| 函館丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | スクーナー帆船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 有(再現模型船)/スケッチ | ||
■ 詳細
箱館丸は、幕末に箱館奉行所によって建造された西洋式帆船です。日本で建造された初期の洋式船の一例で、姉妹船の「亀田丸」とともに箱館形と称され、大野藩所有の「大野丸」も同型船です。実用性に優れており、箱館奉行の交代や日本各地の測量などに用いられました。
所属した江戸幕府と、日本人が造った「箱館丸」
この船・函館(箱館)丸は、江戸幕府の箱館奉行のもとで生まれた洋式帆船です。じつはこの船には、注目すべき由来があります。
箱館の船大工・続豊治(ぞくとよじ)が、外国船を見よう見まねで研究し、日本人の設計・技術で完成させた洋式帆船だと伝えられるのです。西洋の力を借りず、独学で近代の船を造り上げた執念は、幕末の日本の底力を示しています。箱館という土地の物語は五稜郭のページもどうぞ。
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続豊治は、来港した外国船を実際に見て学びました
続豊治は寛政十年三月の生まれで、二歳で船大工の家の養子となり、六歳で箱館へ移りました。十四歳で藤山勘八に造船を学び、十八歳で一人前になったといいます。洋式の船の造り方をどう身につけたかについては、はっきりした記録が残っています。安政元年、箱館奉行の異国船応接方の従僕となって、来港した外国船に近づく機会を得たのです。見よう見まねという言い方は、この意味では正確でした。のちに船大工頭取へ昇り、明治十三年三月に八十二歳で世を去っています。
大きさは、資料で割れています
勝海舟の記録は長さ十八間・幅四間、城澤朝吉の記録は長さ二十四間余・幅五間余とし、ほかに全長二十九メートル・五十六トンとする資料もあります。二本マストのトップスル・スクーナーで、帆は八枚から九枚。安政四年七月に箱館の築嶋で竣工し、進水式には箱館奉行の堀利煕が臨みました。豊治はこのとき数えで六十歳です。
測量と交易に使われました
安政四年十一月二十四日には堀利煕の江戸帰りに使われ、その後は各地の測量に回りました。のちに郵便の制度を作る前島密も、測量役としてこの船で七か月かけて日本を一周しています。塩引き鮭などを積んで四千五百両の利益を上げた航海もありました。明治二年九月、樺太のアイロップに碇泊中に暴風雨で大破し、焼かれています。
亀田丸と大野丸
箱館形と呼べるのは龜田丸との二隻で、大野丸は同じ型ではあっても別に造られた船です。亀田丸は安政六年十月の竣工で四十六トン、文久元年の四月から八月にかけて武田斐三郎に率いられてアムール川の方面へ渡り、ニコラエフスクで絹や醤油を売りました。日本で最初の見本市の船だといわれます。大野丸のほうは越前大野藩の船で、安政五年六月に川崎の稲荷新田で栖原長七が造り、およそ一万両かかりました。元治元年八月二十四日、択捉島へ鮭を積みに向かう途中、根室の沖で座礁して沈んでいます。乗っていた者は伝馬船で逃れ、全員無事でした。
復元された船が、港にあります
昭和六十三年の青函トンネル開通記念博覧会にあわせて箱館丸の復元船が造られ、博覧会のあと続豊治の子孫が買い取って函館市へ寄贈しました。いまは函館港の西ふ頭に、陸へ上げて置かれています。

