隊、左の高台の鳶の巣には御楯隊、狭い川上口には奇兵隊を置き、二つの道が合わさる大田の勘場(役所)近くに本陣を構えました。
後ろの守りも固めました。太田市之進らが小郡に入ると、地元の大庄屋たちが多額のお金と大量の食料、それを運ぶ1,000人以上の人夫を出してくれます。山口でも、井上聞多のもとに神主や僧、農民らが集まり、鴻城軍をつくりました。諸隊の戦いは、村の人々に支えられた戦いでもあったのです。
1月10日・11日・14日、大田を守りぬく
1月10日の午前10時ごろ、藩政府軍が大田の諸隊およそ400人に攻めかかりました。本道を攻めながら、主力を川上口に回します。奇兵隊の前線は押されて退きましたが、本陣の金麗社にいた山縣は、自ら狙撃の兵を連れて竹やぶの中を進み、敵を横から撃たせました。さらに湯浅祥之助の隊が街道わきの小山を駆け下りて敵の横腹を突き、午後4時ごろ、藩政府軍は総崩れとなって退きます。
翌11日も、藩政府軍は大軍で押し寄せましたが、諸隊はこれを防ぎました。14日には本道の呑水峠で、午前10時から午後2時まで大きな戦いになりましたが、ここでも諸隊が勝ちます。

同じ14日、絵堂での勝利を聞いた高杉が、遊撃隊を連れて大田に着きました。高杉は勝利をとても喜び、山縣への返事の手紙に「わしとおまへは焼山かつら うらはきれても根はきれぬ」という戯れ歌を書き添えています。焼け山に残るかずらのように、表は切れても根っこはつながっている、という意味です。
1月16日、赤村の夜襲
兵の少ない山縣は、これ以上追うことに反対しましたが、高杉は決戦を主張し、高杉の案が通ります。1月16日、高杉は遊撃隊を率いて街道ぞいに、山縣は奇兵隊と御楯隊を率いて絵堂の方から進み、赤村にあった粟屋の前軍の本営をはさみ撃ちにしました。前軍は大きく崩れ、明木の本軍まで退きます。大田・絵堂から赤村までの戦いは、この内戦でいちばんの激戦で、戦死者は両軍あわせて40〜60人ほどといわれます。
2月、萩へ入る
山口を押さえた諸隊は、萩へ通じる佐々並の藩政府軍も追い払いました。萩では、どちらの派にもつかず争いを止めようとする藩士たち(東光寺派)が動き、藩主の毛利敬親に俗論派の重役をやめさせるよう訴えます。2月14日、諸隊は三方から萩を囲みました。海からは、三田尻で味方につけた癸亥丸が萩の沖に姿を見せ、萩城に向けて空砲を撃ちます。弾は込めていなくても、軍艦の大砲の音は城下に響き、俗論派の重役たちをふるえ上がらせました。陸と海の両方から迫られた萩の城下に、諸隊は入っていきます。俗論派の重役たちは逃げ出し、椋梨藤太は石見で捕らえられます。獄に入れられていた正義派の藩士たちは解き放たれました。

戦いの流れ(元治元年〜元治2年)
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 元治元年7月 | 禁門の変で長州藩が敗れる |
| 8月 | 下関戦争。四国の連合艦隊に下関の砲台を落とされる |
| 9月〜10月 | 周布政之助が自害し、井上聞多が襲われる。俗論派が藩の実権を握る |
| 11月11日・12日 | 三家老が切腹、四参謀が斬られる |
| 12月15日 | 高杉晋作が功山寺で挙兵(84人) |
| 12月16日 | 馬関の会所を押さえる |
| 12月26日ごろ | 三田尻の軍艦3隻が正義派につく |
| 元治2年1月6日 | 諸隊が絵堂を夜襲し、藩政府軍の前軍を破る |
| 1月7日〜9日 | 諸隊は大田に陣を移す。小郡・山口を押さえる |
| 1月10日・11日 | 大田の戦い。藩政府軍を2度退ける |
| 1月14日 | 呑水峠の戦い。高杉が大田に着く |
| 1月16日 | 赤村の前軍本営をはさみ撃ちにし、藩政府軍を退ける |
| 2月14日 | 諸隊が萩に入る。俗論派の重役は逃げる |
| 3月 | 諸隊を10隊に整理。藩は武備恭順の方針を固める |
その後—長州は「武備恭順」へ
萩に入った正義派は、藩の実権を取りもどしました。藩主の毛利敬親は、騒ぎの責任を先祖の霊にわび、政治を改めることを誓います。椋梨藤太はのちに処刑されました。
3月には、乱立していた諸隊が奇兵隊・御楯隊・鴻城隊・遊撃隊・南園隊・膺懲隊・八幡隊・集義隊・荻野隊・第二奇兵隊の10隊に整理され、総定員はおよそ1,500人とされました。藩は、幕府には表向き従いながら、裏では軍備をととのえて幕府の次の攻撃に備える「武備恭順」の方針を固めます。軍の洋式化を進めたのは、村医者の出の大村益次郎でした。
この後、長州は坂本龍馬らの仲立ちで薩摩と手を結び(薩長同盟)、慶応2年(1866)の第二次長州征討では、四方から攻め寄せた幕府軍を退けます。四境戦争です。大田・絵堂の戦いがなければ、長州は幕府に従う藩のままだったかもしれません。
この戦いが示したもの
ひとつめは、身分をこえた軍隊の強さです。武士だけでなく、農民や町人、力士までが加わった諸隊が、藩の正規の軍を破りました。洋式の銃をそろえ、散らばって撃つ戦い方を身につけていたことも大きかったといわれます。
ふたつめは、人々の支えです。下関の豪商や、小郡・山口の大庄屋たちがお金と食料、人手を出さなければ、数で劣る諸隊は戦い続けられませんでした。
みっつめは、ひとりの決断の重さです。仲間の多くが「待て」と言うなか、高杉は84人だけで兵を挙げました。無謀にも見えたその一歩が諸隊を動かし、藩の向きを変え、やがて幕府を倒す流れにつながっていきます。
現地を歩く—功山寺と大田・絵堂の戦跡
- 功山寺(下関市長府川端):高杉が挙兵した寺。国宝の仏殿があり、境内には馬に乗った高杉の挙兵像が立っています。五卿が身を寄せた書院も見学できます
- 大田・絵堂戦跡記念碑(美祢市美東町):絵堂、呑水、川上の三か所に記念碑が残っています
- 金麗社(美祢市美東町大田):大田の戦いで諸隊が本営を置いた神社です
筆者の感想
高杉晋作は、私が好きな歴史上の人物のなかでも、いちばんといっていい人です。
勘が鋭く、嗅覚というのでしょうか、戦の勘どころを知っていた人だと思います。四境戦争の大島口では、丙寅丸で夜の海に乗り出し、停泊していた幕府の艦隊に奇襲をかけました。そしてこの功山寺では、わずか84人で立ち上がりました。どちらも、ふつうなら「無茶だ」と止められるような場面です。それでも高杉は、ここぞという一点を見抜いて、迷わず動いています。
高杉は、人を引っぱっていく力に長けた人でした。命令で人を動かすというより、この人の魅力のもとに、人が自然と集まってくるのです。奇兵隊の隊士たちも、功山寺に集まった84人も、伊藤俊輔や山縣狂介も、高杉晋作という人に引き寄せられたのだと思います。自分にないものを持った人だな、と感じます。
そして、必要なところで必要な仕事をして、彗星のように現れ、あとは命を失っていく。大田・絵堂の戦いから2年あまり、四境戦争を戦い抜いた高杉は、慶応3年(1867)、満27歳の若さで亡くなりました。大政奉還も、明治の世も見ることはありませんでした。その去り方が、またいっそうこの人の魅力を引き立てているように思います。
はちゃめちゃなところもあったのでしょう。それでも、激動の時代には、こういう人が必要なのだと思います。
あわせて読みたい
- 高杉晋作とは何をした人物か
- 農民も町人も戦力に変えた—高杉晋作の奇兵隊が破った“戦の常識”
- 四境戦争とは?第二次長州征伐で長州藩が4方向の幕府軍を破った戦い
- 禁門の変
- 伊藤博文と井上馨はなぜ留学を途中でやめたのか
- 吉田松陰とは何をした人物か
- 長州藩(萩藩)・長府藩
- 萩城
- 幕末合戦特集
参考資料
- 末松謙澄『防長回天史』
- 徳富猪一郎編『公爵山県有朋伝』
- 一坂太郎『高杉晋作』(文春新書)
- 美祢市教育委員会「大田・絵堂戦跡」案内
文:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです




