| 第一長崎丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気外輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 60馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||

原名「ビクトリア」。長崎丸には同型艦が二隻有り、全て1863年イギリスから幕府が購入しました。第一長崎丸は元治元年十二月二日八丈島で難破。
所属した江戸幕府と、勝海舟
この船・第一長崎丸を運用したのも、江戸幕府です。幕府海軍を語るうえで欠かせないのが、勝海舟その人でしょう。
勝は長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸で太平洋を渡り、神戸に海軍操練所を開いて人材を育てました。そして幕府の最期には、西郷隆盛と会談して江戸城の無血開城を実現し、江戸を戦火から救います。第一長崎丸は、その勝が支えた幕府海軍の一隻でした。全体像は幕末の軍艦のページへ。
長崎丸は、三隻あります
この船を読むには、まず整理が要ります。幕府の長崎丸は少なくとも三隻ありました。長崎丸、第一長崎丸、そして長崎丸二番です。第一長崎丸は文久三年二月に長崎で受け取った鉄製の蒸気外輪船で、六十馬力、九十四トン。原名はビクトリア。元治元年十二月二日、八丈島で難破しました。何人が亡くなったのかは分かりませんでした。
もとの長崎丸は、味方に撃たれて沈みました
三隻のうちもっとも知られているのは、最初の長崎丸です。千八百四十六年のイギリス生まれで、文久三年二月に長崎で四万八千ドル、百三十八トン。この船が沈んだのが、長崎丸事件と呼ばれる一件でした。文久三年十二月二十四日、薩摩藩に貸し出されて関門海峡を通っていたところを、長州藩の前田砲台と壇ノ浦砲台が撃ちました。乗っていた六十八人のうち二十八人が亡くなっています。撃ったあとで薩摩の船と分かった、と伝えられますが、八月十八日の政変で長州が京都を追われた直後のことでもあり、報復だったのではないかという見方もあります。
集成館の人が、亡くなっています
死んだ人のなかに宇宿彦右衛門がいました。島津斉彬に抜擢されて反射炉の開発にあたった、集成館事業の中心にいた技術者です。積荷は繰綿六百本、荏子油十挺、化学薬品、そして御用金百五十両でした。近くにいた大麻丸が救助にあたり、多くを助けています。大正十年八月に招魂碑が建てられ、碑文は松方正義が書きました。攘夷を叫んでいた二つの藩が、海峡で撃ち合った事件です。
長崎丸二番は、飛島で座礁しました
三隻目の長崎丸二番は、文久三年十月に長崎で十万ドル、百二十馬力、三百四十一トン。慶応二年には翔鶴丸とともに老中の小笠原長行を小倉へ運び、戊辰戦争では榎本の艦隊に加わりました。最後は庄内藩を助けるため酒田へ向かう途中、飛島で座礁して沈んでいます。酒田市の資料は明治元年の出来事とし、勝浦港の沖にいまも残骸が残ると書いています。沈んだ年を明治二年とする記述も見かけますが、裏が取れませんでした。同じ名の三隻が、それぞれ別の終わり方をしています。
第一長崎丸を船の型と持ち主から読む
第一長崎丸の推進は外輪(外車)で、両舷の大きな輪が水をかいて進みます。外輪船は浅い水でも走りやすい一方、輪が砲撃の的になりやすく、軍艦としては次第にスクリュー船に置きかわっていきます(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。
当サイトで紹介している江戸幕府の船は、この第一長崎丸を含めて39隻あり、そのうち帆船は17隻です。同じ江戸幕府の船には、開陽丸(シップ級フリゲート)、豊安丸(輸送船)、長崎丸(輸送船)、震天丸(輸送船)、高雄丸(砲艦)、龜田丸(スクーナー船)、函館丸(スクーナー帆船)、君澤形丸(スクーナー帆船)などがあります。
持ち主の江戸幕府の幕末をふり返ると、幕府海軍。戊辰戦争では榎本武揚が艦隊を率いて箱館へ渡り、明治2年に降伏。第一長崎丸も、そうした幕府の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
同じころの幕府—小笠原諸島の回収
太平洋の島々
第一長崎丸が幕府の船となった文久年間、幕府は太平洋に浮かぶ小笠原諸島を日本の領土として確かめる仕事に取り組んでいました。文久元年(1861)の暮れ、外国奉行の水野忠徳らが咸臨丸で小笠原へ渡り、島に住んでいた欧米系の住民たちに日本の領土であることを告げて、開拓の役所を置きます。
伊豆の島々
このころ幕府は、伊豆七島などの島々との行き来にも洋式の船を使い始めていました。第一長崎丸が八丈島へ向かったことも、こうした島々の守りと結びついていたと考えられます。洋式の船は、日本の海の境を守る道具にもなっていたのです。



