千歳丸【江戸幕府 バーク級輸送船 幕末軍艦】

千歳丸
藩名 江戸幕府
藩主 徳川慶喜
船種 バーク級輸送船
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 スケッチ
千歳丸のイメージイラスト
千歳丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(バーク級輸送船・帆走)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

■ 詳細
1850年アメリカ建造で原名ダニエル・ウェブスター。文久元年に幕府が1万6千ドルで購入しました。値段が示すとおりさすがに古く、所々ペンキが剥げていたと言います。同艦は一時仙台藩に貸与されたが、戊申戦争時には海賊に乗っ取られると云う不名誉な事もありました。榎本艦隊は此を仙台近海で拿捕、回春丸と命名して艦隊に加えました。

目次

所属した江戸幕府と、千歳丸の上海派遣

この船・千歳丸には、幕末史に残る大きな役割がありました。文久二年(1862)、江戸幕府はこの千歳丸を仕立てて、清の上海へ公式の視察・貿易使節を送り出したのです。

この船には、長州の高杉晋作や薩摩の五代友厚ら、のちに時代を動かす若者たちも乗り込みました。彼らは上海で、欧米列強に半ば支配された清の現実を目の当たりにし、日本の行く末に強い危機感を抱いて帰国します。千歳丸の上海行きは、幕末の志士たちの目を世界へ開かせた航海でした。幕府海軍は幕末の軍艦のページへ。

千歳丸をもっと深く—高杉晋作が上海を見た船

幕末の軍艦のなかで、この船は戦っていません。にもかかわらず、日本の近代化にもっとも大きな影響を与えた一隻かもしれません。

二百年ぶりの、公式の海外渡航

文久二年(1862年)、幕府は上海へ船を送りました。目的は清国との貿易の試験航海です。鎖国が解けてまだ間もない時期の、公式の海外派遣でした。

使われたのがこの千歳丸。イギリスのサンダーランドで1855年に建造された三本マストのバーク型帆船で、元の名を「アーミスティス」といきました。文久二年に長崎で三万四千ドルで買い入れています。蒸気機関はありません。帆だけの船です。

建造 イギリス・サンダーランド(1855年)
旧名 アーミスティス
トン数 256トンまたは358トン(諸説あり)
推進 帆走のみ(三檣バーク)
購入価格 34,000ドル

誰が乗っていたか

1862年5月27日に長崎を出て、6月3日に上海入港、7月14日に長崎へ戻りました。乗員はおよそ五十一名(諸説あり)。幕府の役人のほかに、各藩から選ばれた若者が乗っています。

長州藩の高杉晋作。薩摩藩の五代友厚。佐賀藩の中牟田倉之助。

この三人だけでも、その後の日本を考えるうえで欠かせない名前が並んでいます。中牟田はのちに新政府軍の朝陽丸の艦長となり、箱館で重傷を負う人物です。

彼らが見たもの

上海はアロー戦争に敗れた直後の清国にありました。列強の租界が広がり、太平天国の乱で内陸は混乱していました。アジア最大の国が半植民地になっている現場を、二十代前半の若者たちが目の前で見ました。

高杉晋作がこの旅で何を感じ取ったかは、帰国後の彼の行動が語っています。奇兵隊の創設も、長府の功山寺での挙兵も、この上海行きのあとの話です。

幕府は貿易の試験のつもりで船を出しました。結果として運んだのは、幕府を倒す側の人間たちの目でした。

その後

千歳丸は1863年2月、イギリス商船「ヴィクトリア」と交換され、幕府の手を離れました。以後の消息は分かっていません。

なお幕府には二代目の千歳丸(1865年イギリス建造・323トン・三万ドル)があり、久留米藩にも同名の船があります。混同されやすいので注意したい。

幕末軍艦一覧リスト

原名と購入について、二つの説があります

この記事は千歳丸を、1850年にアメリカで造られた原名ダニエル・ウェブスターの船で、文久元年に一万六千ドルで買ったとしています。いっぽう上海派遣を扱ったジョシュア・フォーゲル氏の研究や日本語の事典類は、原名をアーミスティスとし、1855年にイギリスのサンダーランドのウィルキンソン造船所で造られた三百五十八トンの三本マストのバークで、文久二年に長崎で三万四千ドルで買ったとしています。建造年も建造国も原名も値段も、まるごと食い違います。同じ名の船が幕府に二隻あったのか、どちらかの記述が別の船のものなのか、決められませんでした。

上海への航海の日取り

文久二年四月二十九日に長崎を出て、五月六日に上海へ入り、七月五日に上海を発って、七月十四日に長崎へ戻りました。乗っていたのは五十人あまりで、幕府側の責任者は勘定方の根立助七郎です。石炭や海藻、にべ膠、漆器など六百トンほどの荷を積んでいきました。高杉晋作は上海で、外国船が常に三、四百隻停泊している港のさまと、太平天国の軍が西の郊外へ迫っている情勢を見ています。五月二十一日には、イギリス人やフランス人が街を歩くと清の人々がみな傍らへ道を譲る、と書き留めました。

二度目の上海行きは、別の船でした

幕府が二度目に上海へ船を送ったのは元治元年で、使われたのは健順丸です。原名アルテヤ、1856年の建造で三百七十八トン、文久元年九月に二万二千ドルで買った船でした。この航海は箱館奉行所が主導し、山口錫次郎以下およそ五十人が乗って、元治元年二月九日に出航し二月二十一日に上海へ着いています。当サイトの千秋丸のページには千歳丸の上海行きと思われる記述が入っていますので、あわせて注記しておきます。

同じ名前の船について

幕末の船は売り買いで持ち主が変わることが多く、同じ名前が別の船に付けられることもありました。当サイトには、千歳丸と同じ(または近い)名前の船のページがほかにもあります。

  • 千歳丸(久留米藩・商業用蒸気船・蒸気)—要目が違い、名前が同じ別の船と考えられます

千歳丸を船の型と持ち主から読む

千歳丸は蒸気機関を持たない帆船で、風の力だけで海を渡りました。(帆船と蒸気船の違い)船種は「バーク級輸送船」。後ろのマストだけに縦帆を張る3本マストの「バーク型」の帆装を持つ人や荷を運ぶ輸送船です(帆の張り方・軍艦の格)。

当サイトで紹介している江戸幕府の船は、この千歳丸を含めて39隻あり、そのうち帆船は17隻です。同じ江戸幕府の船には、大江丸(輸送船)、開陽丸(シップ級フリゲート)、豊安丸(輸送船)、長崎丸(輸送船)、震天丸(輸送船)、高雄丸(砲艦)、龜田丸(スクーナー船)、函館丸(スクーナー帆船)などがあります。

参考資料:Wikipedia日本語版「千歳丸 (曖昧さ回避)」、Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。

同じころの幕府—文久の遣欧使節

ヨーロッパへの使節 千歳丸が上海へ送られた文久二年(1862)、幕府はヨーロッパにも使節を送っていました。正使・竹内保徳を代表とする文久遣欧使節です。一行はフランス・イギリス・オランダ・プロイセン・ロシア・ポルトガルを回り、開港・開市の延期を各国に認めさせました。この使節には若き日の福沢諭吉や福地源一郎も加わっています。

海外を見た人々 上海へ渡った千歳丸には、長州の高杉晋作や薩摩の五代友厚らが乗っていました。同じ年に、幕府の役人はヨーロッパを、諸藩の若者たちは上海を見て、外国の現実を知ったのです。

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