| 千秋丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | バーク級商船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||

千秋丸は、江戸幕府が外国から買った三本マストの帆船で、輸送船として使われました。原名や建造年、トン数、購入の経緯は分かっていません。確かな出番として伝わるのは、文久三年の将軍徳川家茂の海路での上洛に随行したことです。
千歳丸と取り違えられやすい船です
ヘンリー・リチャードソンという名のイギリス人は、幕府が文久二年に上海へ送った千歳丸、原名アーミスティスの船主であり船長でした。長崎奉行がこの船に乗り込んで検分し、三万四千ドルで買い取ったという経緯が、アメリカの研究者ジョシュア・フォーゲル氏の著書に記されています。高杉晋作・中牟田倉之助・五代才助らが幕臣の従者として乗り込んだ上海行きも、その千歳丸のことです。千秋丸を「リチャードソンから買った艦齢二十余年の船で、高杉晋作らの上海行きに使われた」と説明するものがありますが、これは千歳丸の経歴と混ざったものとみられます。
なお「艦齢二十余年のボロ船」という評も、千歳丸には当たりません。同船は1855年にイギリスのサンダーランドで造られており、文久二年の時点で船齢は七年でした。当時の英字新聞は、船材も円材も最良で、この大きさの船としては異例なほど小綺麗だと評しています。
では、千秋丸とは何か
千秋丸という船が幕府にあったこと自体は確かで、幕府海軍の艦船を並べた一覧の、外国から買った輸送船の項に名が載っています。ただしそこには船名しか書かれておらず、原名も建造年もトン数も購入の経緯も分かりません。
確かめられた数少ない出番が、文久三年に将軍徳川家茂が海路で再び上洛したときの随行です。翔鶴丸や朝陽丸、長崎丸、幡竜丸などと並んで千秋丸の名が挙げられており、十二隻の艦隊が品川沖を埋めたと伝えられます。
千秋丸を船の型と持ち主から読む
千秋丸には機関がなく、帆だけで走る船でした。石炭を積まないぶん、船倉を荷や人に使えます。(帆船と蒸気船の違い)船種は「バーク級商船」。後ろのマストだけに縦帆を張る3本マストの「バーク型」の帆装を持つ人や荷を運ぶ輸送船です(帆の張り方・軍艦の格)。
当サイトで紹介している江戸幕府の船は、この千秋丸を含めて39隻あり、そのうち帆船は17隻です。同じ江戸幕府の船には、開陽丸(シップ級フリゲート)、豊安丸(輸送船)、長崎丸(輸送船)、震天丸(輸送船)、高雄丸(砲艦)、龜田丸(スクーナー船)、函館丸(スクーナー帆船)、君澤形丸(スクーナー帆船)などがあります。
持ち主の江戸幕府の幕末をふり返ると、幕府海軍。戊辰戦争では榎本武揚が艦隊を率いて箱館へ渡り、明治2年に降伏。千秋丸も、そうした幕府の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
参考資料:Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。
同じころの幕府—オランダへの留学生
初めての海外留学 千秋丸が将軍の上洛に随行する前の年、文久二年(1862)九月、幕府は初めての海外留学生をオランダへ送り出しました。榎本武揚・赤松則良・内田恒次郎ら海軍の士官と、医学の伊東玄伯・林研海、さらに職人たちを含む一行で、注文した軍艦・開陽丸の建造に立ち会いながら、航海や造船、医学などを学びます。
学んだ人々のその後 留学生たちは開陽丸とともに慶応三年(1867)に帰国し、幕府海軍の中心となりました。明治になると、その多くが新政府の海軍や造船、医学の分野で働いています。幕府が船とともに人を育てようとしたことが、明治の日本を支える力になったのです。



